3
「ねえ、まだなの」
「うーん。もう少し。あ、その角度。そのまま視線を上げて。そうそう。……ああ、やっぱりなんか違うなあ……」
「……そんなことを言って、どうせシャッターを押すつもりはないんでしょう。それならこれ以上続けたって無駄なんじゃないかしら」
そう言って芝生の上に座っていた幸子は立ち上がり、ワンピースの裾に着いた砂埃を払った。その度に彼女の黒髪が風に靡いた。
二人はこの日、大学の講義が終わるなり示し合わせて近場の公園に来ていた。青かった空が夕暮れの橙に染まった今、遊んでいた子供たちは皆既に帰宅しており、公園内はただ静かな風の音と虫の声で満たされているだけだった。
豊かに葉をつけた木々を背景に撮影は行われていた。遊具に乗らせてみたり、夕焼け空を仰がせてみたり、脇に生い茂った芝生の上でくつろがせてみたりと色々な場面を提案してきたが、彼女の言うようにこれまで真は一度もシャッターを切ってはいなかった。
そしてそんな不毛としか言いようのないやり取りをかれこれもう一時間近く続けているのだから、苦情が出るのも無理もないことであった。彼女の言い分は最もであるし、いつまでたってもシャッターを切ることが出来ない自分に真自身呆れていた。
「そう言うなよ。こっちだって撮るからには良い物が撮りたいんだ。初めて人物を撮るんだしね。だけどどうにも撮りたいものが見つからないんだよ。だって君ってば、どの場面でも全く表情が変わらないんだもの」
「そんなこと言って、私が満面の笑みで笑ってみせたって、それは違うって言うんでしょう」
「確かに。そんな姿は想像も出来ないな」
承諾を得て以来、真は幸子を見かける度に呼び止めてはカメラを向けていた。人のいなくなった教室の窓際で、大学構内の階段の踊り場で、駅の構内でと、実に様々な場面の中で彼女を捉えようとしてみたが、しかしいつだってシャッターを切る前に「これじゃあ駄目だ」とカメラを下げた。
意気込みはあるはずなのに、撮りたい場面は定まらなかった。それがとてももどかしく、真に僅かな焦燥を与えていた。
被写体の存在を意識して写真を撮るようになってからは、ただの一度も人物を撮ったことはなかった。
それ以前であっても、人物を撮った記憶と言えば高校時代の修学旅行でクラスメートの女子数人に頼まれて、使い捨てカメラのシャッターを押した時くらいである。それにしたって、その時はただ全員がきっちり狭い四角形の中に納まるかどうかということしか考えてはいなかった。
写真を覚えた以上は、意味のあるものを撮らねばならないと思う。
花を撮るにしても昼の顔を撮るのと夜の顔を撮るのとでは大きく印象は異なるし、当然雨に濡れた花と晴天の下で撮る花ではその表情は変わる。何を撮るのかを決めた後は、どのような姿を撮るのかを考えなければならない。そしてそこには何らかの意味が含まれていなければならない。
そうして思う。
自分はあの女の、何を撮りたいのだろう。
自問自答を繰り返しながら、こうしてあらゆる場面の中に幸子を立たせてカメラを構えるが、どうにも違和感ばかりを覚えてしまう。「そんな姿を撮りたいのか」と、誰かにそう問われている気がするのだ。そしてその問いに、真は繰り返し「そうではないのだ」と答えてしまう。
そう感じるのは、決して幸子の変わらない表情が原因ではなかった。無表情であるからと言って、何も伝えられないわけではないのだ。それを意味のあるものとして表現することが出来ないとすれば、それは幸子ではなく演出する側であり撮り手でもある自分の責任であるに違いない。
真は自分自身の未熟さを痛感していた。そしてそんな時頭の中に浮かぶのは、いつだってたった一度だけ見た恭助が撮った幼い頃の幸子の写真であった。
