(2)
「変だなーっ、はあーっ、飲み直すか。孝雄には起こしてからで良いな。涼子が死んだなんて信じたくは無いけどな」
「トン、トン」
雄介が戻り掛けた時、またもやノックの音がした。
「誰ですかっ!」
さすがに今度は怒りの口調で言った。誰かの悪戯だと思ったからだ。
「あのう涼子です。お話があります。外に出て来てくれませんか」
「悪い冗談は止めて下さい。涼子って私の知ってる木下涼子さんですか」
「勿論です。悪い冗談なんかじゃ有りません。ただ私は病気なので手に力が入らなくてドアのノブが回せないんです。お願いです、ドアを開けて外に……」
「分りました。ドアを開けます」
雄介の足が震えた。呼吸を一つ大きくしてからドアのノブに手を掛けると、ゆっくりゆっくり回した。
『死んでいる筈の涼子がどうしてここに居るんだ。ま、まさか、まさか……』
静かにドアを開けると、そこには青白い顔をした涼子が立っていた。ずぶ濡れでしかも裸足である。涼子が死んだという情報は何かの間違いだと雄介は思った。何かの都合で病院を抜け出して来たのだと信じようとした。
「涼子さん、か、風引いちゃいますよ。さあ、中に入って」
「だ、駄目です。入れないんです。外に出て来て下さい!」
涼子は雄介の右腕を両手で掴んでぐいと引いた。とても病人とは思えない凄い力だったが、両足と左手で踏ん張って必死になって涼子の両手を振り解き、ドアを閉め鍵も掛けた。
「き、木下涼子は、ご、午後八時頃死んでるんですよ。貴方は誰なんですか!」
「貴方が好きです! 貴方が好きです! 貴方が好きです! 貴方と一緒でなければ死んでも死に切れません。さあ! 一緒に黄泉の国へ行きましょう!」
「トン、トン」
「嫌だ、俺は行きたくない!」
「トン、トン」
「帰れ、俺は行かない!」
「ドン、ドン、ドン」
「帰れ! 帰れ!」
「ガン、ガン、ガン、ガン」
ドアのノックの音は次第に激しさを増し、壊されてしまうのは時間の問題のように思われた。
『嫌だ、嫌だ、俺はまだ死にたくない。……待てよ孝雄にドアを開けさせれば、ひょっとすれば俺は助かるかも知れない。ゆ、許せ孝雄!』
雄介は慌てて孝雄を起こした。まだ少し時間は早かったが今はそれどころではない。
「ああ、もう時間か、ふぁーっ! 良く寝た。じゃあ俺は行くからな。どうした、顔色が悪いぞ」
「ちょっと飲み過ぎたかもな。あれ? ノックが止まった。何故だ、……ああ、そうか!」
雄介は涼子の現れるタイミングを必死になって考えてみた。一つの共通点に気が付いた。自分が一人きりの時に限って現れるのである。
「おい、ノックがどうした。まあいっか。じゃあね」
「明日は何かと大変らしいな。えーと、ちょ、ちょっと用事があるから駅まで送るよ」
「へえーっ、珍しい事も有るもんだな。そんな事をすると、降ってる雨も止んじゃうぞっと、本当に晴れてるぞ。こりゃ事件だのう」
ここ暫く続いていた雨が漸く峠を越えたらしい。雲の切れ間からポツリポツリと星が見える。駅までの道々雄介は木下涼子の死を孝雄に伝えた。
だがその涼子の亡霊らしき者の存在については語らなかった。喉まで出掛かったが言えずに別れた。いつに無く寂しい別れとなった。
『とにかく誰かと一緒に居れば良い。何処に行けば良い?』
暫く駅の周辺でうろうろしながらどうしたものかと考え続けた。そうしている内に日付は変わったが、夜明けまで持堪えれば何とかなりそうな気がした。
駅の周辺では風変わりな格好をした連中がうじゃうじゃ居て結構賑やかだった。
『こいつ等は朝まで居るんじゃないか。だとすればここいらでぶらついていれば、少なくとも一人になる事は無い。良し、そうしよう』
方針は決まった。しかしそれから十分もしない内に、その連中はぞろぞろと帰り始めた。一人になるのが恐ろしかったので、一番人数の多そうな一団の後をつけた。
だがその連中は何台かの車に分乗してあっと言う間に走り去ってしまった。慌てて他の一団の後もつけてみたが、皆同様に車で走り去った。
気が付くと彼の周りには殆ど人が居なかった。僅かな救いは道路を車がびゅんびゅん走っている事である。ところがそれから幾等も経たない内に車の台数までもが急激に少なくなっていった。
『一体何なんだ。俺をどうしても一人にする積りなのか! 木下涼子の霊なんか怖くは無いぞ。来るなら来い!』
雄介は泣き出しそうになる気持ちを必死で抑えていた。歩道を行ったり来たりしながら時々しか通らなくなった車をずっと目で追ってみたり、不測の事態に備えて四方八方に気を配ったりしていた。
辺りが静かになると遥か遠くで鳴っている救急車やパトカーの音が一層不安を掻き立てる。
『何か大事件でもあったのか? やけに鳴ってるな。……く、くそう負けるものか!』
夜明けまでは後、数時間。他の場所に行く気力も無いまま、ただひたすら歩道の行き来を続けていた。
それから暫くして「キィーッ!」とブレーキ音を響かせて一台の乗用車がかなり先の方に止まって、その後ゆるゆるとバックして来た。
助手席の方の窓を開けて顔を覗かせ、
「雄介君! こんな所で何してるの。ああ、私、早紀よ、今村早紀。分るわよね。今大学病院の方に行く積りなんだけど一緒に乗ってかない?
