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小山雄介は大学時代からの悪友、吉田孝雄を自宅の安アパートで待っていた。二階建てアパートの一階、向かって右端に彼の自宅は有る。
駅から徒歩十分の利便性は有るが、何しろ古い。築五十年にはなろうかという代物で、家賃が安いのだけが取り柄である。
たまに彼の家に訪ねて来る女の子達は、何故だか酷く驚いたような顔をして、大抵玄関先で急用を思い出し、慌てふためいて帰ってしまう。多分余りにボロ家なので嫌気が差しての事だろうと推測していたが、それでも雄介は平気だった。
「ふん、俺は短気な女は嫌いさ」
そう言っては余り持てない者同士、吉田孝雄と飲んだくれてうさを晴らすのである。結構それが楽しいのだ。今夜も孝雄が来る事になっている。
六月の雨はしつこい。一週間ほど前から断続的に降っている雨は今も続いている。今日は風も無くただしとしとと降っていた。気温は例年より低く湿度の高い割には過ごし易い夜になった。
畳敷きの部屋で折畳み式のテーブルを部屋の中央に置き、酒と摘みとカップが二つ。もう準備は出来ている。午後八時、そろそろ来る頃である。
「トン、トン」
ドアにチャイムがあるが故障しているらしく三回に一回位しか鳴らないので、事情を知っている者は必ずドアをノックする。
「はい、開いてるよ。何してるんだ、孝雄! 入って来いよ」
何時もならノックもろくにしないで入って来るのに、何をもたもたしているのか。ひょっとすれば酒の摘みを大量に買い込んで来て、ドアのノブを上手く回せないのかも知れない。
「しょうが無いなあ全く」
雄介は面倒臭そうに立って行ってドアを開けた。
「こ、今晩は」
「えっ、あれ? 木下さん?」
「ええ、涼子です。お久し振りです」
「そ、それは良いんだけど、病気の方は大丈夫なんですか。入院してたんじゃあ」
木下涼子はやはり同じ大学生時代の友人である。雄介が告白された唯一の女性である。相当の美人だが、彼は自分には彼女が居るからと嘘を言って振ってしまった。彼が振った唯一の女性でもある。
涼子は大学でもトップクラスの成績。雄介はどん底レベル。とても釣合わないと思った。もっとも振った後であれだけの女をどうして振ったのかと猛烈に後悔した。
しかしその後彼女は重い病に冒され、ここからは相当離れた所にある大学病院に入院している筈である。
「大分良くなったので、一時的に退院が許可されたんです。あのう、雄介さん私と外で少しお話しませんか。ちょっとで良いんですけど、直ぐ帰りますから」
「外でですか? でも雨が降ってますよ。中の方が良いんじゃないんですか」
「男の人のアパートに二人きりで居るのはちょっと……」
「ああ、それもそうですね。じゃあ傘を持って来ますから、ちょっと待って下さい」
傘は折畳み式の奴が一本だけ部屋の中のバックに入っている。傘を持って三十秒も掛らずに玄関に戻って来た。しかし涼子の姿が無い。
「おお、我が友よ。傘を持ってお出迎えとは感心、感心」
雨に濡れつつも酒と摘みの袋を提げて陽気に孝雄がやって来た。孝雄は余程強い雨でもない限り傘を差して来ない。通常の雨位では、必ずと言って良いほど傘を忘れてしまうからである。
「あれ、涼子はどうした?」
「涼子? ああ、木下涼子氏か。可哀想にのう。大学病院に入院して早三年。病状はますます悪化していると聞き及んでおるぞ。その涼子がどうかしたか」
「いや、さっきそこに来たんだけどね」
「あははは、夢でも見たのであろう? 今村の早紀ちゃんから二、三日前に聞いたところによれば、もう立って歩く事も出来ない状態だそうだ。気の毒じゃが美人薄命を地で行ってしまったのじゃなあ。惜しいのう」
「ええっ! そんな筈は……」
言われてみれば不審な点がある。車の音がしなかったので歩いて来た筈である。傘は持っていなかった。その割にはさほど濡れていなかった様な気がする。半袖の白っぽいワンピースを着ていたと思うが雨に濡れた形跡は殆ど無かった。
「何をごちゃごちゃ言うておるのじゃ、入るぞ」
孝雄の陽気さに押されて涼子の出現の話は有耶無耶になった。それに今夜の彼の様子が何時もと何か違う。
