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織姫と彦星(改訂版)

作者: 京衛武百十

以前、連載として書いたものに若干の加筆修正を加えたバージョンです。





織姫と彦星が、一年に一度、七夕の日にしか会えない恋人だなんて、誰が決めたんだろう……


どうして織姫が女性で、彦星が男性じゃないといけなんだろう……


愛し合ってるなら、別にどっちでもいいじゃん……


なんて思ってても、現実にはそれはあまりにも分厚くて重い壁だってことを、私は何度も何度も思い知らされてきた。


ねえ、どうして気付いてくれないの…?


私は、あなたを愛してるんだよ…?


織姫……




どうして私は、<女>なんだろう……


<彦星>なのに、どうして……








織姫と出逢ったのは、たぶん、小学校に上がったばかりの頃だと思う。クラスは違ったけど、明るくていつもニコニコしてて、あの頃からちょっぴりぽっちゃりさんだった。


勘違いしないでほしい。太ってるっていう意味じゃないの。なんて言うか、こう、柔らかそうであったかそうで、ふわふわしててって感じなの。


私は、たぶん、そんな彼女のことを一目見た時から心奪われてたんだと思う。


だけど私の方からは話しかけたりとかはできなかった。誰とでもすぐに打ち解けて親しげに話しができる彼女と違って、引っ込み思案で臆病で、人と上手く会話ができないタイプだったから。


でも、私は、彼女のことを見てるだけで幸せだった。彼女に会いたいから学校に行けた。学校は嫌いだったけど行けた。彼女に会いたかったから。


なのに、二年生になってすごいチャンスが巡ってきた。彼女と同じクラスになれて、席が隣同士になった。そしたら彼女の方から話しかけてきてくれた。


「わたし、わしざきおりひめ。あなたは?」


「ひこぼし…あるた……」


「ひこぼしちゃん? じゃあ、おりひめのわたしとカップルだね!」


その時の彼女の笑顔は、今でも忘れられない。胸がどきどきして、顔が熱くなって、溶けてしまいそうな、太陽みたいな笑顔だった。そして、それが決定的だった。


私の心は完全に彼女に奪われてしまって、彼女のものになってた。もう、他には何も要らないっていうくらい……




彼女と私はすぐに仲良くなれた。と言うか、彼女が私と仲良くしてくれたって言った方が正しいかな。積極的になれない私をいつも引っ張ってくれた。励ましてくれた。手を握っててくれた。彼女について行ったら、私は何とかなった。クラスの他の子ともそれなりに打ち解けられた。


私みたいな引っ込み思案で暗くてネガティブなタイプなんて、すぐにクラスでイジメられたりする格好の的だったと思う。でもいつも彼女と一緒にいたから、いつも彼女がいてくれたから、私はそういうのから救われてたんじゃないかな。


だから織姫、私、あなたには感謝しかないんだよ……




だけど織姫は、恋多いと言うか、惚れっぽいって言うか、だいたいいつも誰かのことを『好き!』って言ってる女の子だった。


でも不思議と、外見的な好みというのはあまりないのかな。それよりは雰囲気と言うか、いかにも『優しそう』っていう印象の、割と地味なタイプが好みだったみたい。


担任の先生を好きになったり、上級生の男子を好きになったり、通学路で見かけるサラリーマンを好きになったり。


何だろう? 『外見より内面で選ぶ』っていうのは、まさに彼女みたいなのを言うのかもしれない。


共通するのは『優しそう』っていう印象だけで、見た目そのものにはそんなに共通点はない感じ。もちろん、ヤカラとかオラオラ系じゃないっていう意味では共通点はあるかもだけどね。


