(5)
「そうそう、それは是非聞きたい」
「あんたが言い出したんじゃなかった?」
「あれ? 早紀の方から言い出したんだろう?」
「ええっ! あんたから言い出したんじゃないの!」
「俺は言ってないさ。ええ? 何か変だぞ。」
「私だって言い出してないわよ。お互いにそう思ってたのかしら」
二人とも首を傾げて暫く考えたが謎は解けなかった。
「おかしいなあ、お互いに相手が言い出したと思い込んでるなんてね」
「ひょっとして、私達誰かに操られてるんじゃないのかしら?」
「こ、怖い事言い出すなよ。誰かって誰だよ。み、身に覚えは無いぞ」
「そうよね、そんな事ある訳無いわよね。……確かめておきたい事ってそれだけ?」
「いや、もう一つある。俺が寝たふりをしていて、お前がずぶ濡れで雄介の腕を引っ張った時の事さ。貴方が好きですって三回も言ったよな。あれって本気だったろ、違うか?」
「えへへ、分った? 言いたかったのよ、雄介に思いっきり」
「えへへ、じゃ無いよ。俺はムカッと来てさ、何もかもばらそうかと思ったんだぞ。その後でドンドン、ドンドンって何度もドアを叩くしさ。雄介が俺を起こすのがもう一分遅かったら、切れてたな」
孝雄は如何にも悔しそうに言った。
「ちょっと待って。私、彼に、さあ一緒に黄泉の国へ行きましょうって言った後、直ぐワゴン車に戻ったわよ。濡れたままじゃあ風邪引いちゃうから、大急ぎで服を脱いで身体を拭いてた。ドアをドンドンなんて叩いてない」
「そんな筈は無いよ。ドアが壊れるんじゃないかって思う位強く叩いたじゃないか」
「ち、違う。第一そんなに叩いたら、ご近所の人が駆け付けて来るでしょう?」
「あ、そうか。じゃあ、誰なんだ? それにあんなに音がしてどうして誰も来なかったんだろう。あれ? 変だな……」
二人はまた考え込んでしまった。
思案していると先程からこちらを時々見ている、右端に座っていた若い女性が、暑いのだろうかカーディガンを脱いで二人に向かって歩いて来た。赤い半袖のワンピースに長い髪である。それに気付いた二人は青くなった。
「半袖の赤いワンピースを着た髪の長い若い女性、そのまんまじゃないの!」
「あ、ううう……」
孝雄はしまったと思った。この種の話は早紀の弱点だった筈。しかし同時に自分の弱点でもあったのだ。何しろ声すら出せないのだから。近くの席の人達も、二人のただならない気配に気付いたのか、緊張感が一気に高まった。
しかしにこやかな顔で、
「あのう、今村さんですよね」
と、その若い女性が早紀に話しかけたので、相当に高まっていた緊張感はスーッと解れて行った。
「はい、そうですけど、貴方は?」
「木内留美です。三年位前に大学病院で亡くなった亮子の妹です。何度かお会いしてますよね。ああ、あの時私はセーラー服だったし、髪も今より大分短かったからかなり印象が違うかもしれませんけど。それにがりがりに痩せてましたから」
「ああー、木内亮子さんの妹さんね。まだ高校生だったわよね。ねえ、孝雄も一度や二度は会ってる筈よ」
「ああ、思い出した。確か高校三年生だったと思うんだけど、今は大学生ですか?」
「いいえ、高校を卒業して直ぐ就職しました。ちょっと不本意だったんだけど父の会社に入ったんです。就職難でなかなか思うような仕事が見つからなくって」
「大卒の人だってフリーターやってる位ですからね」
早紀は孝雄を見ながら言った。
「お、俺を見る事はねえだろう。……ところでハワイには観光旅行ですか」
「いいえ、父の会社のホノルル支店で研修です。と言うより英語の勉強が主なんですけどね。一応貿易関係の仕事なのである程度出来ないとちょっと。だけど才能が無いみたいです。今後の事を相談する為に一時帰国するんです。出来れば別の仕事に付きたいと思っているんですけど」
「へえーしっかりしてるわね。で、どんな仕事に付きたいんですか」
「それはこれから。何か資格を取って定職に付ければ良いなと思っています」
「感心ねーっ、誰かさんとは大違いだわ」
また早紀は孝雄を見ながら言った。
「いちいち俺と比較するなよ。お、俺にだって輪ゴム回しの世界チャンピオンっていうプライドがあるんだからな」
「輪ゴム回しの世界チャンピオンって何ですか?」
「あーっ! な、何でも無いの。この人の個人的な趣味だから、気にしないで下さい」
「そ、そうですか。……ところで姉が凄く気にしてたんですけど、小山雄介さんは今どちらにおられるのでしょうか」
「雄介さん? 特別に親しかったんですか?」
「いいえ、姉の片思いだったんです。余命幾ばくも無いって分っていたものですから。告白なんかしたら雄介さんにご迷惑が掛ると言って、ひたすら耐えていたんです。
