魔術と破られた約束
魔術回路の動作終了と同時に、涼斗は日菜乃の体を揺さぶる。
冷たい身体には、まだ熱が残っており、生きていることを証明していた。
「大丈夫か! 日菜乃! しっかりしろ!」
息はあり、意識もしっかりしているようだ。
しかし急な救出劇に、日菜乃は頭が追い付いていないらしく、目は開いていても、口が開かれることはなかった。
それから徐に涼斗の顔を覗き込む日菜乃は、疑問を宿した目をしていた。不思議そうに涼斗の顔を見上げており、涼斗は昼の一件もあり、直視することができなかった。
「大丈夫か? 寒くないか? どこか痛い場所は?」
身体が冷えているのか、先程から震えている日菜乃は、全く喋ろうとしなかった。
力が抜けていて、焦点があっていない様子だった。それだけ心身共に疲労していたのだろう。
日菜乃は涼斗の体にもたれるようにして、ボーっとしていた。
そんな日菜乃を、涼斗は守るようにして支えた。
周囲に通行人はいなく、いつの間にか対馬の姿も消えていた。
心から日菜乃を心配して、先程から黙り動けずにいる涼斗は、ふと日菜乃の体温の温かさに気付いた。
汚水に汚された制服越しに、日菜乃の体温が涼斗の肌へと伝わって来ており、熱でも持っているのではないかと思われた。
しかし心身共に疲れ果てている日菜乃には、ある違和感があった。
それは体中を駆け巡る魔力の流れが、とても活発であったことだ。
日菜乃の中の魔力は、まるで血のように体中を巡っており、日菜乃の体を支えているかのようであった。
魔力が病弱な身体の替わりを果たし、その力だけで生きているかのような感覚。
それは日菜乃が体内に宿す魔力が、涼斗自身のものとは比べ物にならないほど違っていることを示している。
そのことについて聞き出そうとした涼斗だが、瞬時にその思いはかき消される。
先程からおぼろげに涼斗の顔を見ていた日菜乃が、微かな嗚咽を漏らしながら声を上げて泣き始めたのだ。
そんな予想外の出来事に、涼斗はハッとさせられるのであった。
自分は今、日菜乃に触れているのだと。
昼間の日菜乃に対する態度や、日菜乃に抱いていた意識。
その全てが、今の涼斗にとっては恥ずべきものであり、そして省みるべき罪状なのだと考えられた。
だからこそ涼斗は、今だけは魔術も研究所も忘れて、しっかりと日菜乃に向き合おうと思った。
拳に力を込めて涼斗の服を握る日菜乃に、涼斗は何もすることができず、ただその姿を眺めていた。
半ば涼斗が、声をかけようかと迷っていた時、日菜乃が口を開いて何かを言い出した。
「ごめん……なさい。私、昨日強くなるって言ったはずなのに……こんな弱い姿を見せて……その上涼斗君に助けてもらって……」
昨日前田や杉本と共に結んだ、日菜乃の決意であり約束が、日菜乃自身に傷を与えてしまったようだ。
日菜乃は泣きじゃくりながら、そんな自分が情けないと、自嘲した。
生まれたその瞬間から不幸な環境で育った日菜乃は、どうやらそんな現状を嘆きつつも、そんな環境をひっくり返せない自分が、本心では憎くてたまらなかったらしい。
その後も日菜乃は、苦しそうに大声で泣き、涼斗に身を任せた。
やっと本心を解放できたのであろう。誰にも相談することができなかったのであろう。
そんな日菜乃の心が、似たような境遇の涼斗には容易に察することができた。
「日菜乃は何も悪くない。むしろ悪いのは俺の方だ。本当に申し訳なかった。俺がもっとしっかりしていれば、こんな事態にならずに済んだんだ。全部俺の責任だ。本当、ごめん……」
日菜乃の泣く姿をただ見ているだけでは、涼斗もじっとしていられなかった。
