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温泉に浸かって

作者: 彼方

 僕は久々に仕事でまとまった休みが取れたので、恋人と共に温泉旅行へと出掛けることになった。かなりの定番の温泉街だけれど、それでも長い事こうしてゆったりと旅行を楽しむことはなかったので、僕にとっては素晴らしい温泉街には変わりはなかった。

 そうしてホテルに着き、まず僕らは各々別れて浴場へと向かったのだけれど、脱衣場は大きく、扇風機が回っていて、夏にはとても涼しく、僕はさっそく服を脱ぎ、タオルを持って浴場へ入った。黒い石の床をゆっくりと歩いていって、一つの鏡の前に腰を下ろして体を洗った。

 ようやく一心地つき、僕は温泉へ浸かることにした。そっと足を浸けた瞬間、熱いには熱いけれど、僕にとってはちょうどいい温度のお湯で、すっと自然に中に入ることができた。熱すぎると時間が持たないのだけれど、これぐらいの温度であれば、長く浸かることもできるだろう。

「ふーーーー」

 僕は大きく息を零してどっぷりと肩まで浸かりながら、外の景色を見つめた。ただ露天風呂の周りに木々の影があるだけのものだけれど、遠くに空の色がくっきりと見えていたりして、僕には素晴らしく爽快だった。

 とてもゆったりとしていて、まさに爽快な、そんな温泉に浸る時間だった。

 仕事のこと一切を綺麗さっぱり忘れて、ただ温泉の熱さと、体の疲れの搾り取られる心地良さと、外の藪の景色に心洗われていれば、それだけで今の僕は満足に思えた。けれど、夕食も楽しみだし、晩酌も本当に今から浮き立つように楽しみだった。

 顔に手を当てて、少しだけ擦りながら、僕はそのままずっと湯に浸かっていたけれど、そこでふと僕の目の前を過っていく年輩の男性が、頼りない足取りで浴槽の段差を上っていった。そして、「うわっ」と声がしたと思うと、その肩がぐらりと傾ぎ、そのまますっ転びそうになった。

 わっ、と同じく悲鳴を上げながら、僕は慌てて立ち上がり、彼の背中を支えてバランスを取った。彼はゆっくりと座り込んでしまい、「あちー、のぼせたな、これは」と嘆いている。

「のぼせるまで湯に浸かっているのは、まずいですよ。ほら、立って」

「そんなこと言ってもねえ、君だってこの温泉じゃ、同じようになるよ」

 老人はそう言い訳のようなことをつぶやいていたけれど、脱衣場まで来てようやく頭の湯気がわずかに取れたらしかった。

「すまんかった。あんたも、のぼせないようにな」

 老人はそんなどこか遠い、達観したような眼差しで僕を見つめると、網目の椅子に座ってぼうっと扇風機の風を受けていた。

 僕はわずかに笑いながら、そんなにのぼせるまで浸かる訳ないだろ、と思いつつ、今度は露天風呂でゆっくりと体の疲れを取ることにした。

 何というか、本当に素晴らしい温泉だ。浸かっていると、どこか天国の景色が見えてきそうな気がする。他の男性は非常にだらしなく表情を弛緩させて、その湯を味わっているようだった。

 本当に、素晴らしい温泉。いつまでも、永遠に浸かってても大丈夫なぐらいだった。

 しかし、頭がどこかぼうっとしてきたので、僕はそろそろ上がるか、と腰を上げたけれど、そこで――。

「うわっと!」

 体がふらついて危うくすっ転びそうになった。近くの男性が慌てて僕の体を支えて、どこか呆れたようにこちらを見つめてくる。

「あのね……そんなにのぼせるまで入るのは危ないから、やめな」

「いや、あなたも気を付けた方がいいですよ。この温泉は――」

「大丈夫だよ、すぐに上がるしさ」

 僕はゆっくりと男性に肩を借りながら脱衣場へと進み、網目の椅子に座って扇風機の素晴らしき爽風を額に受け止めた。男性はもう一度僕を哀れみの目で見つめると、そのまま浴槽へと入っていった。

 何か、デジャブのようなものが僕の意識に染み付いていくのがわかった。

 ついつい、長風呂してしまった。あの温泉に浸かると、自然と後へ後へと長引いていって、もう上がるかいやまだだろう、の問いを永遠に繰り返すことになる。そして、最後は盛大に転びそうになり、この扇風機の恩恵を受けることになる。

 ふと周囲を見ると、脱衣場にいくつも設置された扇風機の前に、ぐったりと椅子に腰を下ろして風を額に受けている男性が何人も並んでいた。僕もその一人だ。まさか、全員そうなのか? と僕はふと脱衣場の扉が開いた時に、そっと浴場の方を向いた。そして――。

「おわっと!」

 先程の男性の声がして、危ない! と誰かの悲鳴が聞こえてきた。そして、何か言葉を交わす囁き声が聞こえて、その男性が運ばれてきた。

「やあ……また、会った、ね……」

 男性の顔は林檎飴のようで、そして冷や汗を浮かべながら、僕の隣に座った。

 僕は何とも言えない脱力感を覚えながら、ただ「素晴らしき温泉かな」と顔を一層扇風機に近づけて、前髪をはためかせながらつぶやいた。


 了 

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