運気0の歓喜
怒りに駆り立てられた雌獅子が、闘技場を縦横無尽に駆け回る。
その肢体に無駄はなく、しかしデータ体とは言え鋼のような筋肉が付いている線の細い体は、小さく儚く、触れば壊れてしまうくらいに弱そうなのだが、見た目以上に激しく体動して、同じ名の男を翻弄している。
ジゼルが相対しているのは、アイテムやコマンド、コードを用いてシステムの一部を自分の思うように書き換えている、所謂『ハッカー』、あるいは『チーター』と呼ばれる卑怯者だ。
見当がついているチートは2つ。ジゼルにさえも感覚を伝えさせず、目が追いつかない速度で走る『超高速移動』。そしてどの程度かはわからないが、彼がジゼルを煽る時にネコ耳を生成した『アイテム創造』。
目で追いかけられなくなるくらいで対処が出来るだけ、『超高速移動』はまだ良い。厄介なのは『アイテム創造』の方だ。ポーションなんて出されたら、ジゼルは永遠に攻撃をし続けなければならなくなる。
それはスタミナ的な問題で、避けなければならないことだ。
「これが……チートを使っていないプレイヤーの速さですかっ……!?」
「当たり前じゃない」
殺るなら短期決戦。それも彼にチートを使わせない立ち回りをしなければならない。『超高速移動』で逃げられれば後はないが、しかし闘技場は少し小さい。何処へ逃げても追いつける。
【アースウォール】で壁を張り、それを足場にして背後へ回って斬りかかる。すんでのところで躱されるが、前へと倒れた拍子に男に向かって【ファイアボール】を3発ほど解き放つ。
1発、2発目は躱されるが、元よりそれはブラフ。1発目は右に逸れ、2発目は左に逸れる。しかし3発目はど真ん中。右にも左にも避けられなくした彼は、真ん中へと誘発される。
「くっ……」
彼が前に手を翳すとバチッと電撃が走り、鋼鉄の盾が生成された。持ち手を取ると3発目の【ファイアボール】を防ぐ。
鉄と炎が鬩ぎ合い、灰の煙が巻かれる。
「……なるほど」
見たところ生成速度はおよそコンマ1秒。初級魔法を虚数空間から実数空間へと取り出す時と同じ程度の速度だ。それくらいなら問題はない。
しかし盾を生成したと言うことは、武器を生成出来るのを提示したのと同義だ。つまり状況に応じて武器を変えてから可能性が存在する。
その時々に『武器を入れ替えられる』なんて、それこそジェネシスのようなプロでもなければ出来ない芸当だが、ジゼルは彼の練度を知らない。もしかしたら出来るかもしれない。偶々偶然出来る可能性だって存在する。むしろその可能性の方が高い。
「オッケー……よし行くよ!」
ならばその可能性全てを潰しに掛かるまで。
ふつふつと煮え滾る感情を押し殺しながら、しかし漏れ出る『怒り』に顔面を歪ませたジゼルは、形容し難い表情で彼を睨んだ。
獅子が獲物を見つけた時のように爛々とした目。ニィと口角を上げて狩人は嗤う。
「【ミストボール】」
手の平に螺旋を描いた空気の球を乗せ、野球の投手がするように大きく振りかぶって投擲する。
ジゼルの手から放たれた空気球は、男に向けて放たれたはずなのだが、まったく見当違いの明後日へと飛ぶ。しかしそれだけでは飽き足らず、闘技場内を縦横無尽に跳び始めた。
その光景は異様と言う言葉に尽き、しかし当たれば高ダメージが入る空気で跳ねる跳弾のようだが、無軌道に動いている以上動かなくても当たらない。
「……何処へ飛ばしたのですか? こんなの動かなくても当たらないですが……」
彼も同じことを考えているようだが、しかしそれはそれ。これはこれ。
【ミストボール】はルートを作らなければ、適当に動き出す魔法だと言うことも知っている上でジゼルは放っているのだから策を弄しているはずがない。
「そうだね……じゃあ、」
トーンっ。たった一歩で距離を詰める。
距離は零。無間の間に生まれた一時の刹那。
片刃の剣の切っ先は男へと向けられ、殺気に満ち満ちた思念が伝えられてくる。
