ああ、愛らしい君はまるで……
12月の土曜の午後、涼斗は日菜乃と事前に待ち合わせをしておき、カフェレコロへと向かう。
「寒いね」
「ああ寒いな。早くレコロに行こう」
12月の街中は人が多く、そしてとても寒い。涼斗も日菜乃も厚着をして、その寒さに備えていたのだが、まるで効果がない。
「クロッカスちゃん、大丈夫かな?」
「きっとクロッカスは大丈夫だ。それよりも店長が攻撃されてないかが気になる」
「そうだね」
やはりクロッカスのことが気になる日菜乃は、ふと杉本がクロッカスに頭を悩ませている姿を想像して、微笑した。いつも頼りがいがある人間が、些細なことで戸惑っている姿は、面白いものなのだ。
それから2人は無事にレコロに到着し、カランカランと鈴の音を鳴らしながら、中へと入る。
「……クロッカスちゃん……ああ、愛らしい君はまるで、太陽のように美しい。もしかして君は、天使かい?」
「いや……私は普通の人間だよ……?」
「ああまったく。前田はなんでこうも、見境なく女好きなんだ?」
「時折思うんだよ。この世の全ての女性は、男に優しくされるために生まれているんだって。だから子供だろうとお年寄りだろうと、レディーには優しくしないとね」
「理解できん……」
なんと前田が、メイド服を着たクロッカスに対して、プロポーズをするような体勢をとっていたのだ。
入店早々この光景なので、涼斗と日菜乃は戸惑うどころか、レコロから去ろうとすら思えた。実際、客の1人が逃げるように帰っていった。
「お、涼斗君と日菜乃ちゃんじゃないか。今日はこの店の看板娘、クロッカスちゃんがいるよ」
「い……いらっしゃいませ……」
相変わらず妙なテンションで話し掛けてくる前田に、涼斗は勿論日菜乃ですら呆れていた。
「前田さん、どうしたのですか……?」
「私は至って普通だが?」
話が通じないらしい前田は放っておき、涼斗は杉本の正面の席に腰掛け、バーカウンター越しに話をする。
「いったいどうしたんですか店長」
「あれはだな……」
前田がこうなってしまった経緯は、遡ること数時間前の事だ。
「なあ杉本、クロッカスちゃんに働いてもらったらどうだ?」
「何だよいきなり。俺とて、法を破るつもりはないぞ」
前田が藪から棒にそんな話題を持ち出した。だが杉本は乗り気じゃないらしく、素っ気ない返事で適当に流した。それでも前田は続ける。
「いや、クロッカスちゃんをこの店の看板娘にしたら、レコロの経営難も少しは和らぐと思ってね」
どうやらクロッカスを看板娘にしたいらしいが、杉本としては危なっかしく、クロッカスには到底任せられないと思っていた。しかしうつむき気味のクロッカスが、徐に杉本の足元までやって来て、モジモジとしていた。
「働いたら……ダメ? 私、役立たずなの?」
どこで覚えた言葉なのやら、クロッカスは自分を卑下して少し落ち込んだ様子を見せる。そんな姿を見せられてしまえば、杉本としても断ることはできなかった。
「ああまったく……役立たずなんかじゃない。仕方ない……それじゃあ前田、お前が言い出したんだから、きっちり指導しろよ」
「わかった任せろ」
クロッカスのホロっと見せる涙目に、杉本は心臓がえぐり取られるような感覚を覚えた。
そしてこの時、前田にクロッカスの指導を任せたことこそが、杉本の犯した失敗であったのだ。
「それじゃあクロッカスちゃん、メイド服に着替えようか」
「ちょっと待て!! 何言ってんだお前??」
前田の仰天発言に、杉本は手に持っていたコップを落とした。しかし割れたコップなど放って、杉本は前田を問いただす。
「お前、クロッカスで何するつもりだ!?」
「なにも。ただレコロで働いてもらうだけだ」
「だがメイド服なんて……」
「めいど……服……」
前田の口から飛び出した新出単語に、クロッカスは目を輝かせる。だがこればかりは杉本も賛成はできなかった。
「ダメだ! メイド服なんてダメだ。そもそもレコロにメイド服なんてないぞ」
