最強拳士と正義の裁定者
「カッ……ハッ、ハァ……」
動きやすい皮革外套の拳闘士。逆巻くように燃えるような赤色の髪をした男――ジェネシスは、肺の中で張り詰めた鉛のように重い息を吐き出した。
乙女座の迷宮が出現することが噂されている洞窟近くの森の中で、すでにHPゲージの色は鮮やかな赤。瀕死とも言い換えられる状況の中で、未だ目の前の立ち向かおうと立ち上がる。
相対するのは黒いベールで顔を隠し、背中に大きな純白の翼を生やした有翼の少女。頭上に浮かび上がるネームタグは『Astraea』。ギリシアにおける正義の女神、アストライアーである。
アストライアーは腰に身の丈に合わない大きな剣を提げており、黒いベールの下から見下すようにジェネシスを見下ろしている。その御姿はまさに【神】と呼べるものだ。
「チッ、こりゃ面倒くせェなァ……」
愚痴を零すのも仕方のないことだ。自分の繰り出す攻撃の一切を、なんの予兆もなく消し飛ばされていれば、如何なる聖者であっても悪態のひとつを吐きたくなるだろう。
なにせ近接に持ち込めない上に、遠距離戦での射程も負けてるときた。負けイベントのラスボス感漂う女神相手に、勝てる見込みなど絶無に等しいだろう。
おそらくレイドボスクラスの彼女に、先程から幾度も突貫を掛けているのだが、一向に成功する気配が見えない。
「――貴方は、悪? それとも、正義?」
「うるっせェよ。テメェ、さっきからそればっかじゃねェか。テメェの辞書にはそれしか載ってねェのか?」
何かに付いては必ずこの問いを投げかけてくる。そろそろうんざりしてきたところだ。
とは言ってもこの少女と相対することになった理由は、完全に此方側に非があるようなものだ。
――少一時間前。
乙女座の迷宮が出現すると予想だてられた地点に向かっていたジェネシスは、通常の熊よりも一回りほど体格の大きな熊型モンスター『キリングベアー』と戦闘を行なっていた。
キリングベアーは重量級で、打撃が強いかわりに小回りが鈍く、拳闘士一人でも充分倒せるほどの高経験値モンスターだった。
当然、拳闘士の頂点と言ってもいいジェネシスは、いつか目標の彼女に辿り着くための糧として、レベリングに邁進し戦闘を開始した。――そこまでは良かった。
「……あァ?」
キリングベアーの懐に入り込み、生々しい一撃を入れようとした矢先、熊の頭が胴体から離れていくのが視界に入った。
倒れていく胴体。
飛んでいく熊頭。
現れる少女のシルエット。
「おいテメェ……!」
最初は質の悪い経験値泥棒だと思っていた――しかし、纏う雰囲気が、禍々しいものだと気付いた時には脇腹が抉れていた。
「ガフッ?」
体の一部を抉られた男は、力を失くして横へと倒れ崩れる。まるで蚯蚓のようにのたうちまわる様を睥睨している少女は、柄に天秤が付いた剣をシャリンと地面に突き立てる。
そして品定めをする商人のように、あるいは己の正義を布教する狂人のように、痛みを抱えた男へと問いかけた。
――貴方は悪? それとも正義?
それから痛みを堪えながらもアストライアーへと突貫し、気付けばHPゲージが赤く染まっていたことに気付きたのは10秒ほど前のことだった。
「――ガッ!」
まただ。また、見えない刃が体を裂いた。確認できない不可視の攻撃。まるで透明な死神が、目の前で鎌を携えているような恐怖が
自身の所属するギルドのチャットに避難信号を送ったが、情報収集をしている彼達が気付いてくれるまで、自分が持ち堪えられる姿を想像できない。
この場において最上位存在たる目の前の彼女が、その気になれば一プレイヤーである自分なんて吹き飛ばされてしまうだろう。何度もそんな情けない考えを連想してしまった。
「――使ってるのはおそらく風魔法。吹き飛ばすんじゃなくて掻き飛ばす感じ。見た感じだと剣を突くのが攻撃モーションか。なら空拳を使って剣を突く前に当てればうおッ!?」
脳内に散乱していた知識を纏め、次の攻撃に備えようとしていたジェネシスに、地面から湧き出た風の柱が襲い掛かる。間一髪で避けることに成功し、纏めた思考の一部を訂正する。
「――訂正。剣を突くのはモーションじゃねェな」
剣を突くモーションが攻撃の前兆じゃないとすると、見た感じでは攻撃の予兆がないようにも思える。となると風属性特有の不可視の攻撃をただの勘で避けなければならないということではないのだろうか。
――あれ、無理ゲーじゃね?
