曇り空
「リンゴを剥くので、少し待っててください。その間は涼斗君と話をしててください」
「ありがとう2人とも。わざわざ来てくれた上に、世話になるなんてな。これはアルバイトの給料を上げるしかないな」
「それは有り難い話ですが、レコロは不況なのでどうか僕らの給料はこのままで」
前田の病室にて涼斗と日菜乃は前田の世話をしていた。
怪我がひどく1人では何もできない状態だった為、日菜乃にリンゴを剥いてもらい、その間涼斗と前田は話をした。
前田の元気な様子を見て、涼斗は心底安心するのであった。怪我は酷いものの、無事ではあるらしい。
「それよりも涼斗君、夜中に病院の周りでうろつくのは止めておいた方がいいぞ」
「気付いていたのですか」
「ああ。病院の人達の間でずっと話題に上がっていたからな。駐車場で高校生くらいの男が野宿をしているってな。噂を聞いてすぐにピンと来たよ」
「すみませんでした」
どうやら病院の人間にもバレていたらしく、涼斗は前田に痛く注意されるのであった。
1人でも気付いてる人間がいるのならば、最悪警察を呼ばれる可能性がある。その警察が研究所に繋がっている可能性だってある。
そんな危険を省みない行動は、今後命取りになりかねない。だから前田はきつい言い方をして、涼斗を注意した。
「心配してくれるのは嬉しいが、奴らも手出しはできまい。ここ数日間の任務の影響で、奴らは迂闊に行動できないらしい。関係者の人間が教えてくれたんだ」
「そうですか。それでは関係者の方を信じて、これからは夜の警備は控えておきます」
「ああ。頼んだぞ」
涼斗が誓いをたてると、前田は爽やかな笑みを浮かべていた。どうやら安心させることができたらしい。
それから日菜乃が剥いていたリンゴを口にして、前田はボンヤリと窓の外を眺めていた。その姿は、何か悩みがあるように見えた。
「杉本の家に行くのならば、クロッカスちゃんを引き取ってやってくれ。今のあいつにはきっと荷物になるだけだ。本人はそんなことは言ってないが、それでもきっと心の中ではそう思っているはずだ」
「わかりました。それじゃあ今から杉本さんのもとへと向かいます」
「行ってらっしゃい。日菜乃ちゃんも、今日はありがとう。また何度も来てくれ」
「はい。いつだって駆けつけますからね。退屈な時は連絡してください」
「うむ」
前田への挨拶も済ませ、涼斗と日菜乃は病室を後にした。晴れやかな笑みで挨拶を済ませる日菜乃と、相変わらずきっちりした涼斗が扉を閉めて、2人の姿は見えなくなった。
1人残された前田は依然として窓の外を眺めているのであった。
それから涼斗と日菜乃は杉本のいる一丁目へと向かうのであった。
果たして研究所の見張りはもういなくなったのか、そんな事も気になりながら涼斗は杉本宅へと向かうのであった。
もし見張りが執拗に杉本を追っているのならば、杉本とクロッカスは別の場所で姿を隠している可能性がある。そうであるのならば、2人の居場所が分からないのが、現状であった。
しかし一丁目に着くと、人気のなさから見張りはもういない事が確認できた。車も人も少なく、涼斗は安心するのであった。
「店長に会ったら、なるべく喋らないようにしよう。あの人はあれでも孤独を好む人だ。今俺たちが余計なことをいえば、きっとストレスを感じるはずだ」
「わかった。それじゃあクロッカスちゃんを引き取ることだけを言って、すぐに立ち去った方が良さそうだね」
「ああ」
杉本の性格を知る涼斗は、事前に日菜乃と打ち合わせをしておいた。そうでないと不意な事で杉本を怒らせてしまう可能性があるからだ。そんな事態は何としても避けねばならない。
心配要素が多く緊張気味の涼斗であったが、それでも今は杉本とクロッカスの安全が最優先であった。そんなこんなで涼斗は杉本の住むアパートに到着するのであった。
杉本の部屋番号を再度確かめて、インターホンを押す。
すると数秒の間が空いてから、ガチャっと鍵が開く音がした。そしてその中からは、普段通りの容姿を保った杉本が出てきた。
「何か用か? お茶は出せないが、中に上がるか?」
やはり杉本の声にはストレスが滲み出ており、苛立った口調で涼斗をもてなした。もっとも本人は平気を装っているらしいが。
そんな杉本の奥にある部屋は薄暗く、不気味ささえあった。
