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撮影を終えた次の日、真は家主に連絡を入れることなく朝から一人恭助の家を訪れた。
カメラマンの仕事の時間帯など解らないため、家を出た時から家主が不在である可能性も考えていたのだが、呼び鈴を鳴らしてすぐにぼんやりとした様子の恭助が現れた。眠りを妨げたらしく、いくらか不機嫌である。
「……真? なんだ、こんな時間に。まだ九時だぞ。お前講義があるんじゃないのか」
「今日一日さぼるつもりでここに来たんだ」
「さぼる? ……っていうか、お前が一人で来るなんて初めてだよな」
「うん。昨日、展示会用の作品を撮ったんだ。それでフィルムを現像したくてね。暗室を貸してくれる」
「良いけど……俺午後から仕事あるぞ」
それに構わないと頷くと、どうもいつもと様子が違う真に一度恭助は何か珍しいものでも見るような目を向けたが、特に深く詮索することもなく室内へと招き入れた。
「つーかお前が居るなら俺もっかい寝るわ。二時間たったら起こしてくれ」
そう言いながら寝室へ消えて行く恭助の背中を見送りながら、真は暗室へと向かった。
現像作業はそれほど時間がかからない。しかし水洗いしたフィルムの乾燥には一時間ほど必要なので、いつもその後の焼付け作業は後日訪れた時にやっていた。
しかし今回はそれを待つことが出来ず、迷惑を承知で朝早くから押しかけてきたのだが、恭助の仕事が午後から入っているのであれば彼が家にいるうちに作業が終わるかどうかは微妙なところだった。
フィルムの乾燥を終え次第、写真部の暗室を借りて焼付け作業をすることも出来るが、なんとなく展示会の前に部員たちに写真を見られることに抵抗があった。
(……頼み込んでみようかな)
いつも無償で暗室や薬液を使わせてもらっている真は、月に一度謝礼として酒瓶を恭助に渡しているのだが、それをいつもより少しばかり上等なものにすると言えば案外簡単に留守の間も作業を続けることを許してくれるかもしれない。
そう考えた真は、濡れたフィルムを干し終えると暗室を後にした。恭助が起こしてくれと言った時間まではまだ一時間以上ある。その間に交渉に使う酒瓶を近くの酒屋に買いに行くつもりであった。
(……写真を見て、あの人はどんな顔をするのだろう)
写真の出来映えを確認したいと言うのはほとんど建前で、フィルムの現像を急ぐ一番の理由はこの写真が幸子と恭助の関係にどのような影響をもたらすのかということを確かめたいからに他ならなかった。
執着でも恋慕でも、およそ普通ではない感情を幸子が恭助に抱いているのは揺るがぬ事実である。しかし真は、未だに恭助が幸子をどのような目で見ているのか判断出来ずにいた。
歳の離れた姪の恋心など、普通であれば軽くあしらうものである。一度言い聞かせて、それでも熱が冷めないようであれば後は放っておけばいい。煩わしく思うのであれば関わらなければ良いのだ。
しかしそうして一度は遠ざけたはずの幸子を恭助は容認しているのだ。断ることが出来るのに受け入れ、かといってまともに取り合うこともせず、あまつさえ他の女の香りをちらつかせて逃げ道ばかり作っている。
それを恋愛においては大人の狡さだと言うのかもしれないが、それならば使う相手を間違っているに違いない。恭助にとって幸子はただの子供ではないのだ。それが理由で彼女の心を受け入れられないのに、それならば何故一般的な恋の駆け引きなど用いているのだろうか。
曖昧な態度を取り続ける恭助の心の内こそ、真にとっては解き明かしたい謎であった。今までは幸子と恭助の関係に自ら進んで立ち入るべきではないと考えていた真であったが、瞳で語る人魚の写真を撮った今、捉え所のない男の本音を知りたい思いでいっぱいだった。
「ん? ああ、別に居座っても構わないぞ。だけど仕事は十四時からだからな。今から始めればそれまでには終わるんじゃないのか」
起きてきた恭助に頼み込むと、彼は二つ返事でそれを了承した。あまりに簡単に事が進んだので、わざわざ高い酒を買う必要はなかったかと思いつつも、酒瓶を受け取った恭助が満面の笑みを浮かべたのでそれほど惜しい気はしなかった。
許可が出るなり真はすぐ様焼付け作業に取り掛かった。
慣れてしまえば焼付け作業はそれほど難しいものではない。ネガをネガキャリアに挟んで引き伸ばし機に差し込み、イーゼルにセットした印画紙へと露光していく。そうして露光の終わった印画紙を現像液の入ったバッドに浸し、その後停止液と定着液に浸して水洗いをすれば、後は乾かすだけである。
一時間と少し経った頃には暗室の中は白黒の写真で満たされた。初めに作業を終えた写真は既に乾き始めている。真は洗濯挟みに挟んで吊るされた写真の一枚を見つめながら、予想以上の出来映えに満足していた。