そもそも不可視の攻撃を勘で避ける、なんて発想自体が人外のそれを極めている。
不可視というのは文字通り、目で視ることが不可能なもののことを差す。それをわざわざ視覚で感じ取ろうなんて、バカバカしいにも程がある。
ならば何で対応するか。
まずは聴覚。風音が聞こえた時には顔が分断されているだろう。そもそも聞くだけで座標を割り出すなど幻想だ。
次に嗅覚。匂いの強さである程度の座標は割り出せるが――それまでだ。近距離まで持ち込まれると戦いづらいを通り越して、詰んでしまう恐れがある。
味覚は論外。ならば後頼れるのは触覚だけなのだが――
「ンな、ジゼルじゃあるめェし――おい」
苦虫を噛み潰した後、すぐに我に戻ったような表情になり、己の顔を思い切り引っ叩いた。バキィ! と人間からしたと思えない音が残響し、ジェネシスのHPゲージをさらに細かく刻んだ。
「いまオレは何て言った? ジゼルじゃあるまいし、だァ?――ふっ、ざけんじゃねェぞゴラァァアアア!!」
怒りの怒号が森に響く。
憤怒に燃える男は数秒前の自分を超克し、自身よりも強者である目の前の少女を前に弱り切った自分をぶん殴り、挙句に死体蹴りまでかまして、蛍火になりかけた闘志を燃焼させる。
「これじゃあまるで、このオレがジゼルに負けてるみたいじゃねェか! そんなの……、ンなのゼッテェ許せるかってんだ! いいぜェ。やってやんよ! 悪いがテメェには実験台になってもらうぜェ!」
前進。前進。また前進。
抱いていた恐怖を、畏怖を、そしてを危惧をかなぐり捨て、獰猛な笑みをもって女神相手に爆進する。その姿はまるで理性のない獣のようだ。
「 無駄 」
たった一言。それだけで大地が抉れ、荒れ狂う凶刃がジェネシスへと迫る。本来なら体ごと引き裂かれ、死ぬまで再起不能に陥るところだ。――しかし、それをどうにかせずして何が最強か!
「――ラァ!」
第二回イベントでジゼルが見せた、反射神経と決断力を兼ね備えた神技。『ギガントレオ』所属の斥候――ネームはたしか、アヤメとか言う忍者女との対戦で見せつけた技術の応用。
「『空拳』殺法術」
あれは高速で走る可視の敵を仕留めるための技術だった。なら自分がするのはその上位互換。曰く、『不可視の刃との剣戟』だ。
「一の型――『荒舞』」
手のひらに出現した空気の球が凶刃を往なし、その上を通過していくことでジェネシスは間一髪避けることに成功する。ちなみに二の型以降はない。
「まだまだァ!」
さらに二回、三回と避け、曖昧だったその回避を、より確実なものとして固形化し昇華させていく。
「……ッ!」
これには流石に驚いたらしく、アストライアーは半歩退いた。しかしすぐに一歩を前へと踏み出して、交戦の姿勢を取った。
「無駄、だから……。来ないで。――来るなッッ!」
「――ッ。ガ、ァ……」
腹に強烈な一撃を喰らった。
どうしようもない痛み。吐き気を催すような激甚な刺激が、ジェネシスの腹を貫いては引いていく。すぐに止まってしまった足に気付き、走らせようとするが、それよりも先にアストライアーがジェネシスへ風刃を繰り出した。
「ゴぶッ」
変な声を上げ後ろへと吹き飛ばされる。木にめり込んで倒れる。格好だけを見ればとてつもなく情けない姿だ。しかし、その顔には余裕のある不敵な笑みが浮かんでいる。
「へ、へへっ……。どうやら近距離戦は苦手みてェだな。これでようやく合点がいったぜ」
「フーッ! フーッ……?」
「オメェ、もしかしなくても極度な人間不信だろ?」
ジェネシスの何気ない言葉に、アストライアーの目は大きく開かれた。どうやら図星らしい。