柔らかな光の中で微笑む幸子の姿が脳裏に蘇る。あの写真は安らぎと幸福で満ちていた。しかし自分が撮ろうとする写真からは、何の感情も伝わらない。それは自分が幸子の内面を何一つ捉えられていないからに違いなかった。それが真は歯痒かった。
「……君の笑顔を撮りたいわけでも、泣き顔を撮りたいわけでもないんだ。だけどそれなら一体、俺は君の何を撮りたいのだろう」
「……」
「今の状態でシャッターを押したところで、そこにはただ綺麗な女が写るだけだ。そんな写真って意味がないだろう。だから意味のあるものを撮りたくて模索するんだけど、どうにも上手くいかない。俺は君の、何を撮りたいのかな」
そう言った真を、幸子はただ静かに見つめていた。このガラス玉の目はいつだって何かを物語っているはずなのだが、今の真は読み取ることが出来ずにいる。
「……ねえ」
午後の講義が終わり、帰り支度を進めていた時のことであった。
あれ以来すっかり煮詰まってしまっていた真は、ここ数日の間幸子にカメラを向けることを止めていた。幾ら構えたところで今はまだ納得のいくものは撮れないのだろうと、そう思っていた。幸い展示会まではまだひと月以上あるので、それまでにゆっくりと模索すればいいと、そう考えていた。
そんな折、先ほどまで同じ教室で講義を受けていた幸子がやってきて声をかけてきた。その声音が平生とは幾らか違っていたので「ああ今日もまた何事かをぶちまけられるのだろうか」などと思いながら真は返事をした。
「どうしたんだい」
「今日は、何かあるの」
「……特に何もないよ。何かあるなら、付き合うけれど」
彼女の意図を汲み取り自分の方からそう言ってやると、幸子は静かに頷いた。受け入れられてどこかほっとしたように息を吐くその姿は、我儘の一つも言えない気弱な子供が見せた精一杯の勇気のようで切なさが募る。こんな時真の胸中には幸子に対する情が沸いた。
「うちに来るかい」
会う約束をしたところで、大抵いつも幸子の話を聞いて終わるだけである。それならばわざわざどこかの店に入るよりも、近場で好きなだけ居座ることの出来る場所の方が良いだろうと言うことで、真の家が使われた。
恐らくは今回も同じような要件だろうと思い、真の方から提案をしたのだが、どうしてか幸子は首を振った。
それにはて、と首を傾げると、いつも通りの声音で「うちに来て」と言われて驚いた。
「君の家に? 俺が?」
「見せたいものがあるの。わざわざあなたの家まで持っていくのは面倒だもの」
臆すことなくそう言ってのけた幸子に一瞬躊躇いつつも、ああそう言えば初めて彼女が自分の家に来ることになったのも同じような話の流れ出会ったなと、真は思い返していた。
初めて恭助に会ってからしばらくの後に、唐突に「聞いてほしいことがあるんだけど」と言われ、それに対して真がじゃあ何処かに行こうか、と問いかけたのに対し、別にあなたの家でも構わないわよと今とさほど変わらぬ調子で彼女は言ってのけたのだ。
そんな幸子を見つめ返しながら、恐らく彼女にとって自分は男として認識すべき対象ではないのだろうなと、そんなことを思った。
悩み苦しむ彼女にとって、堪えきれない激情をほんの少しでも吐き出せる受け皿があればそれで良かったのだ。そして友人すらも選ぶことの出来ない彼女には、縋る相手の性別など気にしている余地はなかったのだろう。
幸子の中で男として明確に括られている人物は恭助一人であるに違いなかった。彼女の心を捕える男も彼女の心を傷つける男も全て、あの奇妙なまでに魅力的な中年の男でしかないのだ。
そう考えて、随分と自分は損な役回りをしているなと思いつつも、決して嫌になったりもどかしく思うことがない自分自身を真は疑問に思った。