ただ、そうやって彼女が誰かのことを『好き』っていう度に、私はすごく寂しくて悲しくて胸が締め付けられる気がした。


『そんな人のことなんてどうでもいいじゃん。ひめちゃんの隣には私がいるじゃん…!』


って思ってた。


けれど、彼女が好きになる人にはいつも彼女とか奥さんとかがいて、結局は諦めるしかないのが分かってたから、そういう意味では安心もしてたかな。


『どうせ私のところに戻ってきてくれる』


みたいに思ってたかもしれない。


なのに、中学に上がって美術部に入ったら、そこの部長がすごく穏やかで優しい感じの人だった。見た目はともかくその立ち振る舞いがとても中学生とは思えないくらいに落ち着いてて、誰に対しても優しかった。


それを見た瞬間、私は嫌な予感がしてた。そしてその予感通りに、彼女はその部長のことを、熱っぽい目で見るようになってた。しかも部長の方も、彼女の描くイラストを、


「織姫の絵には何か不思議な力があるな」


とか言って絶賛してた。


彼女は昔から絵を描くのが上手で、でも絵画って言うよりはポップアート的なイラストが主で、それに対して部長は油絵の具を使った本格的な絵画だったのに、彼は、自分が描けないジャンルの絵に対してもリスペクトができる器の大きな人だった。


もう、完全に織姫のタイプじゃん……!


しかも最悪なことに、その時の部長には付き合ってる人がいなかった。今までは付き合ってる彼女がいたり奥さんがいたりしたから安心してたのに、とうとう、そうじゃないフリーの人が現れてしまった。


だから私は動いたの。彼女が部長と付き合えないように。


部活のなかった日に彼を人気のないところに呼び出して、


「部長……好きです……私と付き合ってください」


って……




部長を落とすのは、はっきり言ってチョロかった。潤んだ瞳で見上げて縋る感じで「好きです…!」って言ったら、


「はは…女の子にそんな風に言ってもらえたのは初めてだよ。ありがとう」


とか真っ赤になって、


「本当に僕なんかでいいの…?」


なんて言うから、


「はい、部長じゃなきゃダメなんです…!」


って念押ししたら、


「じゃあ、僕の方からもお願いしようかな。よろしく」


だって。


ふ…男なんてこの程度よね……


だけど、本当なら引っ込み思案で自分からは行動できなかったはずの私がこんなことができてしまったのは、たぶんそれが『織姫のため』だったから。『彼女のため』って考えたら、できてしまったんだ。


ああ……すごいよ、織姫。私にこんなことさせることができるなんて、あなたは本当にすごい……!




そうやってまんまと部長と付き合い始めたけど、実はそれからがヤバかった。


織姫の人を見る目があるっていうのを思い知らされる気がした。


「彦星さんは、素敵な女性だね」


とか、普通なら白々しくて聞いてられないか嘘くさくて吐きそうになるようなセリフを、ぜんぜんそんな感じさせないで口にできる男性だったから。


これが、下心が見え見えのチャラ男とかの口先だけの言葉だったら、私はきっと鼻で笑ってた。なのに、部長は本当に優しくて、私のことを気遣ってくれて、大切にしてくれた。


織姫は彼のことをそういう人だって見抜いたから好きになったんだって分かった。


ヤバいヤバいヤバいヤバい……!


織姫には内緒で部長と会ってると、何だか本気になってしまいそうだった。だけど私が好きなのは織姫…! 部長のことなんて本気になっちゃダメ……! 私はあくまで彼を織姫に近付けさせないようにする為にフリをしてるだけなんだから……!


自分にそう言い聞かせて必死に抑えてた。


普通ならここで部長と付き合っちゃえばいいじゃんって思うかもしれない。


でも違うの…! 私は織姫じゃないとダメなの……! 私は織姫が好き…! 彼女が私を見付けてくれたから私は今まで生きてられたの……!