「できねェことはねェが、したくねェ。それがテメェを弱らせている原因……もっと言えば、正義だか悪だかを主観で決めつけようとしている原因だ。正義の女神サマってのは、他人の正義を尊重してこそだからなァ」
「黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ。貴様に何がわかる? ワタシに近くことで何ができる? できるわけがない。何もできはしない。だから殺す。だから裁く。裁くのはワタシだ。貴方達は裁かれるべき殺害者だ!!」
シャリンッ。鈴が転がるような音とともに、地面を裂く風の刃が解き放たれる。それらは真っ直ぐにジェネシスへと突撃し、彼の体を切り裂かんばかりに追従する。
――しかし、それでもジェネシスは笑っていた。
「――ケッ、悪いが、テメェを殺すのはオレじゃねェよ」
すこし不機嫌そうな苦笑を浮かべて。
ジェネシスの前に四つのポリゴンが出現する。その一つが風の刃を吹き飛ばし、倒れるジェネシスを庇うように身の丈に合わない杖を構えた。
一人は銀。杖を構えて詠唱を口ずさんでいる。
一人は金。弓を背に剣を腰に提げて女神を見ている。
一人は黒。クナイを構え、己が主を守らんとしている。
一人は青。魔導書を宙に浮かせ、周りを見渡している。
「――さて。ねぇねぇトラブルメイカー、無事?」
「一番の問題児がそれを言うか」
「あいたっ。頭打たないでよカナデ!?」
「まったく、主人様はこんなときにも……」
「あれ、これわたしが悪いのかな?」
「今回はジゼルさんが悪いとは思いますが」
「味方がいない!?」
到着早々、味方に切り離された哀れな少女。気を取り直すように咳をして、目の前の女神を細めて見つめる。
その瞳には興味の感情しかなく、敵意とか殺意とか、そんな憎々しい感情は一切乗っていない。強者の匂いがぷんぷんすふ女神を前にそんな表情をできるのは、やはり強者の余裕というものだろう。――だからこそジェネシスは、そんな顔を歪めてみたいと思ったのだから。
「それで、アレが敵?」
「……あァ。悪ィ。不覚を取った」
「あはははっ!……ざまぁ」
「おい今何て言った腹黒」
「うるさい黙ってて怪我人――あとは任せて」
「……ハァ。任せた」
最強は最凶へと後を託す。
苦い思いを抱えることになるが、そうしなければいけないし、そうでなければならない。女神を殺せる神殺しは、今の自分には務まらない。それでもこの女には最適だろう。
それなら、託すほかに選択肢はない。
「よぅし。よくもうちの切り込み隊長を痛ぶってくれたねよくやっ……こほん。いや、まぁ、だから……次は貴女の番だよ?」
ジゼルの目が紅く染まる。
ジゼルの基本戦闘態勢、過負荷状態だ。感情が昂ることで作動するシステムを、意志の下で逆用した極度の幸薄にのみ許された神の祝福。
VR戦闘時の本気モードになったジゼルは、『宝瓶の鍵杖』を取り出して、相対する女神を睨みつけ見据える。
「――あなたは悪? それとも、正義?」
「……少なくとも、あなたから見たら悪だよね。……だって、これからわたしは、あなたと戦うんだから!」
正義か悪か。悪か正義か。
そんなの殺し合いという狭い度量で推し量れるほど、小さい概念ではないだろう。少なくとも再び世界規模の戦争が起こらない限り、差別化することは許されない。だから区別してはならない。
――何故なら、
「結局のところ、最後に勝った方が正義だからね」
ジゼルは爛々と目を光らせたまま、八重歯を剥き出しにして野生的な笑顔を見せた。