燃え尽きる直前の本当に激しい恋だったと思います。でも余りに思いが強過ぎて、ひょっとすると雄介さんの周りで何かおかしな事でもあったんじゃないかって、ああ、これは私の思い過ごしですね」
孝雄と早紀は思わず顔を見合わせた。雄介を巡る数々の不可解な出来事の元凶は木内亮子だったのではあるまいか。雄介のアパートを訪ねて来た女性達が、何かに怯える様に直ぐ言い訳して帰ってしまったのも、そのせいかも知れない。
「私出来れば、雄介さんにお会いして、姉の思いを多少なりとも伝えたいと思うんです。ご迷惑にならない程度に。そうしないと何だか姉が浮かばれないような気がするんです」
「成る程。雄介はね、自分の田舎に……」
「孝雄! 余計な事は言わないで頂戴! 悪いんだけど雄介さんをそっとしておいて欲しいんです。テレビのニュースなんかで取り上げられた事もあるので、知っていると思いますけど、彼は一度死に掛けたんですよ。
木下涼子という女性に無理心中させられそうになりました。まあ私にも責任の一端はありますけど、その時のショックからやっと立ち直ったばかりなんです。当分の間、遠くから見守っているだけにして頂けませんか」
しかし木内留美の表情は険しいものになった。
「別に知らせて頂かなくても結構です。こちらの方で勝手に調べて私は彼に会いに行きます。せいぜい邪魔だけはしないで下さい」
「な、何ですって。どうしても雄介さんに会いに行くって言うんですか!」
「はい、私は姉と約束しました。お姉さんの意思を私が引き継ぐって」
「ば、ばかばかしい。恋ってそんなものじゃないでしょう? 仕事か何かと勘違いしてるんじゃないんですか!」
早紀は軽蔑的な言い方をした。
「貴方に理解して貰おうとは思っていません。ただ誤解なさらないで下さい。私は姉以上に彼が好きです。大学病院で一目見た時からね。私の彼を好きだという感情は多分人間のそれを超えていると思います。不思議な力に目覚めましたから」
「な、何を言ってるの。不思議な力なんて、あ、あ、ある筈無い」
段々怖くなって来た。言葉では否定したが、本心では否定し切れなかったのだ。
「警告の意味で私の霊を一度だけ見せて差し上げます。事故を起こしたトラックの運転手やその他の人達が見たものと同じものをね……」
留美の声は次第に不気味なものになっていった。
「や、止めて! 止めて!」
早紀は涙ぐみながら叫んだが、それは頭の中だけで響いて声にはならなかった。辺りは真っ暗になった。身体は硬直して動かない。瞬きさえ出来ないのだ。ずっと向うの方に赤い布切れの様な物がふわふわと浮かんで見える。
よく見れば半袖の赤いワンピースである。それはどんどん近付いて来て、両手、両足と顔が現われ、人である事が分った。
「ああ、涼子!」
顔は疑いも無く木下涼子だった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
早紀はひたすら謝った。更に近付いて来ると、
「えっ、木内亮子さん? す、すみませんでした。本当に申し訳ありませんでした!」
姿形は木内亮子に変っていた。早紀はやはり謝罪した。もっと近付いて数メートル先まで来るとその姿は木内留美になった。
「お、お前は木内留美! わ、私をどうする積り!」
留美は物も言わず、ジリッ、ジリッと寄って来る。
「な、何もかもお前がやったのね!」
早紀が強気に叫ぶと、留美はとても人間とは思えないような恐ろしい形相で睨みながら、グーンと素早く接近して来てそのまま激突した。
「どん!」
大きな音で目が覚めた。全身が痛い。気が付くと通路に倒れていた。
「い、痛い!」
「おい、ど、どうしたんだ。だ、大丈夫か」
慌てて孝雄が助け起こした。
「あいつよ、あいつが犯人よ!」
「あいつって、誰だ」
「だから木内留美よ。犯罪者よ彼女は。トラックの事故を起こさせて二人に大怪我をさせたのよ。れっきとした犯罪よ。あ、あいつは何処へ行った?」
「何を言ってるんだ。ここが何処だか分るか?」
「何処って、飛行機の中、……あれ?」
「ターミナルだぞここは。飛行機はもう着陸したんだ。何を言っても上の空だったんでおかしいとは思ったけど、途中の記憶が無いのか?」
「ええっ? わ、私、……木内留美は何処へ逃げたの? ああ、さては雄介に会いに行ったのね!」
「お前、留美さんと話してる途中で寝てしまった事を覚えているか?」
「私、寝てなんかいないわ。彼女に霊を見せられて金縛りにあったみたいに動けなくなった。彼女がぶつかって来たと思ったらここに倒れてたのよ」
「ふーん。……分った、信じるよ。でも俺の言う事もしっかり聞いて欲しい。お前が留美さんと話をしている途中でスーッと寝入ってしまったんで、代りに俺が話をした。勿論雄介の住所を教えた」
「だ、駄目よそんな事! 雄介が可哀想だわ!」
ムキになって叫んだ。