目を伏せて自らの不手際を責めて、日菜乃に対して素直な謝罪をした。
普段は訓練によって表情を変えない涼斗も、今回に限っては珍しく苦渋の色が現れていた。
そんな涼斗を、日菜乃は驚いたという風に見上げていた。
「俺が日菜乃を守ろうとしなかったからだ。互いの命を守らないといけないというのに……いや、今回に限ってはそれ以前の問題だ。俺が日菜乃に対して曖昧な態度で接するのが悪かった」
涼斗は自分を呪った。
約束も守らず、それどころか大事な家族のような存在に、しっかりと向き合うことが出来ていなかった。
そんな事態が涼斗にとっては恥ずかしく、そして日菜乃に対して謝罪をしたいと思っていた事だ。
だから涼斗は、日菜乃に向かって誠心誠意の謝罪をした。
そんな涼斗の言葉に、日菜乃は泣きながらも、本音で返事をした。
「やっと私を見てくれたんだね」
「ああ……すまない。今まで気づけなくて」
日菜乃は微かに笑うとそのまま涼斗へと手を伸ばした。
汚水によって濡れた手を、涼斗は両手で受け止め、包み込んだ。
「苦しかったよな。毎日いじめられては怒鳴られて、汚されては傷を負って。その上、日菜乃には痛みを分かち合える仲間が居なくて。つらくて寂しくて、悲しくて、死にたくなってしまうのは、俺もよく分かる」
日菜乃の気持ちを知った涼斗は、初めて奏多日菜乃という一人の人間と関わることが出来た。そう涼斗は思った。
ずっと日菜乃のことは知っていたのに、今の今まで日菜乃のことをまるで分かっていなかったと、涼斗は感じた。
だからこそ涼斗は、これからは日菜乃と共に過ごし、大切な仲間として時間を共有したかった。
同じ時間を共に過ごし、苦しみも喜びも共有して、全てを分かち合った先に、涼斗は穢れた研究の終末が待っているように感じられた。
そして涼斗は、日菜乃を探す際にずっと考え続けていた、日菜乃に対する思いを、素直に打ち明けようと思えた。
だから涼斗は、日菜乃の顔を見つめて言葉を紡いだ。
「俺が日菜乃の痛みを受け止める。だからこれからは俺に、日菜乃の痛みを別けてくれないか!」
そう言って、涼斗は日菜乃の手を強く握った。
言い切った涼斗は、静かに日菜乃の言葉を待っていた。日菜乃の表情は、やはり驚きというものであった。
そして日菜乃はもう泣いていなかった。
時の流れに取り残されたように、口を開けたまま涼斗の顔を見上げる。
それから小さく笑って、苦し気な表情を吹き飛ばした。
「ありがとう涼斗君。もう寂しくなんかない。苦しくないし悲しくもない。だから涼斗君、今からレコロに行こう。私が行くべき場所はあそこだから」
そう言って日菜乃は立ち上がり、涼斗に向かって手を差し伸べた。
どうやら悩みは解決されたらしい。日菜乃はまたしても初めて見るような、一番の明るい笑顔で、涼斗を見つめていた。
そんな日菜乃の手を、涼斗は静かにとって、立ちあがった。
それからもと来た道を振り返って、微かに口端を吊り上げた。
「そうだな。それじゃあ行こうか」
そのまま涼斗は、日菜乃の手の中からするりと抜け出し、真っ直ぐとレコロに向かって歩き始めた。
その姿は、頼もしくも思え、そして日菜乃にとっては少し恨めかしくもあった。
「でもね涼斗君、あの言い方は告白みたいだよ……」
はっきりと熱い想いを告白された日菜乃は、先を行く涼斗の背中を眺めて、そう吐き捨てた。それから不満気に頬を微かに膨らませてから、溜め息をついた。
涼斗が日菜乃に対して、恋人という関係を迫っているわけではないと、日菜乃は十分に理解できていた。だからこそ日菜乃は、寂しく感じており、そして涼斗を恨んでいるのだ。
だがそんな負の感情に、今は嫌な感情を抱いてはいなかった。