私の両親は、いわゆる仮面夫婦。打算と妥協だけで一緒になって、世間体とか今の暮らしを捨てたくないとかという理由だけで夫婦ごっこを続けてた。だから、私に対する愛情なんてものもない。あくまで私は、両親が<まともな家庭を築けるまともな人間>だっていうのを世間にアピールする為の小道具でしかない。


それは、痛いほど分かってる。あの人達は子供にそんなこと分かる訳ないと思ってるかも知れないけど、子供だから分かる。


『あ、この人、私のこと好きじゃないんだ』


って……


この人達に捨てられたら子供の私は生きていけない。だから精一杯、媚を売った。いい子のふりをして、あの人達の自尊心を満たそうとした。


だけどそんなことをすればするほど、あの人達はそれに安心して私のことを見なくなった。放っておいても大丈夫だと思って、視線を向けることもしなくなった。


私は、ただの人形だった。


…でも…


でも、彼女だけは違ったの。彼女だけは私のことを見てくれた。私のことを大事にしてくれた。


だから私には、彼女しかいないの……!




「今日も部長に褒められた~♡」


部活の終わり、一緒に下校する織姫が、ウキウキの上機嫌でそんな風に言ってた。だけど私の気持ちは沈んでいく。彼女が楽しそうにすればするほど……


すると彼女は私の顔を覗き込んできて、


「あっちゃん、どうしたの?」


って…


その距離が近くて、私はカアッと顔が熱くなるのを感じた。彼女の柔らかそうな唇が目の前にあって、胸がどきどきした。


「なな、なんでもないよ…! 大丈夫!」


慌ててそう言って、手と首を振って後ずさった。


「え~? なんか怪しいなあ…?」


そんな風に言いながらも、彼女の目はとても優しかった。口ではツッコむような言い方をしてても、私を気遣ってくれてるのが分かってしまった。


それに気付いた瞬間、ズキンって痛みが体を奔り抜けた。


痛い…痛い…胸が、痛いよ……


どうしてそんなに優しいの? 織姫ぇ……


痛みと一緒に何か大きな塊みたいのが胸に込み上げてきて、私はもう、抑えることができなかった。


ボロボロと涙がこぼれても、とめることもできない。


ああ…ああ…イヤだぁ……抑えきれないよぉ……


「え!? あ、ごめん! しつこくしすぎた!? ごめんね!」


やめてよ織姫…そんなに優しくしないで……でないと、私…私……


ダメだった。抑えておくことができなかった……


「違うの…そうじゃないの……私の方こそごめんね…ごめんね…ひめちゃん……」


本当は黙っておくつもりだった。私と部長が付き合ってることにして、部長が織姫の気持ちに応えさえしなかったらそれでよかった筈だった。そして彼女が部長のことを諦めて他の、<安全パイ>な人に気持ちが移ったら、大丈夫だって確認できたらそのままフェードアウトするつもりだった。


だって、私が他の人と付き合ってるなんてこと自体、織姫には知られたくなかったから。部長にも、『恥ずかしいからしばらく他の人には内緒にしててください』ってお願いしてたから。


部長はちゃんとそれを守って、誰にも言わないでくれた。でも、私と付き合ってるからっていうことで織姫の気持ちにも応えないようにしてくれてた。


それなのに、私は……


「ごめんね、あっちゃん。私、空気読めないとこあるから、自分でも気付かないできついこと言っちゃったりしてるよね。だからさ、そういう時はちゃんと言ってね。次からは気を付けるからさ」


近くの公園のベンチに座って、彼女は穏やかにそう言ってくれた。あたたかくて、柔らかくて、包み込むような言葉だった。織姫そのものって言葉だった。


違うの…ひめちゃん……悪いのはひめちゃんじゃないの…悪いのは私なの……


ぐるぐると頭の中でいろんなことが回ってて、私はとうとう…


「あのね…ひめちゃん……」




『あのね…ひめちゃん……』


そう切り出した私だったけど、その口から洩れたのは、虚飾だった。


「私ね…部長と付き合ってるの……彼から告白されて、それで……


ごめんね、ひめちゃん。ひめちゃんが部長のこと好きなのは私も分かったけど、だから余計に言い出せなくて……」


嘘…嘘…大嘘よ……!