その時であった。暗室の向こうから、声がかかった。恭助である。作業は順調かと問われ、一瞬迷った後に丁度終えたところだと答えると、躊躇いもなく暗室の扉が開いた。それに「あ、」と思う間もなく、吊るされた写真へと恭助の視線が注がれる。瞬間、その目が僅かに見開かれた。
「……、」
しばらくの間、暗室内には沈黙が訪れた。室内の気温の高さと独特の空気感も相俟って、真は息苦しさを覚えた。
僅かに鼓動が早い。奇妙なほどに緊張していた。まさかこんなに早く写真が恭助の目に触れることになるとは思わなかった。しかし身動きひとつせず写真に見入る恭助の目からは、何の感情も読み取ることは出来ない。
そうして数秒、数十秒の後に、恭助が呟いた。
「……人魚か」
抑揚のない短い呟きに、思わず真は「それだけ?」と言葉を漏らしていた。
一目見ただけで自分の作品のコンセプトが伝わったということに対する喜びはほとんどなかった。
ただ、それだけなのかと。この写真を見て、あんたはそれだけのことしか思わないのかと、拍子抜けした気持ちになる。それと同時に、言いようのない焦燥を覚えた。
「……随分と幻想的な物を撮ったな。人を撮りたいと言っていたのに、人魚だなんて。この手の作品っていうのは、恐らくだがあまりうけは良くないぞ」
そう言いながら、まるで興味を失くしたとでも言いたげに暗室を出て行った恭助の後姿を見つめながら、しばしの間真は呆然としていた。しかしすぐにハッとして、乾いていた一枚を取り外し、暗室を出た。
「恭助さん、あんた、言いたいことはそれだけなのか」
居間へと向かう恭助の背に語りかける。幾らか冷静さを欠いた自分の声音に真自身が驚いていた。
「あんたが撮ることを止めた女を、俺が撮ったんだ。それなのにあんたは、何にも思わないのか」
何故だか心が荒ぶっていた。それは予想以上に淡泊な恭助の反応に対する落胆であったのかもしれないし、息を飲むような姿を晒しているにも関わらず見向きもされなかった幸子への憐憫であったのかもしれない。ひょっとしたら、そのどちらもなのかもしれない。
もう一度名を呼んでみても、恭助は振り返らなかった。それに焦れて手を引き、無理矢理向き合う形にさせる。しかしそれでも、視線は交わらなかった。焦燥ばかりが駆り立てられる。沈黙を続ける恭助に、まるで自分の作品が取るに足らないものであると言われた気がして悔しくなった。
「なあ、この写真を見て、幸子の目を見て、あんたは何も思わないのか」
「……」
「幻想的だと言ったな。その通りだよ。人魚なんて、馬鹿馬鹿しい。だけど俺は真実を撮ったんだ。あんたが手放したカメラで、あんたが手放した女の心を。だけどあんたには何にも見えやしないのか。俺が撮ったものは全くの無意味なものなんだって、そう言うのか。誰よりも真実を捉えるのが得意なあんたに、俺の写真じゃ何も伝えられないのか」
恭助の腕を掴む真の指に力が籠る。俯くその表情が僅かに歪んだ。それは痛みのためか、それとも内に潜む吐きだせない心の表れなのか解らない。真実を隠してばかりの男を真はただ見据えた。
「……真実なんて、何になるっていうんだ」
掠れた声が、小さく響いた。初めて聞くその声音に、真の身体から僅かに力が抜けた。掴んだ指先から、微かな震えが伝わる。震えているのだ。いつだって何を考えているのか解らない、捉え所のないこの男が。
「あの家の中で生きてきた俺の気持ちなんて、お前には解らないさ。べたつく愛情も憎しみの混ざった羨望も、どれも吐き気がするほどに嫌いだった。だから道を外れたんだ」
「……、」
「きっと写真じゃなくても良かった。過保護な父親がカメラでない他のものを寄越していたら、それを選んでいたんだろう。カメラはあの家を出るきっかけでしかなかった」
「……好きで選んだことなんじゃなかったの、」
「選んだことなんてなかったさ。愛されていようと、俺があの家の一員であることには変わりなかったんだ。父親の愛情は所詮押しつけだ。それに耐えかねて逃げ出したのに、向こうはそうは思っていない。だから何かある度に俺を呼び出して、平気な顔してお帰りなんて言うんだよ」
呟く声が、まるで悲鳴のように聞こえた。
「皆嫌いだった。父も母も親戚も兄も、その子供たちも。生まれた瞬間から、あいつらはおりこうさんだったからな。毛色の違う俺を察知したのか、それとも俺の悪意を肌で感じ取ったのか、誰一人として懐かなかった。だけどあいつは違った。窮屈な籠の中で、窮屈な家から逃げ出した俺にあいつは笑いかけたんだ。まっさらな笑顔で。その瞬間、俺は心の底からあいつに同情した」
「……同情だって?」
「ああそうさ、同情だった。憐れんでいたんだ。お前も俺と同じような人生を辿るんだろうなって、その耳元に囁いた。だけどそんな俺の憐れみに気付かずに、あいつはいつだって嬉しそうに笑っていた。親しみを込めて、俺の名前を呼んでいた」
