見落とした罠
「嘘つき?私が?笑わせてくれますね。何のことやら」
千早が鼻で笑う。七瀬はその面の目の前に今しがた撮った写真を突き出す。
「まず、一つ目の君の嘘。写真の位置が違うんだよ。君が見せた写真と、この写真。割れている窓ガラスが、君の写真だと割れてない」
七瀬は写真をスライドして見比べさせる。確かに、三つの奥の窓ガラスのうち一つが割られているのに対して、千早の撮った写真では無事だ。
「誰かが割ったのでは?兄と人狼たちとか」
「それは違う。この写真のなかと今の空間で、壁のひび割れ具合が違う。こっちは床も底抜けしてない」
人差し指で指した場所。確かに、写真と現実。異なる点があった。
「それで、何が言いたいんです?この場所では撮ってないと?」
「そう。だけど廃墟は同じ場所。向きが違う」
すると、七瀬は左に向かってまたシャッターを押す。そして、撮れた写真を確認して口角を上げた。
「こっちなら合致するよ」
新たなる四枚目を千早に見せる。窓ガラス、壁のひび割れ。そして千早の立ち位置。全てが合っている。
「要するに、君は隠れてなんかいなかった。君は、お兄さんたちといたんだよ」
「分かりませんよ?急いで撮って、逃げたかもしれません」
「なにそれ。すごい面白い事言うね。俺が思うに、まずシャッター音で気づかれる。そして、ダッシュで君は殺される。人狼は、例え上半身だけの変化だとしても常人の何倍もの身体能力を有する。だからあのとき八重ちゃんは言ったんだよ」
レストランでの一言だ。
『千早さん、あなたよく逃げられたわね』
「あのときはここの構造も分かってなかったから確信は無かったけど、八重ちゃんはたぶん、薄々気づいてた」
「……」
千早は黙りこみ、うつ向いた。
「続けようか。次。君はただの人間じゃない。たぶん、人狼だね?常人には気づかない、八重ちゃんに染み付いただろう、血の臭いを察知したんだ。そんなことができるのは、数あるアンデッドのなかでも狼の優れた嗅覚を持つ人狼だけだ」
「……」
「ボロが出たね。だから君はお馬鹿さんだ。その上で聞こうか。どうして、人狼の君がお粗末な自作自演をしてまでテラー、改め死神協会に連絡してきたのか」
死神協会は、アンデッドの取り締まりが主な仕事。何故そのアンデッドからアクションを起こしたのか。
七瀬が厳しい表情をして詰め寄った。
目の前の小さな肩が震えている。
千早はこちらに向き直り、そして高く笑った。
「あっはははははははは!!!あーおっかしい!!馬鹿はそっちよ!なんで分からないんですか!?これじゃ興醒めもいいところよ!!」
「な……」
千早の顔が、身体中の肌が、ぺりぺりと乾いた糊のように剥がれていく。七瀬は後ずさりながら身構えた。雰囲気が険を帯びる。
そして、狼の毛並みを纏った≪チハヤ≫が現れる。
「七瀬さん。貴方はやはり何にも気づいていない。私は幾つもヒントを出したんですよ?なのに貴方はわかってない!」
チハヤは巨大な鋭い爪を七瀬に奮う。間一髪後方に避けて凶刃を逃れた。コンクリートの床に裂傷。そして、上着の内ポケットから拳銃を取り出す。
「そんな物騒なもの持ってるんですか?警察に言いつけちゃいますよ?」
「その前に君は死ぬよ」
銃口を狼に向けた。
「いいえ。貴方が引き金を引くことはありませんよ。……ウォォォォォォォォン!!」
思わず七瀬が耳を塞ぐ。チハヤの遠吠えが反響して鼓膜を震わせる。脳を直接揺さぶられるような……。そして、聴覚が戻ってくる頃。
「おいおい、笑えないんだけど」
三階だというのに、チハヤ、七瀬、未だ眠る八重の他にも人間がいる。いや、人間ではないか。
二足歩行の狼の皮を被った者たち。それが少なくとも十体はいる。脚力強化でこの短時間で三階まで上がってきたのか。だが、気配は何処にもなかったはずだ。頭を悩ませる。警戒。
「チハヤ様。一班、二班、ご命令に従い参上しました」
「……ハッ。なんの真似だ、これ。展開早すぎて追い付けないっての」
「簡単に言えば、貴方のお姫様が最初からの目的でした。一瞬でも姫から目を離すなんて、騎士失格ね」
言われてはっとする。
「……!八重ちゃん!」
「動くな、死神」
八重の方向を見る。だが、狼の一人が眠る八重を担いでおり、そして、後頭部になにか冷たいものが当たるのを感じた。それが銃だと経験で分かった。
「気を付けな。安全装置ははずしてるぞ」
「この畜生が……!!」
目だけで睨みを聞かせ、ぐるりと半回転。狼兵の顎に蹴りを入れる。銃を発砲、その延長にある天井に弾が突き刺さる。血を吐きながら狼はその場にくずおれた。
次に七瀬は八重を取り返すべく、驚愕している兵に特異な脚力を使い一気に距離を詰める。だが。
「……あ?」
背中に感じる熱。そして、遅れてやってくる尋常でない痛み。
「ああああああああああ!!?」
「へぇ……。死神でも痛みを感じるんですね」
爪に付いた血を舐めて、チハヤが興味深そうに苦しむ七瀬を見下ろしていた。何も感じなかった。一瞬の出来事で、何も分からなかった。
「死んじゃいますか?痛いですよね?でも、死神って死ぬんですか?死ねるんですか?」
うつ伏せの状態にある七瀬の背中の傷をさらに抉る。熱と緊張が身体を走り抜けて、そして、激痛が脳を支配する。コンクリートの床に爪をたてるも、それは抵抗というにはあまりにも小さい。
「こ、の……!!」
チハヤの顔は見えない。だが、笑っている。楽しんでいる。そして哀愁を帯びていると思った。後者はとても少ないと思うが。
「折角の美丈夫も台無しですね。自殺なんかしなかったら良いモデルにでもなれたんじゃないですか?」
「残念……どっ、ぃか、ていう、と……!……れ、はデザ……、だ!」
そんな七瀬の苦し紛れの返し文句も、チハヤは無意味だと言いたげに、さらに背中の肉に爪を食い込ませる。
叫びたかった。だが、叫べなかった。痛みだけが支配する。もう意識も朦朧としてきた。霧に包まれるように、何も見えなくなっていくような、そんな感覚。
チハヤはしゃがみこんで、七瀬の流れた血に触れる。
「……お兄様も、こうやって死んでいったんですよ?痛くて、痛くて……。悔しいんです……。だから、私もあの子と同じ事をしますね?」
そう言って、チハヤは悲しそうに、嬉しそうに笑う。
彼女の意味するあの子。お兄様。
その時、七瀬のなかでからまっていた糸が紐解かれた。だが、時すでに遅し。七瀬は血を失いすぎた。チハヤが耳元に口を近づけた。
「……貴方に対しては優しいほうですよ?貴方は終われるんです。この苦しくて暗い旅路から。光に包まれて眠りなさい……死神に、光など無いでしょうけどね。あっはははははははは!!!」
優しい声と、狂喜。それらを聞きながら、七瀬の意識は深い闇へと誘われる。もう目も霞んできた。横を歩いている狼が人の皮を被った。そして、目の前の割れた窓から去る。
待て。その子を連れていったら、駄目だ。
だが、全ては自分の至らなさ。不注意。油断。己を呪いながら、身体に抵抗するも、七瀬はゆっくりと目を閉じるしかなかった。