日菜乃
翌日の朝。涼斗はさっそく学校へ行き、五組の奏多日菜乃を探した。
日菜乃は教室には居ないみたいなので、仕方なく涼斗は日菜乃が来るのを待つことにした。
しかしいくら待とうが日菜乃らしき人影は見られず、ホームルームが始まる時間になっても、日菜乃の姿は見られなかった。
どうしたものかと、業間に教室を訪ねて、奏多日菜乃が登校しているか、と聞いてみた。すると
「ああ。あいつは今日休んでいるんだ。おそらく対馬がいじめに来るからだろうよ」
申し訳なさそうに告げられた、対馬という聞いたことのない名前には、涼斗は興味を示さなかった。
そんな輩よりも、日菜乃が不在ということの方が、幾分も大切なことであった。とりあえず今日は諦めることとした。
(店長が住所も特定できてると言っていたな……手紙でも送るか)
翌日。手紙で指定した時間の五分前に、涼斗は学校に着き、集合場所へは一分程度で着いた。
郵便に出して時間が取られるのも面倒だったので、涼斗は直接家に訪れ、投函してきたのだ。その際に、涼斗はあえて日菜乃に姿を見られないように注意した。できれば学校で話を着けたかったからだ。
そして日菜乃は、どうやら家のポストに入れた手紙を、きちんと読んだらしい。
集合場所には、すでに奏多日菜乃らしき人物の姿があった。
金色の長い髪を風になびかせ、青い瞳を不安気に揺らして、静かに涼斗を待っている。その姿は写真で見た通りであった。
「すいません。待たせましたか?」
涼斗の声に肩を弾ませて驚く日菜乃は、緊張した声で答えた。
「大丈夫です。私は今来ました」
どこか落ち着きのない返答に、いじめられているということが用意に理解できた。
「今日は手紙の通りに、集合してくれてありがとうございます。早速本題ですが、今日の放課後にとあるカフェへ行きませんか?」
涼斗の率直な誘いに、日菜乃はにわかに信じられないといった様子で、たじろいだ。
そんな日菜乃だが、しばらく涼斗の表情を覗った後に、静かに返事をした。
「私は大丈夫です。ですが、いいんですか?」
「何か問題でも?」
「私と共に行動しているところを見られたら…学校に居場所が……」
「ああそのことですか。問題ありません。むしろ学校の居場所がなくなるくらいであなたを仲間……じゃなくてカフェでお話をできるならば安いくらいです」
「そう……ですか」
こちらの発言を信用できないのか、日菜乃は不安を隠しきれていなかった。
無理もないであろう。
相手からすれば、涼斗は初対面であり、見ず知らずの人間にいきなりお世辞を言われれば、涼斗だって警戒心をあらわにする。もっとも、涼斗が日菜乃に向けて送った好意は、お世辞などではなかったが。
それでも日菜乃は、じっくりと考えた後に、OKを出してくれた。
なので涼斗も思わず声に出して喜び、放課後にレコロ集合となった。
そして放課後、無事に日菜乃を連れてレコロに到着した涼斗は、渋々ドアを開けた。
「こんにちは。今日は店長も居るんですか?」
「こんにちは。涼斗君!」
「なんだ? 俺が居て困ることでもあるのか?」
ニヤニヤと見つめてくる二人を、涼斗は張り付けた笑顔で無視し、いつもの席に座る。
その後を遅れまいと、日菜乃はお辞儀をして挨拶をする。
「初めまして。私は日菜乃と言います」
「ああよろしく、日菜乃ちゃん」
「よろしく、日菜乃」