震える声音が、静かに脳に浸透していく。それに共鳴するように、真の心は震えた。手を掴むその指先からはすっかり力が抜けていた。ゆっくりと、その手を放す。
「……真実だって? そんなもの知って何になる。ただ頭を悩ませるだけだ。手遅れになる前に手放して何が悪い。傷つく前に逃げ出して何が悪いんだ。それともなんだ、一緒に落ちてしまえって、お前はそう言うのか」
「恭助さん……、」
途端に捲し立てられるようにそう言われ、真は狼狽した。自分を見つめる恭助の目に、息を飲む。その目には見慣れた狂気があった。幸子の目に映る情念と同じ色が、自分を射抜いていた。
「あいつが好きだ。それが俺の真実さ。馬鹿な話だろう。女にもなっていない、娘程に歳の離れた子供相手に恋をしたんだ。だから離れた。離れなければならなかった。それなのに近づいてきたあいつをどうすれば良い。何もかも手放したのに、それを拾って集めて持ってきたあいつを、他の誰よりも愛しくてたまらないあの女を、どうすれば良いって言うんだよ」
教えてくれと、そう言って静かに目元を覆った恭助に、真は言葉を失った。かける言葉など一つもなかった。そうして初めて真は、自分の生みだした一枚の写真が思いもよらぬほどに目の前の男を傷つけたのだと言うことに気が付いた。
この男もまた、心を悩ませていたのだ。狭い世界の中、唯一巡り会えた小さな理解者相手に、抱いてはならない想いを抱いたことに。情であったはずのそれが、愛に変わったその瞬間から。だから彼は長い間見て見ぬふりを続けてきたのだ。
叶わぬ恋を追い続ける女と、その綺麗な女に触れることすら出来ない男とでは、果たしてどちらの方が不幸なのだろう。恐らく量ることなどできはしないのだ。彼らの痛みは彼らのものでしかない。他人が触れるべき問題ではなかったのだ。
それでもと、そう思う。
「このカメラは、俺が持つべきものじゃない。だってこれは、他の誰のものでもない、あんたの痛みなんだから」
「……恭助さんが?」
講義が終わって、帰り支度を進めている時のことであった。近寄ってきた幸子に恭助のことを聞かされ、幾らか驚いた。
幸子の話によれば、恭助はそれまで所属していた事務所を辞め、カメラマンとして独立することを決めたらしかった。
それは真自身随分前から望んでいた形であったが、手放しで喜ぶことが出来なかったのは彼にそのような心変わりをさせた理由の幾らかが自分にあるように思えたからに他ならなかった。
恭助の心の内を知ったあの日から既に幾日か経過していた。しかしその間目に見える変化は一つもなかった。それまで通りの日常が過ぎている。あの日のことを、真は幸子に伝えていなかった。
「……独立か。これからあの人は、どんな写真を撮るんだろうね」
恭助にとってそれまで撮ってきた写真が本意であったのか不本意であったのかは解らない。しかしいつだって、撮りたいものは別にあったはずである。彼の心が自分の撮ったあの人魚によって変わったのだとしたら、これから彼は何を撮ると言うのだろう。どうすれば良いと、教えてくれと、掠れた声で叫んだ心はどのような選択肢を導き出したのだろう。
「ねえ、あなた、恭助さんにカメラを返したのね」
しばしの沈黙の後、戸惑いの表情を隠しもせずに幸子がそう言った。
「……まあね。だけど別に君が気にすることじゃないよ。実を言えば、前々から気になっていたカメラがあってね。もう少ししたら買う予定なんだ」
それらしい理由をつけてやんわりとごまかしてみたものの、尚も幸子は曖昧な表情を浮かべたままだった。それを不思議に思い首を傾げると、彼女は一呼吸置いた後、唇を開いた。
「……恭助さん、独立の話をした後に、あのカメラを私に向けたの」
「え?」
「シャッターは押さなかった。だけど小さく笑って、もう少し待っていてくれって、そう言ったの。どういう意味だと思う」
その言葉を聞きながら、真は自分が安堵したことに気付き、それと同時に信じもしない神に祈りを馳せていた。
もう一度恭助があのカメラで幸子の姿を捉えることが出来たとき、せめて二人が幸せであれば良い。この先ずっと、目の前のこの美しい女が泡になって消えることがなければいい。たとえ結ばれることのない運命であろうとも、心を寄せ合って生きていくことはできるはずである。
闇夜に輝く人魚の眼差しが、ただ頭から離れなかった。
いつもであれば、おそらく幸子か恭助どちらかの視点で作品を書いていたのですが、今回はどうしてか真という第三者視点で書くという試みをしてみました。
当事者たちの視点で書いていたら、もっと荒々しい作品になっていたように思います。真という一見薄情でもある青年の目を通して描いたからこそ、幸子と恭助の関係が現実から逸脱しすぎないものになったのかなと思います。