自分が嘘を吐いてるのは分かってるのに、本当のことを言おうと思ってたのに、そうやって私の口から出たの嘘ばかりだった。


私の口が、本当のことを話せなくなってしまったみたいにスラスラと嘘が出た。


ああ…もう…私、そうなんだ……本当のことを話せなくなってしまったんだ……


だから私は覚悟した。もうこの嘘は、一生、死ぬまで吐き続けるって。嘘を貫き通して本当に変えるしかないって。


私は自分で自分を茨の檻に閉じ込めてしまったんだ……


いや、私の場合は、織姫との距離を遠ざける天の川かもしれない……


これからもきっと、織姫は私に優しくしてくれると思う。笑顔を向けてくれると思う。だけど、もう、私と織姫との距離は縮まることはないんだ……


私ってなんてバカなんだろう……


だけど、同時に思ったの。どうせ私の想いは報われることはないんだ。だったら、別にこれまでと何も変わらないって。男性だっていうだけで彼女と結ばれようとするのを阻止できただけでも良かったって。


私はこういう風に生きていくしかないんだって。


織姫が男性と結ばれなければ、私が彼女と結ばれることはなくても少なくともこれ以上距離が離れることはない。私だけが取り残されることはない。


彼女と私の関係は、今のままでずっと続くんだ。


私はもう、それでいい……


取り返しのつかないことをしてしまった苦しみと、でも彼女との距離は変わらない筈だという安心感で、私は泣いていた。


彼女が、


「あ~、そうなんだ……」


と呟いたのを聞いて、


「ごめんね…ごめんね……」


と何度も繰り返してた。


なのに織姫は言うの。


「…ありがと、正直に打ち明けてくれて。私の方こそあっちゃんを困らせてたんだね。ごめん……」


って……


なんでよ…どうしてあなたが謝るの? あなたは何も悪くない。悪いのは私。私なのに……


しかも彼女は、微笑(わら)ってくれた。私の何もかもを包み込むみたいに微笑(わら)ってくれた。それが痛くて、苦しくて、私は余計に涙が止まらなくなる。


もっとたまらなくなる。


「ひめちゃん……」


私はいつしか彼女の胸に抱き締められていた。彼女の大きな胸に顔をうずめて泣きじゃくってた。


でも、それでも、私と彼女の距離は決して縮まることはなかったのだった。




織姫との関係がこれ以上になることはないと思い知った私は、ただただ今の距離感を保つことを望んだ。


普通に挨拶して、普通に話し掛けて、普通に遊びに行って。それで十分だと自分に言い聞かせようとした。


もちろん、部長との交際も続けてる。こっちも、徹底して<清い交際>だ。キスどころか手を繋いだこともない。部長自身がかなり草食系寄りの人らしくて、手を出してこようとしなかった。そういうところがまた、逆に惹かれそうになってしまう。


男なんて不潔でガサツでデリカシーの欠片もなくて乱暴でスケベで女の子を道具のようにしか思ってないと、私は感じてた。


でも、部長は違うの。私をちゃんと人間として扱ってくれるの。私の話に耳を傾けてくれて、気遣ってくれて、大事にしてくれてるのが分かるの。


なんでよ…どうしてそんなに優しいんだよ…もっと普通の男みたいにしてよ……そしたらもっと割り切れるのに……!


だけど、部長がそういう人だから織姫も好きになったんだって分かる。織姫の男性を見る目は確かなんだ。人を人として扱える人を見ぬくんだ。


でも、それならどうして、私とも友達でいてくれるんだろう……?