そうして真は、ひょっとすると自分も同じように幸子をあまり女としては見ていないのかもしれないなという考えに行きついた。異性だという認識はあるが、どうしたってそれは色めきたったものではないのだ。
それは迷子になって不安げに辺りを見渡している子供を見守る大人の感覚とよく似ているのかもしれない。縋り付いてきたのなら、少しでもその心を軽く出来れば良いのにと思う。だから自分は彼女の傍に居るのだろと、そんなことを思った。
幸子の住むマンションは真のアパートとは反対方向の、大学から十分ほど歩いた先にあった。
マンションと言う響きにも幾らか辟易していた真であったが、連れてこられて見上げたその高さに更に驚かされた。自分が暮らしている木造の背の低いそれに比べて、コンクリートで出来た壁は奇妙なほどに無機質で異質なものにさえ感じられた。
ホテルのエントランスを思わせる小奇麗な内装もさることながら、十二階まであるエレベーターを見てああこれが境遇の違いなのかとしみじみ感じてしまう。
そうして改めて幸子の厳しいながらも裕福な家庭環境を思い出し、どうして道を違わずに生きることが出来なかったのだろうと疑問に思った。しかしもし彼女が不毛な恋などせずに真っ当に生きていたとしたら、こうして関わり合いになることなどなかったに違いない。
一際不幸な女との出会いを喜ぶべきなのか、それとも出会えなかった幸せな女を思って落胆すべきなのか、果たしてどちらの方が自分にとって良いことであったのだろう。幸子自身が望んだ運命はどちらであったのだろう。
そんなことを思いながら彼女の後をついて行くと、エレベーターは七階で止まり、そうして数歩歩いた先の扉の前で彼女は止まった。
「上がって」
「……お邪魔します」
玄関の扉を開け、短い廊下を真っ直ぐ進んでもう一つ扉を開けると、そこは八畳程度の居間になっていた。台所は三畳程度の大きさで、カウンターテーブルによって居間と仕切られている。向かって正面に大きな窓があり、穏やかな橙色の光が差しこんでいた。明かりを灯さなくとも十分な明るさである。
どうやら居間の他に二つ部屋があるらしい。一つは寝室だとして、もう一つの部屋が何に使われているのかは謎である。小ざっぱりとした居間を見る限りでは、それほど場所を取るようなものがこの家にあるようには思えなかった。
外観と同様に内装も洋装らしく、床はフローリングである。居間には白地に小さな花柄の絨毯が敷かれ、中央に足の長いテーブルと椅子が置かれている他はテレビと本棚しかなかった。
一切の無駄を省いた室内を幸子らしいと感じつつも、それならばこんなにも広い部屋を借りる必要はなかっただろうにと疑問を抱いた。
「それで、見せたいものってなんだい」
席に着きながら真がそう問うと、少し待っていてと言い残して幸子は隣の部屋へと消えた。一体何なのだろうと思いながら閉じられた扉を見つめていると、ものの数分も経たぬうちに何やら一冊の分厚い本のようなものを持って幸子が現れた。
真の向かいの席に腰を下ろしながらテーブルの上にそれを置き、中を見るようにと促されて真は革の表紙に手をかけた。色褪せたそれに年期を感じる。何か重要なものなのだろうかと思いながら表紙をめくり、そうして驚いた。
見せられたそれは、本ではなくアルバムだった。
「これって……」
「……恭助さんが撮った、私の小さい頃の写真よ」
生まれて間もない赤子であった頃、ようやく歩けるようになった頃、玩具に夢中になっている姿に、涙で顔を汚している姿から無邪気に歯を見せて笑っている姿まで、凡そ今の幸子の姿とは結びつかないような写真ばかりがそこにはあった。