しかし苛立つ杉本に怖じ気づいてもいられないので、涼斗は意を決して本題を切り出した。
「ちょっとした用事があって来ました。クロッカスを引き取りに来ました」
「……そうか」
先程まで堂々とした態度で振舞っていた杉本だが、やはりクロッカスと離れるとなると、寂しさだけは残るのであろう。
しかし杉本は躊躇う様子はなかった。
涼斗の要件を聞けばすぐにクロッカスを涼斗のもとへと渡した。それから衣服やクロッカスに関係する小物類を受け取って、涼斗は要件を終えるのであった。
しかし打ち合わせとは違って、涼斗の身はその場から離れないのであった。
クロッカスを取られて、もはやその身には何も残っていない杉本を見ると、今すぐクロッカスを返したい気分であった。空虚となった杉本のもとへと。
しかし杉本も自分のもとにクロッカスを置く事で、双方にとって不利益が働く事も判っていたらしい。乱れる心のままにクロッカスに乱暴をし、その度に身も心も滅びに近づく。
そんな情景が、涼斗には見えているようであった。
「姫花を頼んだぞ、涼斗。俺は1人で居る。だからレコロの営業も任せたぞ。他の奴らにもよろしく伝えておいてくれ」
「はい。わかりました」
「それと姫花。俺は父親失格だ。お前に暴力を奮って、自分の都合しか見ずに、お前を怒鳴った。そんな奴の下で育つよりも、お前はもっと恵まれた環境があるはずだ。だから涼斗のもとで幸せに暮らせ」
「……やだ」
「……姫花」
クロッカスの体には傷がついていた。痛々しい引っ掻き傷に、殴られた跡。そんな姿が、昨日の晩からずっと暴力を受けていた事を訴え掛けている。
しかし幼く不幸せなクロッカスに、つい暴力を振ってしまう杉本の気持ちも、涼斗は理解できた。
子供の我がままに、そして子供の無知さに、ストレスを感じるのは至極当然の道理だ。ましてや杉本には、自分の娘が殺人兵器のような姿をしており、そんな娘が父親の為に手を汚しているのだ。
そんな事実の前では、誰もが自己否定をしてしまうであろう。
この自分の手で、自分の子供を殺人兵器に仕立て上げたようなものなのだから。
自分の過ちと大きな罪が、娘を巻き添えにしていると思うと、どんな人格者であろうと耐えられないであろう。
だから涼斗には、暴力という手段を選んでしまった杉本の気持ちも、十分に理解できるのだ。
しかしクロッカスは、家庭内暴力からの逃亡を拒んだ。
やはり腐っても父親は父親なのだろう。クロッカスは傷だらけな顔で、杉本を見上げた。そして杉本から離れる事を嫌がった。
そんなクロッカスの姿を見た杉本は、耐えられないといった表情をしており、悔しさで唇を噛み締めていた。
「ダメだ。お前は涼斗のもとで暮らすんだ」
「やだよ……」
「もう俺の傍に居たって、良い事なんてないんだ。だから涼斗のもとへ、帰るんだ」
「姫花は……ここに居たい……」
杉本がいくら説得しようとしても、クロッカスには効果が無かった。駄々をこねて杉本から離れようとしなかった。
そんなクロッカスを見ている内に、杉本も正気が保てなくなり、やがて黙り込んだ。
その光景を、涼斗と日菜乃はただ黙って見守ることしかできなかった。
やがて時間も経ち、クロッカスは泣き止み、杉本も視線を上げた。
空には黒雲が立ち込めており、まるで杉本とクロッカスの別れを嘲笑っているかのようだった。
彼らにはいつも雨が降りしきり、彼らが快晴を見た事などなかった。
四六時中五里霧中。そんなところであった。
「クロッカスを頼んだ。やっぱり俺には預かる資格なんてない」
「やだ……パパと一緒がいい……」
「涼斗、もう行ってくれ。ここで言い合っても埒が明かない」
「……はい。それじゃあ行こう。クロッカス」
「やだ……嫌だ! パパの所が良い! お兄ちゃんなんて大っ嫌い!!」
「そうか。それなら良かった」
涼斗に抱きかかえられても、ジタバタと抵抗を重ね、クロッカスは杉本のもとへと戻ろうとした。しかし涼斗もクロッカスに厳しい態度を取り、そのまま連れて行くのであった。
去り際に涼斗は杉本のことをチラと見てみたが、その表情は上手く読み取れず、そのまま杉本は家内へと入ってしまった。
じきにクロッカスも諦め、涼斗の中でうずくまって眠ってしまった。力尽きたのであろう。
そんなクロッカスを抱えながら、涼斗は空を見上げた。黒く生意気な空を。