私、こんなに最低なやつなのに……


そういうことを考えてしまって、頭がぐちゃぐちゃになる。


一人で自分の部屋のベッドに寝てると、情けなくてこのままどこまでもズブズブと沈んでいきそうな気分になる。


痛い…苦しい……


だから私は、そういうこともなるべく考えないようにした。考えないようにして、気にしないようにして、ロボットみたいにやることを決めてそれだけをするようにした。織姫の前で<友達>として振る舞って、部長の前で可愛らしい<彼女>として振る舞った。


これでいい。これでいいの。


私は、天の川の向こう岸から彼女を見詰めて想って、そしてたまにちょっとだけ近付けることを何よりの幸せと考えてればいいの。


それ以上は望んじゃいけない。


それ以上を望んだら、きっと、何もかもが壊れてしまう……


そうやって危ういバランスで成り立ってるぬるま湯のような毎日に浸って、私はただ過ぎていく時間を感じてた。


これでいい。これでいいのと自分自身に言い聞かせながら。




やがて部長(いや、もう元部長か)は、高校に進学して、当然、学校には来なくなった。


私はそのことを、ある意味ではホッとしてた。少なくとも織姫と元部長が顔を合わすことも無くなってたから。


彼の通ってる高校は私達の中学とは全く真逆の方向で、しかも少し遠いし。


そしてそのことは、私の、<元部長の彼女を演じる>という義務感をも少しずつ緩めていったんだと思う。それをいいことに、私は彼に連絡を取ることをしなくなった。私がそうすれば彼はしつこくしない人だっていうのが分かってたから。分かってて、連絡を取らないようにした。


だから、私達が高校に進学する頃には、私の狙い通り、自然消滅という形で、彼との関係も解消されていたのだった。




高校は、織姫と同じところに行った。正直、勉強には身が入らなくて本当にギリギリで辛うじて織姫が選んだ学校に滑り込んだ形だった。


それでも彼女と同じ学校に通える喜びと、もう元部長と織姫のことを気にしなくてもいいということで私はすごくホッとしてたとも思う。


だって、元部長が通う学校はここよりずっとレベルの高い進学校で、恋愛なんかにうつつを抜かす暇もないって話だったし。彼からも連絡がなかったのは、それもあったんだろうな。私にはとても都合がよかった。


さあこれで、織姫との関係は進展しなくても余計なことで気を揉む必要もなくなったと思ってた。


思ってたのに……


なんで…?


どうしてこうなるの……?


高校でも織姫と一緒に美術部に入ったら、そこにいた先輩に、また織姫のタイプそのままの人がいたんだよ。


しかも、フリーで。


一目見た時に嫌な予感はしてた。中学の時の美術部の部長と同じ空気感を持った人だった。決してイケメンって訳じゃないのに嫌悪感を感じない、穏やかで物腰の柔らかい人だった。見た目だけで選ぶような女の子は選ばないだろうけど、織姫ならって感じの……


案の定、入部してから一ヶ月も経たないうちに織姫は先輩に対して熱い視線を向けるようになってた。


どうしよう…


どうしよう……


もしここで中学の時と同じことをしたら、今度こそ織姫に嫌われるかもしれない。いくら彼女が優しくても、一度ならず二度までもってなったらさすがにおかしいと思うかもしれない。


そうやって私がオロオロしてる間にも、織姫は先輩に話しかけたりしてた。そんなのを見せられると、気が気じゃなかった。


それどころか、休憩時間に二人きりで話しているところを見た時、私はもう頭がおかしくなってたんだろうな。


予鈴が鳴って織姫と先輩がそれぞれの教室に歩き出したのを見届けると、先輩の後を追って、


「あの…!」


って声を掛けてしまってた。


その後はもう、中学の時と全く同じ。暇を見付けては先輩のところに行って、言ったことも先輩の前で見せた態度や仕草も、あの時と殆ど同じ。それなのに先輩は、


「ありがとう。友達からということでよかったら……」


と答えてた。


私…なにしてるんだろう……


いっそ断ってくれたら、もしかしたら織姫のことを諦められてたのかな……


先輩に『友達からということでよかったら』と言われた瞬間、ものすごい自己嫌悪で頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう、ボロボロと零れる涙を拭くこともできなかった。