脳裏に焼きついて離れなかった一枚と同じように、写真は全て白黒である。小さな世界の中から幼い少女の息遣いが僅かに感じられる気がした。
「……いい写真ばかりだね」
ページをめくっていくごとに少しずつ成長していく幸子の姿に、恭助の姪の成長を喜ぶ気持ちが表れている気がした。色のない世界だからこそ幼い少女の表情一つ一つが何よりも際立っていた。シャッターを切る瞬間の恭助の想いすらその写真には現れている気がした。
愛されていたのだと、そう思った。あの男は、多くの女と関係を持ち、凡そ愛になど執着したことなどないであろうあの男は、確かにこの瞬間、幼い姪に穏やかな愛情を注いでいたに違いない。
それは一体いつまで? そう疑問を抱いたところで、すぐに答えは見つかった。というのも、アルバムは幸子がセーラー服を着て僅かに微笑みを見せているその一枚を最後に真っ白になっていたからである。
「……このころから、君は恭助さんへの気持ちを自覚し始めたんだね」
真の問いに、幸子は小さく頷いた。俯いた視線からは、その心が読めない。
「……お盆とお正月の時期に帰ってくる恭助さんは、その度に私の写真を撮っていたの。幸子、こっちを向いてごらんって、優しい声で私を呼んでいたわ。それが嬉しくて、私はあの人に写真を撮られることが大好きだった。……だけどある日、いつものようにカメラを構えられて私が顔を上げた途端、恭助さんは撮るのを止めたの。カメラの調子が悪いみたいだ、また今度にしよう、なんて言って。だけどそれ以来、あの人が私を撮ることはなかった」
「それは君の目に、恭助さんへの想いが表れていたからなの」
「……きっと、そう」
僅かに頷き、しかし幸子は強い声音でだけど、と続けた。
「それなら、気付かせたのは恭助さんの方よ。だって私、その頃恋なんて知らなかったもの。昔から恭助さんは私にとって特別な人だった。だけどこうして彼のことを考えるようになったのは写真を撮られなくなってからよ。なんで撮られなくなったのかしらと思ううちに、また撮られたい、私を見て欲しいって、そう思うようになっていったんだもの」
幸子の言葉を聞きながら、真は恭助のことを考えていた。
幼い姪の姿を見る度に、カメラを構えていた男。彼にとって小さなその少女にはどのような意味があったのだろう。幸子の兄も含め、可愛がるための幼子であれば他にもいたはずである。
一人の少女の成長を追い続け、そうして幼かったはずの少女が少女の面影を残しつつ女であることを自覚し始めた時、恭助は彼女の瞳の中に何を見たのだろう。二十近く歳の離れた、恋すらも自覚していなかったその目に、何を恐れたというのだろう。レンズ越しに見た幸子の姿は、彼に何を与えたのだろうか。
「気付かせたのはあの人よ。だけど逃げ出したのもあの人だった。でもそれなら、置いて行かれた私はどうすればいいの。だから私は追いかけているの。ねえ、だけどきっと、これっておかしいのよね。きっと恋なんかじゃないのよ。呆れるほどに醜い、執着なんだわ」
「……」
「だけど、それを手放せない。手放したくない。一緒に落ちてしまえたらって、そんなことばかり考えてしまうの。恭助さんの幸せなんて願えないわ。あの人の人生の中に、いつだって私が居ればいいのにと思う」
「それが君の幸せなの」
「幸せなんて、ここにはないわ。このアルバムの中に置いてきたのよ。あの人が、恭助さんが、私にこのアルバムを渡した日に。お前にあげるよ、なんて言いながら、あの人は私一人に押し付けようとしたんだわ。私への愛情も、私の恋心も、全て。あなたのそのカメラだってそうよ」
「カメラ?」
反芻しながら、傍らに置いていたカメラに視線をやった。幸子も同じように、それを見つめている。そうして彼女は吐き捨てるように言った。