「ある……って言ったら、どうする?」
「何……!!」
しかし杉本も根底から否定しているわけではなかった。前田の口からその可能性が引き出された瞬間、杉本は頭を抱えて、四苦八苦した。
「メイド服なんてダメだ。この子にそんなものは……それに俺だってクロッカスのメイド姿なんて、見たくねえ……そうだ。俺はメイド服になんて興味は……」
「めいど服って、ダメな恰好なの?」
「ああダメだ! あんな服着たらダメだ!」
「うん……わかった……」
どうやらクロッカスはメイド服に興味があるらしく、杉本がきっぱりと否定すると、分かり易く落ち込んだ。その為、杉本は渋々メイド服の着用を認めたのだ。
「で、今に至るわけですか……」
「ああそうだ……全部俺のせいなんだ」
そう告げて、杉本は机に突っ伏した。事の成り行きを聞き、杉本の親バカっぷりに涼斗は苦笑するしかなかった。もっとも杉本に自覚はないが。
「かわいいな……写真撮ってもいい?」
「しゃしん……写真は嫌!」
しかしそんな惚気も数分の事。
突然、クロッカスが激しい拒絶を見せ、レコロ一同は一斉に固まる。そしてクロッカスは心の底から怯えているのか、日菜乃から離れてバーカウンター裏の杉本のもとへと逃げ込む。
「怖い……」
「大丈夫だ! 写真は怖くなんかない。ジュースでも飲むか?」
「うん……」
怯えるクロッカスに、杉本は優しく接してから、オレンジジュースを渡す。
「なぜ写真でこんなに嫌がるのだろうか……?」
「研究所のせいでしょうか……?」
杉本とクロッカスの、親子そのものの会話を見ながら、前田と涼斗は疑問をぶつけた。そんな傍らで、日菜乃が何か思い出したように声を上げた。
「そういえば……」
それからクロッカスのもとへと行き、日菜乃はかがみ込んで、クロッカスと目線の高さを合わせてから、話をした。
「脅かしちゃってごめんね。私も写真、嫌いだったからわかるよ……」
「……お姉ちゃんもけんきゅーじょにいたの?」
「うん。いたよ。あそこのお兄さんと一緒にね」
研究所にいたと告げると、クロッカスは気を許したらしい。
それと同時に、日菜乃の発言から、涼斗はあることを思い出す。
「そういえば研究所にいた時に、写真を何回も撮った記憶があります。何人もの研究者の前で強制的に脱がされて、身体中のあちこちを触られて、写真を撮られました」
「そうか。それはつらいな……」
「はい。男子は我慢してる子や、反発してる子もいましたが、女子はほとんどが泣いていました」
「もはや人間が受ける扱いじゃないな、それは……」
涼斗から新たな事実が告げられ、前田は顔をひきつらせていた。またしても明かされる卑劣な実態に、嫌気が差すのだ。
「それじゃあクロッカスちゃん一緒に来て写真撮ろう」
「うん」
どうやら涼斗と前田で話をしている内に、日菜乃は本当の意味での写真撮影を教え込んだらしい。そしてクロッカスの同意を得た上で、写真の撮影が許されたらしかった。
どうやらクロッカスはオドオドと落ち着かない様子で、初の望まれる写真撮影に、緊張しているらしい。
「それじゃあ笑って」
「笑うって……どうやって……?」
「それじゃあ、こうやって頬っぺたにタコ焼きを作ってみて」
「ほわあ……たこ焼き……!!」
日菜乃が頬っぺたの辺りを手で握り、口端がつり上がった状態を作る。それをクロッカスは喜んでマネしていた。
「そのまま手をどけて……はいチーズ」
パシャリとシャッター音が鳴って、クロッカスの初の写真撮影が完了された。
「さてクロッカス初の写真の出来栄えは、どんなもんかな。店長も一緒に見ましょう」
「俺は……まあ見るけど……」
それから皆で寄ってたかって日菜乃の周りに集まり、その写真の出来栄えを待ち望んだ。その中で一番ソワソワしていたのは、相変わらずツンツンとしていた杉本だったが。
「中々いい写真じゃないか。日菜乃ちゃんやるねえ」
「それほどでも」
「悪くないな」
「店長……厳しいですね。まあそれだけクロッカスのことを、大事に思ってる証拠なんでしょうけど」