「わ…わわ、彦星さん…!?」


たぶん、先輩には嬉しくて感極まって泣いてしまったように見えたんだろうな。


その時の先輩の優しさに、私は本当に体が引き裂かれるような気分になってたのだった。




スマホの画面を見ながら私は、織姫のことをぼんやりと考えてた。


でもそうやって思い出すだけで胸が痛くなる。


家の中では、この部屋以外、私の居場所はない。リビングには母親がいるし、父親は帰ってもこないし。


私の家庭はとことん壊れ切っていた。ただ同じ場所に住んでるだけの赤の他人同士だった。血の繋がりなんて、何の価値もない。私にそう思い知らせるには十分すぎるくらいにどうしようもない家庭だった。


織姫……


織姫……


やっぱり私にはあなたしかいない……


そう思うのに、何故か先輩の顔が頭をよぎる。


先輩は、さすが織姫が好きになるだけあって本当に優しい人だった。私が嫌う男性の姿が全然なかった。織姫はそういう男性を見抜く嗅覚みたいなのが本当に優れてるんだろうな。


それでも、もしかしたら、織姫のことがなかったら私は先輩のことなんて見向きもしてなかったかもしれない。それこそ顔すらないモブの一人として見逃して、存在すら気付かなかったかもしれない。


どうしてこんなに皮肉なことが起こるんだろう……


スマホを見ていたのは、本当は先輩をデートに誘った電話を掛けた後だったからだ。先輩とのデートの約束を取り付けて、それで織姫のことを思い出してしまったからだ。


私、本当に何をしてるんだよ……!


頭がぐちゃぐちゃになる。こんなに織姫のことが好きなのに、こうやって先輩ともデートしようとしてる。それはもちろん、私が先輩と付き合ってることにして、織姫と先輩がくっつかないようにする為。


だけど、もう、訳が分からなくなってきてた。


だって、先輩、いい人すぎるんだもん……


中学の時の美術部の部長もいい人だったけど、まだ中学生だったからかさすがに頼りないところもあって、それでまだ冷静でいられた部分もあった気がする。なのに先輩は、高校生だからなのか、部長よりももっと器の大きさを感じるんだ。


もしかしたら、部長も、今ならこんな感じになってるのかもしれないけどさ……


ずるいよ…私には織姫しかいないのに、どうして私の前に現れるの……?


私、先輩のことを信じてしまいそうになってるよ……


嫌だ…


怖い…


信じるのが怖い……


織姫はもうずっと一緒にいたから、彼女なら信じられるって分かってる。だから彼女さえいれば私は大丈夫だった。なのに今さら、他にも信じられそうな人が現れるなんて、おかしいよ……


確かに、信じられる人は他にもいるのかもしれない。だけど私はもう、それを確かめることが怖いの。織姫さえいてくれたら大丈夫だから、それ以外の人が信じられるかどうかを確かめること自体が怖いの。もしそうじゃなかったらって思うのが怖いの……




中学の美術部の部長の時と同じで、私は、先輩に、『恥ずかしいから付き合ってることは内緒にしてください』と言ってた。だけどそんなの、分かる人には分かるんだろうな。いつの間にか、私と先輩が付き合ってるってことが噂になってた。


「あっちゃん、先輩と付き合ってるの…?」


学校で休憩中、織姫にそんな風に訊かれて私は、サーっと血の気が引くのを感じてた。そんな私の表情からすべてを察したらしくて、彼女は、「そっか…」って寂しそうに笑った。


「あっちゃんと私って、男性の好みが似てるんだね」


一度ならず二度までも好きな相手を横からかっさらっていった私を責めるどころか、織姫は、


「だけど、今度こそうまくいくように祈ってるよ」


なんて言ってくれた。


どうしてよ…!


おかしいよ…!


おかしいよ織姫…!


どうして怒らないの!?


どうして私を責めないの!?


どうしてそんなに優しいのよ…!!