「そのカメラであの人は私を撮っていたのよ。それなのに、あの人は手放した。私にまつわるもの全て。あの人の傍らにはもう、私の残り香一つない」
俯く幸子の肩は僅かに震えていた。それでも涙一つ流さない彼女が、声一つ荒げない彼女が、果たして強いのか弱いのか解らない。恐らくそのどちらもなのだろう。しかしそんな姿を見ながら真は、ああこれかと、この姿だと、そんなことを思った。
恋とも執着ともつかない狂おしいほどの情念に身を焦がすその姿こそが、彼女の本当の姿に違いない。古いアルバムの中に穏やかな幸福も笑みも涙でさえも置いてきたという彼女には、もうそれしか、心の中に静かに激しく燃える炎しか残ってはいないのだ。
そうして真は、口を開いた。
「俺が撮るよ。君の姿を。君の全てを俺が写し出してみせる」
その身に宿る狂気的な恋心に、執着心に、永遠を与えてみせよう。誰よりも真実を捉えることが得意なあの男が、思わず息を飲みたじろぐ程の瞬間を、激情を、自分がこの世に残してやろう。そしてそれに心を揺さぶられると良い。小さな四角い世界に思わず手を伸ばしてしまう程に、手放した女を口惜しく思えば良い。手放したもの全てに、思いを馳せれば良い。
決して結ばれることのない二人がどのような結末を迎えるのか、真はそればかりが気になっていた。
「こんな夜中に呼び出して、一体何のつもりなの。それにこの車は?」
「友達に借りた。こんな時間じゃ電車も動いていないからね」
「何処へ行くつもりなの」
「海だよ。夏の前の、真夜中の海さ」
幸子の家に行った日から、かれこれ一週間ほど経過していた。
その間、真はただひたすらに彼女の内面を引き出すための場面についてばかり考えていた。そのためここ最近幸子とはろくに顔を合せていなかった。大学の講義にもほとんど行かず、アルバイトも休んで図書館と家を往復するだけの日々を送っていた。
そうしてようやく撮るべきものが決まり、今日の昼間に学校で出会った幸子に、夜十一時にうちに来るようにと伝えたのである。ろくに説明も受けず、半ば一方的に約束を取り付けられた幸子は腑に落ちないといった様子であったが、約束の時間丁度に彼女は現れた。恐らく呼ばれた理由に見当はついていたのだろう。
「……写真を撮るの」
「うん」
この都会の街に海はない。あるのは立ち並ぶビルの群れと、ほんの僅かに残る過去の名残のみである。
真の故郷の方面へ一時間ほど車を走らせたところにある町が、毎年夏の時期になると海水浴の場になった。今はまだ海開きには早いため、訪れる者はほとんどいない。夜中であればなおさらである。恭助の助言に関わらず、真にとってもそれは好ましい状況であった。風が少なく気温が高いのも好都合である。
予定通り、海に着いたのは日を跨いだ頃であった。濃紺の夜空には満月が浮かんでいた。それを囲むようにして星々が輝いている。僅かに明るい闇の中、波音だけが静かに響いていた。
「……夜の海なんて、初めて来たわ」
「静かだね。波も穏やかだ。思う通りの写真が撮れそうだよ」
「水面に月が写ってる。とても綺麗ね」
波打ち際に佇みながら、しばらくの間二人はただ海を眺めていた。闇に染まった水面は月明かりを反射させながら、ただ穏やかに揺らいでいる。幸子の言うとおり、心が震えるほどに美しい光景であった。
そうして海を見つめているうちに、真は浜辺から海の中へ数メートル程進んだ先に目的の写真を撮るのに良さそうな岩場があるのを見つけ、撮影の準備に取り掛かった。
「……どこで撮るの。海に入る?」
「うん。っていうか、脱いでくれる?」
「え?」
「服」
「……裸を撮るの?」
「いいや。人魚を撮るんだ」
人魚? 訝る声に、真は頷いた。
