幸せにするよ
幸せにするよ
おだアール
「過去を体験できる――。つまり、タイムトラベルということかね」
「一応、そう考えていただいて結構です。お客様のからだが時間移動するわけではありませんが……」
史学研究所の研究員を名乗る男は、心の中を探るような目でわたしを見て言った。
「どうしてわたしに?」
「率直に申し上げるとお金のためです。資産をお持ちの方に実際に過去体験していただき、研究資金のご協力をお願いしたいと……」
新手の詐欺か――。 だが、そうでもないと思わせる出来事がわたしにはあった。
今では資産家として知られているが、わたしは若いころ、その日の暮らしにも困るほど貧しい暮らしをしていた。今の財をなしたのは、あるものを売って手に入れた資金をもとに事業をおこし、それが成功したためだ。
二十八歳のとき、わたしにはミサキという恋人がいた。ミサキも裕福ではなかった。価値観を共有できるわたしたちは互いに慕いあっていた。映画館や遊園地に行く金もなく、河川敷のベンチに座って手弁当を食べながら語り合うだけのデートだったが、それはそれで楽しかった。
しかしわたしには悩みがあった。何年も困窮から抜け出せないわたしは、ミサキを幸せにしてやれる自信がなかったのだ。ある日ミサキに「別れよう」と告げた。ミサキの将来を思ってのつらい決断だった。アパートの一室に帰るなり、うずくまって握りこぶしで床を叩いた。涙が止まらなかった。
翌日、憑依仲介業者だという男がやってきた。ある人物がわたしに取り憑きたいと望んでいる、ついてはその契約を結んでほしい、というのだ。その人物が誰かは教えてくれなかったが、わたしを傷つけたり、不法行為でわたしを罪に陥れるようなことは決してしないという。魂を売る――。迷いに迷ったがわたしは結局高額な契約金に負けた。
わたしは、その人物がわたしのからだに取り憑くことを承諾した。ミサキと別れたばかりで自暴自棄になっていたように思う。
その後のことは記憶がない。取り憑かれていた時の思い出はなにひとつ残っていない。
きっかり十年後にわたしは意識を取り戻した。わたしが設立したらしいネット会社は軌道に乗ってきているところだった。ミサキはわたしの妻になり、幼稚園に通う娘もいた。
いつの間にかミサキにプロポーズして、いつの間にか結婚して、いつの間にか愛の結晶を授かって……。そういった、そのときどきのめくるめくときめきの記憶がないまま、わたしは突然、仕事に追われる毎日に戻った。
あれから四十年、わたしは年老いた。
棚の上のミサキの写真が笑っている。余命半年と告げられた後も、病院のベッドでわたしのことばかり気遣ってくれた妻だった。いよいよ最期というとき、ミサキが「幸せでした」と息絶え絶えに言ったことを、三年経った今でも忘れない。
「歴史上の大事件をこの目で見たいとおっしゃる方って結構いらっしゃるんですよ。本能寺の変とか、アメリカ大陸発見とか……。この前はベルリンの壁崩壊を体感したいというお客様がおられました」
研究員は、過去のある時期の名もない人物に取り憑くことによって、その時代のその人物の生活を自分の身体で体験することができるのだ、という。
「その人に成り代わって生活するだけですから歴史を変えてしまう心配はないんです。ただ、今の時代の知識を披露することだけは避けていただかなきゃなりません。たまにおられるんですよね。未来のことをぺらぺらしゃべってしまうお客様が……。大予言者として名を残してしまった方もいましてね。そうなると後が大変なんです。歴史のつじつまを合わさなきゃなりませんから」
「相手に断らずに乗り移るのかね」
「きちんと同意は取ります。お客様は、相手の方に相応の契約金をお支払いいただいたうえで、相手の方に決して害を及ぼさないことをお約束していただきます」
わたしは、わたしの十年をだれに売ったのかが、今わかった。そうだ。今こそミサキに言ってやらなければ……。
「幸せにするよ」と。
わたしは研究員に言った。
「わたし自身の若かった時期、それを体験したい」
棚を見た。ミサキの写真がわたしを見てまた笑った。