だから私はいつまで経ってもあなたを諦められないんだよ……!!


怒ってよ! 罵ってよ! 『あんたなんか顔も見たくない!!』って切り捨ててよ!! 


じゃないと、私…私……


……


……違う…違うよね……分かってる…それは私が甘えてるだけだって分かってる……本当は私が自分の気持ちにケリを付けなきゃいけないの……


織姫のことが好きだってみんなの前で宣言もできないくせに、踏み越えることもできない天の川を挟んでたまに近付けたらそれだけで有頂天になって、浮かれて、幸せだと自分に言い聞かせて、なのに織姫の恋路を邪魔して、しかも自分からは諦められずに彼女から見限ってくれることを期待してる、どうしようもない最低のクズなんだ……


だからね、私、もう何もかも終わらせようと思うんだ……


こんな最低な私なんてこの世にいちゃいけないと思うんだ……


あんな両親の下に生まれてくるくらいだから、私、本当は間違って生まれてきちゃったんだろうな……


部活が終わった後、いつものように織姫と一緒に帰って、いつもの場所で別れて、でもそれからそんなことをぼんやり考えながら、私は家の方向とは逆に向かって歩いてた。


そこにあるのは、自転車と歩行者しか通れない小さな踏切。


ああ、あそこに立ってれば、私、確実にいなくなれるな……


こんな、生きてる価値もないクズ、確実に<処分>できるな……


もっと早くこうしてればよかった…そうすれば何回も彼女を傷付けずに済んだのに……


私って、本当にどうしようもないクズなんだ……


これならきっと、私かどうかも分からないくらいにめっちゃめちゃのぐちゃぐちゃになれる。


そうだ、私みたいのを勝手にこの世に送り出したあの人達にも復讐できるじゃん。超絶迷惑を掛けられるじゃん。私を罰せられて、この世から消し去って、二度と彼女を傷付けないようにできて、両親にも復讐できて、一石二鳥どころじゃないじゃん。


そう思った時、私は自分が笑ってることに気付いた。


「くくく…あはは…あはははははははははは……!」


何だかすごく気分がいいや…こんな気持ち、生まれて初めてかも……


警報機が鳴ってる。おいで、おいでって私を呼んでる。『さあ、クズを処分しよう』って言ってくれてる。


それに励まされるように、私は歩き出してた。


歩いて、遮断機をくぐって、その時を待った。電車がゆっくりと近付いてくるのが分かる。


へえ、死ぬ瞬間って、こんな感じなんだ……


なんて、やけに冷静に考えてた。


…だけど……




「彦星…っ!!」


誰かがそう声を上げて、私はすごい力で自分の体が引っ張られるのを感じたのだった。




たぶん、勘のいい人なら気付いてたと思う。私の<語り>が、自分以外の人の気持ちとか心の動きとかに殆ど触れてなかったことに。触れてるように見せかけても実は上辺をなぞってるだけだったことに。


織姫のことをあんなに好きだ好きだと言ってたのに、彼女について本当はぜんぜん詳しく触れてなかったりとかね。


結局は、そういうことだったんだな……


私の問題は、<外>にはなかったんだ。原因やきっかけは確かに私の外にあったけど、家庭環境や両親との関係が私をこんな人間に作り上げたのかもしれないけど、でもそれは決定的な問題じゃなかった。


私がこうなってしまった一番の問題は、私自身だったんだ。


きっと、世間の人は私みたいのを<メンヘラ>とか呼んで馬鹿にするんだろうな。


だけど、実はそれが最も適切だったのかもねって、今なら自分でもそう思う。


私は自分で、自分の抱えてる問題を拗らせてしまってただけなんだ。


今の私があの頃の私と会ったら、思わず言っちゃいそうだ。


「あんた、本当にバカだよね」


ってさ……




あの日、踏切の中で立ち尽くしてた私を掴んで引きずり出してくれたのは、先輩だった。その踏切は、先輩が家に帰る時に通る場所で、ちょうど家に帰る途中の先輩が私を見付けてくれたのだった。