ここ数日、図書館にて真は海に関するありとあらゆる資料を読んでいた。
海を撮った写真集を眺めるのはもちろんのこと、海を題材にして書かれた小説やら詩やら、仕舞には魚に関する本までとにかく手当たり次第に読み漁っていた。
海を撮ることを決めたのには、恐らくは恭助の助言があったからに違いない。しかしこれまで海に対して必要以上の関心など抱いたことのなかった真には、恭助の言う夏の前の静かな夜の海の良さは解らなかった。
そこに類いまれな感性を持つ写真家と未熟な自分の差を垣間見た気がしてどうにも悔しくなった真は、それならば彼とは違う良さをそこに見出そうと躍起になった。
地上の七割を満たす海面。全ての生き物の命の源。母なる海。美しい海。時に大波を起こし大地を襲う海。
自分はどの海を捉えたいのだ。いいや、違う。美しくも愚かしい恋に生きるこの綺麗な女を、どうやってこの海の中に生かせばいい。人は海に何を感じるのだ。揺れる水面の中静かに佇む美しい女に、人は何を見る。彼女の想いはどのように表れる。
そうして辿りついたのは、遠い昔に読んだ、人間に恋をした一匹の憐れな人魚の物語であった。声を捨て、足の痛みに耐え、それでもなお恋に破れ、命を絶った人魚の一生の中に、幸子の姿を僅かに垣間見たのだ。
かといって真は、悲しくも美しい人魚の恋と幸子の恋を重ねた訳ではなかった。純粋な愛のために死を選んだ人魚の清らかさを幸子の中に見たでもない。ただただ不幸な結末を予想してもなお愛を追ったその一点にだけ、その姿を重ねて見たのだ。
そもそも真にとって、健気な人魚と幸子を同一視することは難しいことであった。というのも、幸子が人魚と同じように愛のために命を投げ出す姿など想像もつかなかったためである。
痛みも苦しみも愛憎も全て、他の誰でもない自分のものなのだと彼女は言っていた。それらを捨てることなど出来るはずもないと言った言葉に偽りはないのだろう。
そんな彼女が物語の中の人魚であった場合、果たしてどのような行動に出るのかは解らない。渡されたナイフで迷うことなく王子の喉元を掻き切り、そうしてすぐに自分もその後を追うのかもしれない。もしくは隣で眠る何も知らない幸福な姫君の命を奪うのかもしれない。
何にせよ、不幸な末路を知りつつも叶わぬ恋に身を投じる美しくも愚かなその姿は、自分が永遠の物として収めたい一瞬の儚さであるに違いなかった。
「……随分幻想的な物を撮るのね。そういうの、展示会ではあんまりうけないんじゃないのかしら」
「別にいいよ。評価されたいわけじゃないんだ。それに、君の笑顔や泣き顔の方が俺にとってはよっぽど幻想的だよ」
「酷い言いようね。……だけど、そうね。人魚。ああ、そうね。私にぴったりかもしれないわ」
相変わらず表情を変えずに呟くその姿が、月明かりに照らされてただ美しかった。
「……脱いだらこれを腰に巻いて、あの岩場の上に座ってほしい」
「この布、尾ひれにするの? どうやって巻いたらいいかしら」
「とりあえず足が全て隠れるように巻いてくれたら良いよ。後は座ってから調整しよう」
真が説明を終えると、解ったと言って幸子は服を脱ぎ始めた。その間何も注意を受けなかった真は、目を逸らすことなく黙ってその様子を眺めていた。
ブラウスを脱いで現れた上半身は驚くほどに薄い。体型的な女性らしさが肩や胸、そして腰の丸みのことを言うのだとすれば、幸子の身体つきは魅力的と称すには些か無理があるに違いない。
事実一糸纏わぬその姿を見ても、真はほんの僅かな欲望も抱きはしなかった。
申し訳程度に膨らんだ乳房も細い腰も、ただただ折れてしまいそうなほどに儚い。そうして真は、何か目に見えないものを捉えてしまったような、ただただ不思議な感覚に陥った。改めて彼女の非現実的なまでの美しさに触れた気がした。
