(4)
三年後、今村早紀と吉田孝雄は結婚し旅客機で新婚旅行先のハワイへ向かっていた。
「さあーっ、孝ちゃん。ハワイに着いたら子作りに励むわよ!」
「どっ!」
近くの席の人達が一斉に笑った。
「は、恥ずかしいから止めてくれよ!」
孝雄は真っ赤になった。
「だって本当の事じゃない。もう夫婦なんだし誰に遠慮がいるもんですか」
「だ、だからさ、もうちょっと小さな声で言ってくれると、良いんだけどなあ」
「ああ、そう、それならそうと早く言ってよね。……だけどさ、雄介の保育師さん振り見てみたいよね」
「何も今雄介の話をしなくても。いっつも、雄介、雄介、なんだからな……」
「あれ、何か言った?」
「いや、な、何も」
「宜しい。だけどさあんたも本当に偉いよ。あの時良く涼子が後を付けていた事に気が付いたわね」
「まあ、美人は直ぐ分るんだよ」
「何だって」
「いや、そ、その最初は早紀だって思ったんだ。美、美人だったからね」
「うんうん、それなら納得」
「ところが早紀はワゴン車の中で次の扮装をしている筈だよね。そういう計画だったんだから」
「その通り」
「それで俺としては頭脳をフル回転させて、それが涼子だって見破ったんだ」
「あんたのそこまでの人生で一番頭を使ったんじゃないの?」
「そ、そこまで言うかな普通、自分の夫を捕まえて。まあその通りなんだけどさ。後ろめたかったんだよ、雄介を騙すのって気が重くてね。それで逆に必死になったんだよ。親友の一大事かもしれないし、実際死に掛けたんだからね」
少し顔をしかめて言った。
「あら、結構楽しそうにやってたと思うけど。私とキスが出来て張り切ってた筈よ」
「そりゃ好きな女とキスが出来りゃ張り切るさ。でも俺の為じゃなくてお前が雄介に好かれる為なんだよな。複雑な気持ちだったよ」
「ふーん、あんたにもそんなデリケートな所があったんだ。……それで駅に着いてからどうしたんだっけ?」
「雄介の後を付けて行くのかと思ったら俺の後を付けて来たんだよね。しょうがないから電車に乗ったよ。で、発車する寸前に何気なく階段の辺りを見たら、早紀の扮装をした涼子の後姿が見えたんだ。慌てて降りて今度は逆に俺が涼子の後を付けた。気付かれない様にするのは大変だったんだぞ」
「それですっかり痩せたのねって、ますます太ったわね」
「俺の場合は神経をすり減らすと太るんだよ。体質なんだからしょうがないよ」
「はい、はい、それでどうしたの」
「涼子はレンタカーで何処かへ行ってしまった。多分この世の名残に思い出のある場所を何ヶ所か回っていたんだと思う。その時お前がワゴン車で待っていてくれれば良かったのに帰っちゃったんだよね」
今度はウンザリした顔で言った。
「しょうがないでしょう。あんたがワゴン車の中に携帯電話を忘れちゃって、連絡が取れなかったんだから。眠くなって来たから家に帰って寝ちゃったんだもの」
「あーあ、俺が必死になって動き回っている時に、のほほんと寝てるんだものな」
「へいへい、悪う御座いました。十分に反省して、貴方と結婚したので御座いますよ」
「まあ、その位はして貰わないとね」
「それからどうしたの?」
「涼子の後を付けるべきかどうか迷ったんだけど、雄介の様子が変だったから再び駅へ戻って、今度は彼の後を付ける事にしたんだ。
後は前にも話した通り涼子と雄介の乗った車を、タクシーの運転手に、ひょっとすれば心中するかも知れないって話して、気付かれない様に尾行して貰った。
あれだって際どいタイミングだったんだ。幸いレンタカーだったから特徴があって尾行し易かったんだけど、それでも後一、二分遅かったら、左折した事に気が付かずにアウトだったな。
そうこうしている内に案の定、海へドボンだ。通報が早かったから二人とも一応助かったけど、可哀想に涼子は発作を起こして死んじゃったよね」
「そうよね。涼子が百パーセント死ぬって分ってたら、あんな事しなかったのに。雄介さんに顔向け出来なくなっちゃった。涼子にももっと優しくしてやれば良かったって凄く後悔してるの」
「ああ、そうそう。前には言わなかったんだけど、あの時おかしな事があったんだよ」
「おかしな事?」
早紀は怪訝な顔で孝雄を見詰めた。
「うん。駅前で夜中にうろうろしている連中の中に俺の知り合いがいるんだよ。そいつにどうしてあの晩早く帰ったんだって聞いてみたんだ。たまに警察の手入れがあるんだけどね」
「何の取締り?」
「主に覚せい剤の売買の取締りかな。それがらみかなって思ったんだけど違うんだよね」
「雨でも降って来たんじゃないの?」