前田と杉本の説明は事前に済ませておいたので、日菜乃は二人の姿を見るとすぐに挨拶をした。
礼儀の正しいようで、涼斗としてはつい自分と比較してしまう。
涼斗が初めてこの二人に会った時は、こんな風にお辞儀をすることはできなかった。
あの時の涼斗は、誰も信用していなかったのだから、仕方がないと言ってしまえば、仕方がないのだが。
「初対面なのにちゃん付けでいいんですか、前田さん」
「問題ないよね、日菜乃ちゃん」
「は……はい……」
日菜乃の態度に感心しつつ、涼斗は前田の過剰なスキンシップに、呆れていた。
当然日菜乃は困惑するばかりで、レコロの内装を見回して落ち着かない様子でいた。
そして日菜乃に挨拶をしている間も、前田と杉本の視線は涼斗に注がれたままであった。
(だから来たくなかったんだよ……)
まるで冷やかしを入れる中学生のように接する二人に、涼斗はうんざりであった。
そんなレコロの雰囲気に、驚かされ続けている日菜乃は、なぜか一向に座ろうとしない。
そのことに気が付いたのは、先程まで涼斗を散々いじくりまわしていた、前田であった。
「座らないのかい?」
「いいんですか?」
「当たり前だよ、レディー。お客様を立たせるわけにはいかない」
「それでは失礼します」
「気にすんな。前田は昔っからこんな奴なんだ。イタリア人と思って接してくれ」
これも涼斗の想定内であったが、改めて前田のレディーファーストの精神に、驚かされる。
何をしたらこんなにも女性に優しくしようと思えるのか。涼斗には永遠の謎であった。
「おっと、私はお客様にコーヒーを作らないと。少しここを離れるよ」
ふと前田が見え見えな嘘をつき、涼斗に向けてウィンクをした。
先から調子のいい人だと、涼斗は軽い溜め息を吐いた。
(前田さん……控えめに言ってうざいです)
そして杉本もワザとらしい声で言い訳を繕う。
こちらは前田と違って、それっぽい演技も言い訳もせず、あまつさえ前田の反応を見て思い出したかのような声の調子であった。
「そんじゃあ俺も裏で前田の手伝いをするか。客が来たら呼んでくれよ、涼斗。それと、日菜乃に飲み物を出してやってくれ。当然、金は要らねえ。お前が女を連れて来たんだから、俺たちも手伝う他に道はねえよな。そんじゃあな」
そう告げると杉本は親指を立て、歯をぎらつかせた。
恋の手助けでもしてやると言いたいのだろうか。断じて涼斗はそのような関係の為に、日菜乃へと接近したわけではないのだが。
それにしても、見事取り残されてしまった涼斗は、まず日菜乃の人間不信を改善しようと、穏やかな笑みを張り付けて、打ち解けようと努めた。
「それじゃあ奏多さん、まずは自己紹介を……」
手始めに自己紹介から始めようと、涼斗が日菜乃に話かけた時のことであった。
奥から前田の咳払いが聞こえて、それから嫌な会話が続けて聞こえてきた。
「いやーコーヒー豆って繊細なのに、遠慮がちに接すると上手くいかないよな。そう思うだろ、杉本」
「ああそうだな。ましてや太陽を付けるなんて駄目だな」
「そんなことをすれば、サン残な事になっちゃうサン」
『はははは』
馬鹿げた内容の会話に、涼斗は頭を抱えた。
その隣で、状況が理解できていない日菜乃が、首を傾げていた。
(太陽は英語でsun。太陽を付けるは即ち、さん付けするということ……あなたたち本当にプロのスパイですか?)