でも、もしかすると、私は心のどこかでそれを期待してたのかなとも思ったりする。


だって私、先輩がこの時間にこの踏切を通ることを知ってたから。しかも、踏切に入るのが早すぎて、踏切内のセンサーが私のことを捉えてすぐに電車がブレーキを掛けてたって。ゆっくり近づいてきてるように見えたのは、死の間際に何もかもがスローモーションに見えるっていうあれじゃなくて、本当に電車がスピードを落としてたからなんだって。


そう、私がしたことは、ただのくだらない迷惑行為だったんだ。


だけど、あの時の私は本気で死ぬつもりだった。死ねば何もかも終わりにできると間違いなく思ってた。けれど、電車が止まりかけてることにさえ気付かないくらい、頭がおかしくなってたんだろうな。


「彦星! お前、何やってんだ!?」


先輩はそう言って私を叱った。先輩もその時は私が死んじゃうって思って必死で助けてくれたんだ。それは、私の知らない先輩の姿だった。それなりの時間付き合ってきてたはずなのに、私は先輩のそんな姿を見たことがなかった。彼はいつだって優しくて穏やかで声を荒げるなんてなかったから。


先輩に怒鳴られて、自分が死に損なったことに気付いて、私はその場にヘナヘナと座り込んでた。


正直、大きな声を上げて怒鳴る男性なんて大嫌いだった。だけどそれは、ただ単に自分がムカついたからってことで他人に八つ当たりするだけの器の小さな男が嫌いだっただけで、自分にとって大切なものを守る為についっていうのは当てはまらないんだってその時知った。


彼は、私のことを大切に想ってくれてたんだ……


死に損なったと気付いた瞬間には体中が震えて腰が抜けてしまったけど、彼に支えられて何とか立ち上がって、彼が私の思っていた以上に力があって私よりは体つきもがっしりしてることに気付いた時にはそれがすごく頼りがいがあるように感じられてホッとしてしまったのが分かった。


そしたら急に、胸がドキドキしてしまって……


もしかしたらそれも、死に損なったことで恐怖が湧き上がっていてそれでドキドキしてしまった、いわゆる<吊り橋効果>ってやつだったのかもしれないけど、でももうそんなのはどっちでもいいの。


彼が私を助けてくれて、大切に想ってくれてることが分かったから。




あれからもう十八年。


私は今、三人目を妊娠中だ。


あの頃のことは何だか夢の中でのことみたいに曖昧になってしまってる。私がどれだけ内向きになってしまってて周りが見えてなかったのかを思い知らされる気分だ。


織姫のことは今でも好き。だけど、それももう<いい思い出>ってやつかな。


彼女とは別の大学に進んだけど、在学中に妊娠が発覚。別にやりたいことがあって行った大学じゃなかったこともあってそのまま中退し、彼と、先輩と結婚した。今では普通のパートのオバサン。


でも、後悔はしてない。だって幸せだもの。


そして、織姫も、幸せだって。結婚して、赤ちゃんが生まれたって手紙が届いた。やっと彼女にも本当に<いい人>が現れたんだね。だけど、織姫だったら当たり前か。どんなに回り道しても、時間がかかっても、彼女ならちゃんと相応しい相手を見付けられて当然だったんだ。


ずっと彼女に対しては負い目を感じてきたけれど、これでやっと、それからも解放された。


ごめん…


本当にごめん……


なんて、面と向かって謝ったら、彼女はきっと言うだろうな。


『どうして謝るの?』


ってさ。彼女はそういう人だから。






織姫と彦星。


そんな名前の奇縁に囚われて自分でおかしな物語を作り上げてしまって、私はその中で延々と茶番劇を演じてきた。でももうそれもお終い。彼女と私は、物語の中の登場人物じゃないから。


だからさよなら。


そして、ありがとう。



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