聖夜の霹靂
使用したお題『林』『クリスマス』『意図的な大学』
一年で一番賑やかな祭礼の宴、冬至祭を終えた朝から数えて二つ目の夜からは、聖歌を歌う。それも、十三日間歌声を絶やしてはいけないらしい。
宗教的なミッションを持つ大学と、その付属の学園はその為に作られたと言っても過言ではない。
四年生、十三歳になったばっかりの俺は、その聖歌隊の後方にいた。もうすぐ引き継ぎの時間だ。あとどれくらいかな、と時計を見ようとして、ふと。
同学年の列の中で、コホン、コホンと苦しそうに咳をしているアルマの姿を見つけた。
「おい、おい。アルマ、大丈夫か?」
列の間をこっそりと抜けて声を掛けに行くと、フルフルと、頭が揺れた。
「こっち、ほら」
腕を引いて列から抜け出した。
「駄目だよ、見つかっちゃう」
「こうすりゃ大丈夫だって」
俺はアルマの上着の襟首をつかむと、強引に上に引っ張って脱がせた。
天使のような白い聖歌隊のローブを脱ぐと、下は真っ黒い修道服みたいな制服だ。
ランプもないこの状況では夜の闇に紛れて目立たないだろう。
俺も脱いでしまうと、チャペルの脇にこっそり丸めて置いた。
「あんだけいるんだから、大丈夫だって」
うぅ、と呻いて口元を押さえるアルマを引っ張って、そのまま小走りに駆け出した。
寮まで戻れば、寮監がいるし、そうでなくても校医の先生がまだ校舎にいるはずだ。
「具合悪いんなら寝てればよかったじゃないか」
クラスメイトの中にも今晩は欠席の奴が何人かいる。
「それともあれか、声変わりか。成長期か」
俺はまだ声変わりはしていない。子どもっぽい甲高い声は納得いかないけれど、音域の高い聖歌を歌う分には有利なので、まあいいと思っている。
「歌うのに辛いっていうもんなあ」
「――――うるさいっ」
不意に、腕を振り払われた。
ばちん、っと鞭のような痛みが走る。ってえ、と思わず叫んだ。何すんだよ、と頭に血が上り
「うるさい、うるさい、うるさいっ」
今にも泣くのを堪えているようなその顔に、ぎょっとした。
「お前なんかに何がわかる。おまっ」
ふらりと、不意のその体が揺らめいた。
咄嗟に抱き留めると、酷くその体は熱かった。
「わかった。わかった。俺が悪かった。謝るから、泣き止んでくれよ」
片手でその体を支えたまま、ぽんぽん、と背中をあやすように叩く。
アルマはこっちの肩に額を預けたまま、固まって動かなかった。
ひゅう、と幽かな音がその内聞こえてきた。
ひゅう、ひゅう、ひゅう。
飛び切り冷たい風の中で、口笛を吹いているような、その声はアルマの喉から聞こえていた。
「アルマ、アルマ、おい!」
慌てて辺りを見渡す。
林の中だ。
何処にも校舎の影も、寮の明かりも見えない。学園を取り込む巨大な冬枯れの迷路の中に潜り込んでしまったのだ。
「しっかりしろよう、今俺がどこか連れてってやるからな」
喉を押さえて固まっているアルマを引っ張って、どうにか進もうとする。
けれどその体は重くて一歩も前に進まなくて
「―――学園の、子だね」
低い声が、林の奥から聞こえてきた。
皮の胸当てに毛皮の外套を羽織り、片手にランプ、もう片方の手に弓を持ったその男は俺たち二人を一度素早く交互に見て
「喘息か」
颯爽と駆け寄ってきてアルマに尋ねた。
コク、と小さな応答があった。
「薬は?」
「ない、です。俺達聖歌隊で」
そうか、と答えた男はアルマの肩を押さえて座らせると、腰に下げた水筒を取り出した。
ぽちゃんぽちゃん、と角砂糖が二つ落とされる。
「飲みなさい。珈琲だ。気管が広がって呼吸が楽になる」
口元に水筒の蓋をあてがい、ゆっくりゆっくり飲ませる。
今度何かあったら、珈琲を飲ませよう。俺がこっそり決意していると
「君も飲むといい。コップはないが」
皺だらけの手が、水筒をぐいっとこちらに突き出した。