手渡した布は、昼間のうちに手芸屋で購入したものである。淡い海色をした光沢のあるそれは、月明かりを受けて奇妙な艶を放っていた。
それを腰に巻きながら、幸子は静かに波間を掻き分けていく。海に飲まれていく後姿を見ながら、捉えるべき一瞬を想像して真は鼓動が早くなるのを感じた。
陸に上がった人魚が海へと帰っていく。狂おしい情念を手放せぬままに。その光景の何と愚かしく、美しいことだろう。静かな波の音が絶えず真の心を駆り立てていた。
「……水、冷たい?」
「少し。あの岩場に行けばいいの」
「うん。滑らないように気を付けて。身体に傷のある人魚なんて撮るつもりはないよ」
「だけど、心の傷は大歓迎なんでしょう」
「違うよ。心の傷を撮りたいんだ」
悪趣味ねと呟きながら、目的の岩場へと辿りついた彼女は再び陸に姿を現した。そこに辿り着くまでにすっかり濡れてしまった布は、まるで彼女の肌そのものであるかのように身体の輪郭に沿っていた。より一層艶やかさを増したそれは、真が想像した通りの役割を果たしている。
「……髪の毛は右に寄せて、前に垂らして。両手は右に。もう少し、背筋を反らせて。足は閉じて、軽く曲げて。そう、そのまま」
「……」
「君は人魚だ。手の届かない相手に恋をして、家族も声も捨てる覚悟でここまでやってきた。僅かな期待を抱きつつも、先にあるのが痛みなのだと言うことを知っている。それでも君は愛を追ってきた。痛みばかりの、この世界に」
呪文のように唱えながら、真は静かにカメラを構えた。
空に浮かぶ月と水面に反射するその光があれば、フラッシュは必要なさそうだった。人工的な光で浮き彫りにするよりも、薄暗い世界に浮かぶその姿の方がその存在は際立たつ。幻想的であるのならばどこまでも幻想的であった方が良い。ただ一つ、内に秘めた真実を表すことが出来ればそれでいいのだ。
「……痛みばかりのこの世界で。情念を携えて生きる君は、何を想うの」
静かに幸子が視線を上げる。レンズ越しに目があった。揺れる瞳に、強い思いが宿っている。物言わぬ瞳の奥には、狂おしいほどの情念が潜んでいた。それに息を飲む。胸の奥底がざわりと沸き立った。鳥肌が立つ。人魚の瞳が、強く静かに自分を射抜いていた。
ああこれだと、この姿だと、そう思いながら眼差しに宿る一瞬の狂気を、真は移ろい行く世界の中から切り取った。
シャッター音が、やたらと響く。まるでカメラの中の忘れられた記憶を手繰り寄せているような気分になり、真は夢中でシャッターを切った。撮る度に、痛いほどに心が震えた。人魚の瞳に映る真実は人の心を狂わせる。込み上げてくる何かを、真は必死に嚥下した。
「今回の展示会の作品は評価されることはないの」
撮影は一時間ほどで終了した。展示会に出展する作品は一人三作品までだが、その全てを真は今撮った数十枚の写真の中から選ぶつもりでいた。
「投票があるらしい。だけど、君も言った通り、俺の作品はあまり評価されないだろう。注目は浴びるだろうけど」
人物を撮った作品を出展する者は多く居るが、それでもここまで人工的なテーマに沿ったものを捉える者はほとんど居ない。それが現実に存在しないものの姿であるとなれば尚更である。
「でしょうね。人魚なんて、馬鹿馬鹿しいもの」
「違いないな。でもそれで良いんだよ」
馬鹿馬鹿しいと感じながらも、多くの人が切り取られた世界の中で生きる人魚に魅せられればそれで良いのだ。真っ直ぐに見つめるその目の中に、ほんの一瞬でも足を止める者が居れば良い。人魚の恋を思って焦燥に駆られればいい。そしてそれを与えられるだけの写真を撮ることが出来たと、真はそう感じていた。