朝になってからって思ったんだけど居ても立っても居られなくて、貴方のアパートにも寄ったんだけど留守だったし、あちこち探したのよ。こんな所に居るなんて思いもしなかったから、随分時間が掛っちゃった。さあ、乗って」
「ああ、分った。い、色々あってね、ちょっと散歩してたんだよ。ね、眠れなくてね」
口から出任せを言いながら、
『ああ、これで暫くは持つ。病院に着いてからだって何があるか分りゃしないけど、車の中なら安全だ。少なくとも一人じゃないんだからな』
雄介はほっとして助手席に乗り込んだ。車が走り出した途端に喉がカラカラである事に気が付いた。
「何か飲み物は無いか。妙に喉が渇いちゃってね」
「ああ、後ろの座席にポットが置いてあるから。ホットコーヒーなんだけど良いかな。蒸し暑い時にあれなんだけど、私アイスコーヒーって苦手なのよ」
「うん、分った。今日はそれ程暑くないから、ホットで十分だよ。……ああ、美味しい。生き返ったあ、ふう」
少しの間沈黙が続いたが、
「ふふふふっ!」
いきなり早紀が笑い出した。
「んっ、何が可笑しいんだ?」
「うふふふっ!」
「どうしたんだ?」
「やっと二人きりになれたわ」
「そりゃ二人きりに違いないけど、そんなに可笑しいか?」
「まだ気が付かないの? これから私が言う事を冷静によーく聞いてね。雄介さんは、今村早紀と吉田孝雄の二人に完全に騙されてたのよ。木下涼子が死んだなんて真っ赤な嘘なのよ!」
「えっ! さ、早紀、何を言ってるんだお前は!」
「私は早紀じゃない! 木下涼子よ!」
「えっ、な、何だって!」
雄介には何がなんだか訳が分らなくなった。
「落ち着いてよーく聞いて。今回の私の幽霊騒ぎは全て早紀のシナリオなのよ。早紀は貴方が好きなのよ、私もだけど」
「早紀が俺を好きだって? ま、まさか」
「本当よ。貴方の前ではそういう素振りは見せなかったけど、貴方の居ない所ではそりゃ凄かったんだから。私と火花を散らしてたのよね。
でも私は病気になった。しかも治療方法の無い病。今は小康状態を保っているけど、後何年生きられるのか何の保証も無いの。
ところがこの病気に掛った人のうち三割位の人は自然治癒するのよ。それが早紀の悩みの種だった。そこで幽霊騒ぎを作り出して私のイメージダウンを謀ったっていう訳。万一私が元気になっても大丈夫なようにね」
「し、しかし、本当に君は涼子なのか。それにさっき俺のアパートで見たのは確かに涼子だったと思うんだけど」
「私が木下涼子である事の証明は簡単よ。私は国旗に詳しい。こんな事自分で言うのも何なんだけど国旗ってとても覚え難いものなのよ。試にやってみましょうか?」
半信半疑の雄介は聞いてみる事にした。
「そうだな、疑う様で悪いんだけど、少し言ってみてくれないか」
「分ったわ。そうねえ、例えばアイルランド共和国は三色の縦縞で左から緑、白、オレンジ。この順序が逆なのがコートジボアール共和国。
それから殆どの国の旗が横長の長方形なのに対して唯一ネパール王国の国旗だけが違うの。左下が直角になっている二つの直角三角形を一部分重ね合わせたような形で、紺色の縁取りがあって地の色は赤。白色で下の方に太陽、上に月を表す独特なイラストが描かれているわ。
それとこれも一つきりなんだけど正方形の旗はバチカン市国よ。左半分が黄色で右が白。白の方に鍵と冠のとても複雑な紋章が描かれている。Rの文字が真中に大きく描かれていて、赤、黄、緑の三色旗はルワンダ共和国で……」