2人の助言に呆れつつも、涼斗はその意味を考えた。
恐らく、さん付けをやめろということであろう。これは今後の活動で、呼びやすいと便利なのと、距離が近くなるからであった。
しかし流石の涼斗も呼び捨てには抵抗があった。ましてや相手は女の子。
ただでさえ対応に困っている涼斗は、素直に二人のアドバイスを受け入れられずにいた。
それでも今後の活動を考慮して、勇気を振り絞る。
「あの奏多さん、急で悪いんですが……下の名前で呼び合うことにしませんか?」
「下の名前で……私は構いません。それでは谷田さんは……」
「下の名前で呼んでください」
「あっ……すいません……」
気が遠くなるような作業だと、瞬時に思ってしまったが、涼斗は気にしないように努め、会話を続ける。
「それで日菜乃、飲み物は何が欲しい?」
「私はカフェオレがいいです、涼斗」
「おう、そうか日菜乃」
早く新しい呼び方に慣れる為に、涼斗は必要以上に日菜乃の名前を呼ぶ。
対する日菜乃は、まだ照れが残っているらしく、顔を赤く染めていた。
「あの涼斗……」
「ん? どうした、日菜乃?」
「この呼び方はやめませんか?」
「駄目だ。それと敬語も止めろ。そんな距離があれば一発で死ぬ……ことはないが、とりあえず敬語とさん付けは駄目だ」
「うん……それじゃあそうする」
「そうだ。できるじゃないか」
「うん……」
日菜乃はこの絶妙に恥ずかしい状況に赤面し、涼斗から目を逸らしていた。
対する涼斗も、照れ隠しのためか、感情を殺して機械的にこなしていた。
『あーあ……これだから涼斗くんは……』
『あいつって天才じゃなかったのか?』
小声で話す前田と杉本の声に苛立ちながらも、涼斗は会話を続ける。
「はじめまして。手紙でも書いた通り、俺の名前は谷田涼斗だ。趣味は調べもの。よろしく」
「よろしくお願いします??」
調べものという謎の趣味に、疑問を感じている日菜乃は、思わず笑顔のまま困惑していた。
その為、涼斗も自らの適当な回答に、少しだけ申し訳なく感じ、頭を下げた。
そんな涼斗を見ると、遠慮がちになりつつ、日菜乃は改めて自己紹介を始める。
「はじめまして。私は奏多日菜乃です。趣味は読書。よろしくお願いします」
「おう、よろしく。それで日菜乃、お前はどんな本が好きなんだ?」
「私は小説が好きです」
「敬語禁止」
「えっと……気を付ける」
まだ緊張が抜けきらない日菜乃に、少し間を置いてから、涼斗は踏み込んだ質問をする。
もうすでに外は夕暮れに染まっている。時間は限られているのだ。
「ところで日菜乃は、どんないじめを受けているんだ?」
「それは……」
「当然無理はしなくていい。ただ知っておかないと困るんだ」
突然の嫌な質問に、この場にいる全員が驚愕した。
流石の前田と杉本も、驚いたように厨房から顔を覗かせていたが、じっと見守るようにそのまま引っ込んでいった。
そんな二人の姿を見た後に、日菜乃は再び口を開く。
「知ってどうするつもりなの?」
「いじめを止めさせる」
「それじゃあ……教えられない……」
「安心しろ。手荒な真似はしないって約束する。だから教えてくれ」
日菜乃の青い瞳の奥を覗き込み、落ち着いた口調で約束する。
そんな涼斗の姿に、日菜乃は少しだけ心を許したのか、少しだけ間を置いてから説明を始めた。
「いじめの種類は色々あって、全部を覚えているわけじゃないんだけど、今日は図書館から借りてきた本を破られて、それを利用されて先生に怒られた」
「なるほど。教師もほとんど共犯みたいなものか……ありがとう。ところで何人にいじめられた? 名前は言わなくてもいいぞ」
「今日は八人。男子は三人で、女子は五人」
「そうか……」
日菜乃の顔が沈み、焦点が宙にさまよっている様子を見ていると、自然と涼斗も苛立ちを覚えた。
「今日はありがとう。また困ったことがあれば、何でも俺に相談してくれ。あと昼休みはいつも図書館にいるのか?」
「うん。図書館の物陰にいる」
「分かった。それじゃあ明日は図書館に集合だ。今日は本当にありがとう」
「ありがとうございました。それではさようなら」
結局いじめの質問をしてから帰り際まで、日菜乃の視線は涼斗に向けられることは一度もなかった。
それだけ本人は思い悩んでいるということであろう。
「中々、時間が掛かりそうですね、店長。」
「ああそうだな。お前以上に面倒そうな嬢ちゃんだ。もしかしたら協力も無理かもな。だがそれも全部、お前とあの子次第だ。頑張れよ」
「はい……」
カップの中に残っていたコーヒーを飲み干し、店の壁を見つめたまま涼斗はぼんやりと考え事をした。
研究所での生活のことを。