「いや、あの晩は俺が雄介と一緒に駅へ向かった時からずっと晴れてたよ」
「じゃあ、何なの。それによくそんな前の事を覚えていたわね、あんなその日暮みたいな連中が」
「あの晩の事は一生忘れないって言ってたな」
「な、な、何それ」
今度は早紀が顔をしかめながら聞いた。嫌な予感がある。
「どうしても帰りたくなったんだってさ。誰かに恐ろしい目で見られているみたいで、とても居られなかったんだそうだ」
「だ、誰かにって、誰によ」
「他の連中も同じ事を言ってるらしいんだけど、半袖の赤いワンピースを着た髪の長い若い女性だそうだよ。ふわふわと宙に浮いていて物凄い目で睨むんだそうだ。
ただここが微妙な所なんだけど、本当に見たと言うよりもそんなイメージがあった、という事らしいんだよね」
「なーんだ、イメージじゃ当てにならないわね。びっくりさせないでよ。そんな事位で帰っちゃうなんて皆臆病だわね」
「ところがだよ、もう一つ不可解な謎があるんだよ」
「まだある訳?」
今度は幾分しらけ気味に聞いた。大したことじゃないと思ったのだ。
「あの晩二つの大きな事故があったのは知ってるよね」
「うん、ほぼ同時刻にトラックの横転事故があったのよね。たしかどっちも居眠り運転だったと記憶してるけど」
「そうそう。この間のテレビの特番でその事故も取り上げられていたんだけど、見た?」
「見てないわね。私はドラマ専門だから、そういうのってあんまし興味無いのよ」
「俺も特に興味があった訳じゃないんだけど、あの時の事故の話らしかったんで取り敢えず見てみたんだよ。そしたらね世にも不思議な事故だったんだ」
「世にも不思議って、事故は事故でしょう? そんなに不思議な事なんてある訳無いじゃない」
「ところがあったんだよ。たまたま両方の事故とも、一部始終をビデオカメラで撮っていた人がいてね、リアルタイムで時刻が画面に映ってたんだ。そしたら」
「そしたら?」
「一分一秒も狂い無く全く同じ時刻に事故が起きてるんだよ」
「えっ! ぐ、偶然よ。偶然に決まってるわ!」
早紀は真っ青になって否定した。話をそれとなく聞いていた近くの席の人達も、内心穏やかではない。孝雄は早紀の言葉を半ば無視して話を続けた。
「トラックの運転手は二人とも大怪我をしたけど、命に別状は無くてその時の様子を聞く事が出来た。二人とも同じことを言ったんだ。
半袖の赤いワンピースを着た髪の長い若い女性が、ふわふわと宙に浮いている様に見えたんだそうだ。そして物凄い目で……」
「キャーーーッ! や、止めて! もういい、もうその話は止めてよ!」
「わ、分った。もう終りにしよう」
孝雄は内心ニヤリとしていた。早紀の弱点を捕まえた、と確信が持てたからである。もっとも早紀の激しい反応は、雄介を必要以上に追い詰めてしまった罪の意識から来たもので、聞き耳を立てていた近くの席の人達にとっては、ちょっと怖い話位にしか感じられなかった。
ハワイに滞在中は予定通り二人は子作りに励んだ。一週間はあっと言う間に過ぎ、今は帰りの旅客機の中。その二人は気になる視線を感じていた。
「ねえ、向うの方に座っている白っぽいカーディガンを着ている若い女の人、時々こっちを見ている様な気がするんだけど、気のせいかな」
「いや、俺も見られている様な気がするんだけどな。でも見覚えが無いな」
「うーん、私ねどっかで見た様な気がするんだけど、思い出せないわね」
結局誰なのか分らないままその視線は無視して、話題はまたもや幽霊騒ぎの事になった。
「俺さ一つ二つ確かめておきたい事があるんだよな」
「改まって、何?」
「一つ分らないのは、何も幽霊騒ぎなんぞ演出しなくても、お前が雄介に直接アタックすれば良かったんじゃないのか? 自信が無かったのか?」
「うっ、い、痛いとこ突いて来るわね。その通りよ、自信が無かった。もし涼子が病から復活して来たら、それだけでも英雄みたいなものでしょう? その上美人で頭が良いし、何より雄介が彼女の事好きだって分ってた」
「えっ、雄介が? でも釣合いが取れないって言ってたと思うがな」
「はあ、鈍いわね。あの二人の壁は釣合いが取れない事だけだったのよ。仲良かったでしょうあの二人」
「ま、まあな」
「その壁は退院する事によって消滅するのに違いないって思った。そしたら私の出る幕は無い。人生真っ暗だわ」
「俺が明るくしてるだろう?」
「今の話じゃなくて、その時の話よ。それで何とかしようと思い付いたのが彼女の幽霊騒ぎよ。上手く行ったと思ったのに彼女に筒抜けだった。でも変なのよね。どうして彼女の病室で相談したのかしら?」