「ああ、そうそう今日は最終の電車で帰るからな。寝ちまったら、十一時半位には起こしてくれよな。朝、一仕事あるんだよ」
「早番か?」
「ああ、いやいや、田舎の両親が来るんだ、午前中に。それでまあ久し振りに掃除でもしようかと思ってな。一応人間の住める部屋にしておかないと拙いだろ」
「何だ、仕事と言うのは掃除の事か」
「何だは無いだろう。俺にとっては大仕事なんだからな。手伝いに来るか?」
「いや、遠慮しておく。毒蛇が居てもおかしくない環境だからなお前の部屋は。サソリだって居るかも知れないし」
「おいおい、俺の部屋は荒野なのか。……見合いの話を持って来るんだ。いつまでたっても彼女が出来なくて痺れを切らしたらしいよ」
「へえーっ、本気で受ける気なんだ。らしくない様な気もするけどな」
「俺、本当の事を言うと、涼子にも早紀にも振られたんだよ。特に大本命の早紀に振られたのはショックだったな。早紀に言われたんだ、友達でいるか絶交か、二つに一つだってね。そうなったら友達を選ぶしかないだろ」
今村早紀も同じ大学時代の友人である。学部も出身地も違うのだが同じサークルに属していた仲間である。
「世界レベル研究会」という名の風変わりなサークルだった。
そのサークルに属するものは世界レベルの特技を持つ事が要求される。ただし誰もやっていない事であっても認定される。
例えば木下涼子は世界の国旗と国名をほぼ完璧に覚えていた。今村早紀は似ている似ていないは兎も角、著名人百人の物真似が出来た。
吉田孝雄は少し幅の広い大きな輪ゴムを、人差し指で一時間以上回す、自称世界記録を持っている。
小山雄介の場合は小さい子に持て持てであるという特技がある。小学生以下の子供と違和感が無いのである。ビービー泣いている子供も彼があやせば大抵ピタリと止まる。
しかし彼自身はこの特技が気に入らない。大人の女性に持て持てだったら良いのに、子供じゃあなあ、と思っているからである。
大学を卒業してからも怪しげな特技を自慢したり、新しく身に付けた技を披露したりする関係が続いていた。
「でも孝雄、お前は偉いよ。告って振られたんだったら立派だ。俺なんかその勇気も無い。まあ今日は飲もう。その見合い相手ってのが美人だったら良いな。俺だって鼻が高いよ」
その夜は孝雄の見合いの話で盛り上がった。二人の飲む酒は焼酎に決まっていた。安い奴を十分に薄めて何杯も飲む。冬はお湯割。夏の暑い盛りは氷水割。今時だと冷蔵庫に入れておいたペットボトルの冷水割。
摘みは大量に仕入れたお勤め品が殆ど。本当に食えるかどうか怪しい物まで二人の胃袋にどんどん入っていく。
孝雄はごつごつした身体の割には酒に弱い。今夜は何時もより更に早く十時半少し前には、鼾を掻きながら寝入ってしまった。
起こしてくれと言われている以上、雄介は眠る訳にはいかない。仕方なくペースを落として、孝雄の鼾と外の雨の音も酒の肴に加えて、チビリチビリとやっていた。
丁度十時半頃だったろう、
「トン、トン」
ドアをノックする音がはっきりと聞こえた。普通この時間の来客は無い。
『やっぱり、……涼子かな』
緊張感を出来るだけ抑えて雄介は涼子である可能性について考えてみた。
『早紀の話からすると二、三日前は立って歩けなかった筈。しかしその後急速に、奇跡的に回復する事も無いとは言えないじゃないか』
可能性有りと考えた雄介は取り敢えずドアの前まで行った。丁度その時携帯電話の着メロが鳴った。
「鍵なら開いてますから入って来て下さい。ああ、もしもし小山ですが」
「小山君、早紀だけど。涼子、……涼子亡くなったのよ。少し前の八時頃。それでね孝雄君にも知らせて欲しいんだけど、そっちに行ってる?」
「ああ、来てるけど。そうか、涼子が亡くなったのか。……とにかく分ったから。じゃあ今後の事は明日の朝にでも」
「うん、気を落とさないでね。それじゃあ」
『涼子が死んだとすると、ドアの外に居るのは誰なんだ。彼女の筈は無いよな。……そうだ名前を聞いてみよう』
心臓がドクン、ドクンと高鳴り始めた。
「あ、あのう、どちらさんですか。ご、御用件は何でしょうか」
おっかなびっくりに聞いてみたが、しんとしている。人の気配が無い。思い切ってドアを開けてみた。が、当たり前の様にそこには誰も居ない。ただ静かに細かい雨が降っているばかりだ。誰も居ないと分るとほっとした。