頼みごと
涼斗が空気の異変に気が付いたのは、学校に着いてすぐのことであった。
いつも通りの景色の中に、一つ浮き出た負の流れのようなものを感じた。
そんな原因不明の空間の乱れは次の瞬間、涼斗のすぐそばに迫って来た。
「よう、谷田。お前昨日の放課後、奏多と歩いていただろ?」
「そうだが。何か問題でも?」
乱れの原因である顔の知らない男に、平然を装い探りを入れる。
そして話し掛けられた理由は明白だったが、あえて知らないふりをする。
「お前、奏多とはどんな関係だ?」
「友達とか仲間とかそんな感じだ」
「本当か? 実は俺もあいつとは友達でさ、ちょっとだけ頼みがあるんだが……いいか?」
「頼みってなんだ? 場合によっては断るぞ」
涼斗の言葉に含み笑いをする男は、小声で話を続けた。
「実は先週、俺はあいつに金を貸した。だがあいつは一向に返そうとはしないんだ。そこで俺と協力してあいつから金を帰してもらおうってことだ。いいだろ?」
「断る」
「なんでだ? あいつを騙して、金を取る。それだけの話しだ。な、良いだろ?」
突拍子もない相談に、涼斗は考えた後に決断を出す。
「やっぱり引き受けよう。俺も金がなかったからな」
「そうか! それじゃあ今日の昼休みに図書館集合だ」
「分かった。ただしそれまでは何もするなよ。俺もあいつに恨みがあるんだ」
時は過ぎ昼休み。
涼斗は約束通りに図書館へと向かう……そう見せかけて道中であの男を待った。
そして男が廊下に現れたことを確認し、すぐさま涼斗は移動を開始する。
走る先は屋上。日菜乃と待ち合わせをした場所だ。
屋上には日菜乃がしっかりいた。
「待ったか?」
「ううん。今来た所。それよりいきなり集合場所を変えてどうしたの?」
「変な奴に目をつけられたからだ。そいつに後を付けられたら面倒だからな。そんなことはどうでもいい。今日もカフェに来てくれないか?」
涼斗が心底興味がないといった様子で、すぐに話題を本題へと移そうとする。
しかし日菜乃は納得できないらしく、しかめっ面で返事をした。
「さっき言ってた面倒な人って誰なの?」
「知らない奴だ。どうだっていいことだ」
「良くない! 私のせいで涼斗君に危険なことが起これば……」
「君付けか……まあ敬語じゃないし、悪くないな」
「そんなことよりも! 涼斗君がもしいじめの対象になったらどうするの?」
必死に怒る日菜乃の姿に、内心驚きつつも涼斗は素直に答える。
「いじめられたならそのことを口実にして不登校に……いや、不登校になれば色々と面倒だな。まあいずれにせよいじめられたとしても問題はないぞ」
「ダメ。説明になってないし、それに涼斗君はいじめられたらいけない。涼斗君は普通の人生を送らないといけない……自分の身を捨てるようなことはやめて。そこまでして私に関わわる必要はない」
日菜乃の言葉に、心の中では騙しているような感覚を覚え、少しだけ罪悪感を抱いていた。
しかし日菜乃がここまでして、他人の身の安全を考えている事から、涼斗は強い希望を感じた。
(俺が日菜乃を騙そうとしている可能性はまだ消えていないのに、日菜乃は自分の身の安全よりも、俺の安全を優先したのか……なるほど。これなら時間をかける価値はありそうだ)
日菜乃に対する期待と希望を胸に秘めつつ、涼斗は結論を出した。
「いじめだけで済むなら、俺は絶対に引っ込まない」
「どうしてそこまでして、私に関わろうとするの?」
「それはまだ言えない。だが近頃理由は話す」
「そう……」
涼斗の事務的な回答に日菜乃はがっかりしていた。
やはり不信感はまだ払拭されていないらしく、涼斗を見る日菜乃の目には、憂いが宿っていた。
だが信頼できない相手に対しても、自分の安全以上に相手の安全を配慮する気づかい。
そんな日菜乃の人格に、涼斗はある種の希望のような感情を感じた。
(もしかすると日菜乃は、こんな糞みたいな現状も、どうにかしてくれるのかもな)
微かに抱いた希望に、涼斗は目を覚まされた。
現実を見ようとする勇気を、教えられたよう気がした。
そして涼斗は日菜乃の顔を見つめた。
彼女がどんな表情をして会話をしているのか、気になったからであった。
しかし日菜乃は、暗く重たい眼差しで俯いており、涼斗が希望を感じている傍らで、悲しそうな表情をしていた。
そんな姿を見兼ねた涼斗は、先程の会話を振り返り、自らの反省点を探した。
否、探すまでもなく気が付いた。
恐らく日菜乃は、涼斗が詳細を説明しなかったことが、不安だったのだろう。それだけ他人を疑いの眼差しで見つめ、不信感を抱くようになってしまったということであろう。
涼斗はそんな現実を、やはり憎みながらも、平静を務めて日菜乃にできるだけ事実に近い説明をするよう、努力した。
「残念ながらこれは俺と日菜乃にしかできないことなんだ。ただでさえいじめられているのに、こんなことを頼むのは酷いことと分かっている。だが日菜乃以外、頼れる人間がいないんだ」
涼斗の言葉に耳を傾ける日菜乃は、顔を上げて涼斗の顔を覗き込んだ。
それと同時に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「もう戻らないとな。それじゃあまた放課後に会おう」
「……」
何も言わずに見つめてくる日菜乃を置いて、涼斗は教室へと戻った。
その後ろ姿を、日菜乃はぼんやりと虚ろな目で眺めていた。
(日菜乃は嫌がるかもしれない。正直、さっき話した感触だと、彼女は十中八九疲れている。いじめを受けている現状に。そして研究所にいた過去のトラウマに。それにあの様子だと、嫌われたかもしれない。もし嫌われたならば、店長と前田さんの苦労を水の泡にしてしまう可能性があるな……)
そう思い涼斗は苦しい心持ちになった。
やはり自分の力ではどうすることもできないのだろうか。