「勝手な解釈をするな」
「いや俺は正しいと思いますよ」
クロッカスを巡って物議を醸す涼斗と杉本は、相変わらずの仲であるが、それはさて置きクロッカスは不思議そうに写真を眺めていた。しかし直後に顔を赤くして、日菜乃から、写真を映し出した携帯を奪い取る。
「どうしたのクロッカスちゃん?」
突然の暴挙に、日菜乃は困惑する。ただクロッカスは一向に携帯を返そうとせず、ぎゅっと握り締めて防御に徹した。
「こら! 日菜乃の携帯なんだから返しなさい。おもちゃじゃないんだぞ」
「嫌!」
杉本が叱っても尚、クロッカスは携帯を返そうとしない。その為、余程気に入っているのかと思ったが、携帯を守る姿からそうは見えない。
「なんで日菜乃の携帯を取るんだ?」
「だって……」
涼斗の優しい問い掛けに、クロッカスは少し泣きそうになりながら答えた。
「だって……恥ずかしい……」
か細い声で呟くクロッカスに、一同は一斉に前田へと視線を送る。
「前田さん……」
「ごめんよ。まさか嫌がるとは思ってなくてね」
頭をかいて苦笑する前田は、冷たい視線を向けられても尚、反省の色を見せていなかった。それから皆一斉に溜め息をついてから、恥ずかしがるクロッカスに同情した。それから日菜乃はクロッカスの頭を撫でて言った。
「大丈夫。その写真は誰にも見せないから」
「ぜったい……?」
「絶対に見せない。だから返してね」
「うん……ごめんなさい」
「うん! ありがとう。えらいね、クロッカスちゃんは」
そう言って日菜乃は、クロッカスの頭を全力で撫で回した。クロッカスも日菜乃にされるがままになって、なんとも愛らしい光景が、そこには広がっていた。
「そういえばクロッカスの本名を、まだ聞いていないですね……」
ふと思い出したように、涼斗はクロッカスについての疑問を声にする。携帯を日菜乃に返したクロッカス自身もその言葉を聞いていたらしいが、首を傾げて不思議そうにしていた。
「私の……お名前?」
「ああ。クロッカスという名前が付けられる前の、名前だ。覚えてるか?」
「ううん……覚えてない」
「そうか……ありがとう」
クロッカスは覚えていないと云う。だとすれば初めから知らない可能性もあり得る。実際、涼斗は名前を憶えていたが、日菜乃は自分には名前がないと云っていたからだ。
「それじゃあクロッカスというのが、この子の名前になるわけですか」
「そうだね。だけどクロッカスという名前は、あくまでもあの腐った研究所の付けたコードネームにすぎない。だからいっそのこと、我々で名付けてもいいんじゃないのか?」
前田の真剣な相談に、レコロ一同は黙って考え込んだ。クロッカスの為に、名前を考える時間であった。彼女がこの先の人生で幸せに生きていけるように、と。ただその一心で、考えに考え抜いた挙句、日菜乃が口を開く。
「やっぱり、クロッカスちゃんの名前は、店長が決めた方がいいですよ」
「俺がか……?」
「そうですね。これは店長が決めるべきです」
「流石、日菜乃ちゃんは良い事を云う」
日菜乃の提案は、満場一致で受け入れられる。しかし意外にも、杉本は緊張した様子で、悩んでいるようだ。
「すまない。今日のとこは見逃してくれ……」
どうやら深く考えても、何も思いつかなかったらしい杉本は、頭をショートさせてぐったりと、疲れていた。それから涼斗と日菜乃もバイト入りをして、レコロでの仕事が改めて始まった。
「そういえば前田さん、なんでクロッカスのメイド服なんてあったんですか?」
「出来心さ」
「出来心……それはつまりどういう……?」
「作ったのさ」
「はあ……それじゃあ日菜乃のメイド服は、いつ完成するのでしょうか?」
「あっという間さ! カミングスーン」
「ありがとうございます!」
前田の、期待に応えるような返事に、涼斗はどこで身に着けたその反射神経、と言いたくなるほどの神反応で、刹那の内に返事をした。その時の涼斗は、実に紳士的に見えた。