――じゃあ、動ケ。
「――」
死神も真っ青な鬼気迫る表情で剣を持つ悪魔。言葉の内容は『少女の儚い願い』ではなく、『悪魔からの取引』だった。
刹那の内に取り交わされる、命を掛けた取引。
商品提示――完了。
契約――強制。
値下げ――不可。
乱暴なほどに横暴な、悪魔の一方的な取引。
主導権は完全に彼女にある。なんせ自分の命を提示しているのは彼女なのだから。
そこまで思考を回転させた男は、超高速移動を駆使してその場から離脱する。安全圏であったはずのその場から離れた男を襲うのは、実数空間内でリバウンドを繰り返す空気の球――【ミストボール】だった。
タイミングが良いのか悪いのか、跳ね返って来た空気の球は、超高速移動した男の身体を制御出来ない体の横腹目掛けて、回転しながら飛来する。
「――グフッ……!?」
回転した球体は、横腹を抉って空気中に消えた。
後に残ったのは抉られた衝撃で、横移動しながら地面に転がる。
闘技場全体が静かな雰囲気になった時、彼の脳内では封鎖されていた質問設問が弾丸のように飛び交う。だからしようとした。「先程の移動は何だったのか」とか。「ここまで計算していたのか」とか。
しかし出来ない。いや、出来なかった。
質問設問を提示するより先に、横腹の激痛が男の感情を上書きした。
本来のZDOなら絶対に有り得ない痛み。普段の痛み程度ならピリピリするくらいの細かく鋭い程度の痛みが、鋭刃で横腹を切り裂かれたかのようなズキズキした重い痛みが、段々と全身に広がる。
「がァアアア!?」
「……?……あぁ、やっと気付いたんだ」
攻撃を放ったジゼルには一瞬見当も付かなかったが、しかしこの場にいることを思い出して痛みの大元に辿り着くことが出来た。
この世界で感じる痛みは、痛覚制御装置……『PCU』と呼ばれるユニットによって制御されており、どんな高ダメージを受けても静電気並の痛みしか感じないようになっている。
だからこそ脳の『痛みを感じる機能』の一部分、つまり『VRを介した痛み』だけを和らげる機能を持ち合わせている。
けれどそれを外してしまえば――例えば剣で斬られれば、斬られた時に感じる本来の痛みを受けることになってしまう。炎属性の魔法を食らえば、火傷じゃ済まない程度の痛みを感じることになる。
昔、制御装置が起動せずに銃弾を撃ち込まれたプレイヤーが、2ヶ月ほど入院したと言う事件があったことを聞いたことがある。幸か不幸か、撃ち込まれたプレイヤーの異変に気付いた敵プレイヤーに処置を行われたが、この事件はVRゲームの一大事件として世間で騒がれた。
ジゼルがゲームをプレイしていない時期に、あまり興味を持てなかったのも、これが一つの原因として挙げられるだろう。
だからこそ、ジゼルの記憶媒体には深く刻み込まれていた。制御装置を外されたプレイヤーの、地獄にも似た苦痛の連鎖を。
「……い、たい……痛い、痛い痛い痛い!」
横腹を抱えて苦しみ悶える男を、睥睨する形で見下ろすジゼル。剣を腰より下に下げて、口も詠唱もせずに閉じている。
瞳は紅蓮に染まっていると言うのに、その紅は義憤や憤怒ではなく、文字に表すなら『無』だった。
何も感じず、されど何もしないジゼルは、彼女を見上げ誰かに助けを求める男にとっては悪魔や死神そのものだっただろう。
動かず言葉を発さず、諦観に徹していたジゼルは、男の体が痙攣してきた頃に、ようやく口を開いて声帯を震わせた。
「貴方が何のためにこのイベントに出場したのかはわからないけど、ここに来るべきじゃなかったんだよ。ズルして勝って、バレて苦しむなんて……頑張れって以外に励ましようがないもの。まぁ、わたしが貴方に憐憫の情を抱くことはないし、むしろ憎しみ続けるだろうから――」
ジゼルは黒く、にこりと笑った。
「――出来るだけ、長ぁく、苦しんでね」
――瞳の中に、真紅の歓喜を孕ませて。