でも、それは彼の分ではないのだろうか。そう思って躊躇っていると
「君も顔色が真っ青だ。突然の事態に緊張したのだろう」
そう言われて、両手も、唇も、酷く冷えて震えていることに、不意に気付いた。
「俺は壁守だからこの辺りの事は熟知している。何も心配はいらない」
皺だらけの顔が、僅かに歪んだ。笑ったのだ。
有難く珈琲を受け取ると、喉にも皮膚にも、温かく沁みていく。
そうだ、寒空の下で歌いっ放しだったんだ。
壁守、とアルマが小さく呟いた。
大分回復したらしいその顔に、言いようのない冴え冴えとした色が広がっている。
男も皺だらけの顔でアルマを見つめていた。
「そうか、君は知っているのか」
アルマの呼吸が詰まる。また、ぜんそくの発作が起きているのかと、ひやひやする。
「そう言えば、壁守って何なんですか?」
場を取りなすように、俺は聞いた。
「……学園の壁を守っている」
林の中にパラパラと点在する校舎。だだっ広い学園の敷地を取り囲む壁があるのは知っている。入学するときに見たからだ。その時一度だけだが。
「ってことは、この近くに壁があるんだな」
何の気なしに俺が言うと、ぱっとアルマが立ち上がった。
「おい、アルマ、おい!」
どしんっとアルマが男に体当たりをした。突然の事に反応が遅れた男が仰向けにひっくり返る。
「すいません、なんかあいつ今日はおかしくて」
駆けだしたアルマと男のどっちを優先するべきか一瞬悩み、ひっくり返った男の方を優先する。恩人だからだ。
「おじいさん相手に、何すんだよって感じですよね」
手を引っ張って起こそうとして
「俺はまだ、二十五だよ」
二十五……歳?
学園を卒業するのが、確か二十二歳。
たったそれから三年しか、たっていない?
「ついでに言うなら、俺もこの学園の生徒、だった」
不意に俺はその手に刻まれたものが、皺ではなく傷跡だということに気づいた。
顔にあるのも、同じく。
幾重にもついた傷が、皺の様に顔全体を覆っていた。
「壁はあっちだ。君の友達も恐らくそこに」
声は、まるでさっきまで成果を歌っていたように穏やかに澄んでいて
「何を思うかは、君の自由だよ」
傷だらけの指が示す方向へと、俺は走った。
「アルマ!」
アルマは壁に掛けられた梯子を上っていた。
「おい、お前今日おかしいぞ!いつも、何かもっとこうのほほんと笑ってただろ!」
慌てて追いかけて登る。
「冷静で勉強もよく出来て!なのに、なんで」
言葉が続かなくなる。見てしまった地上が、思った以上に遠くて。
「僕を信じて、お願いだから付いてきて」
振り返ったアルマが言う。
伸ばされた手に縋りながら、どうにか残りをあがり切り
「……なんだよ、これ」
壁の向こうには、無数の雷が地上で輝いていた。
赤、青、黄色、桃色に、橙色。
西と東に二つの高い塔。
一つは三角で赤く、もう一つは緩やかに捩じられつつ、青と白に燃えていた。
そして俺たちの頭の上を、ソリが飛んでいく。
「なんだよ、これ。怖いよ」
夜を蹂躙し尽くそうとする無数の雷に、目が恐怖で濡れる。
学園の林の夜の暗さが
暖炉の灰の温もりが
ランプの明かりが
毎日陶板が交代で作る食事が
男子学生とわずかな教職員だけの学園が
ただただ、恋しかった。
「降りよう。学園へ戻ろうよ」
俺は泣きながら、アルマへ懇願した。
「うん、……今はまだ、そうしよう」
そして俺達は無言で壁を降りた。
壁を降りたところには、壁守の男が、壁にもたれて待っていてくれた。
傷だらけの顔の下の若い瞳が、爛爛と光り輝きながら、俺達を見ていた。
さっきの、地上の雷に、よく似ていた。
「寮への道を教えよう、ついておいで」
俺は壁守について歩きながら、ふと壁を見た。
……この壁は、一体何のために、あるんだろう。
この時はまだ、誰もその疑問に答える事は出来なかった。
この時はまだ。