2
それから数日が経ち、すっかり立ち直った様子の幸子はこの間の弱気な姿など嘘のように、落ち着き払った態度で真に声をかけてきた。
「今晩、恭助さんのところへ行こうと思うんだけど。あなたも来る?」
感情の起伏のない問いかけに、真も同じようにほとんど表情を変えずに頷いた。
互いににこりともせずに言葉を交わしている様子は、他人が見ると幾らか奇妙な光景として映るに違いないが、自分と幸子の関係においては温度の低いこの関わり方こそが自然なものであるような気がしていた。
約一年前から始まったこの関係を、果たして何と形容したら良いのか真は未だに解らずにいる。幸子のことをその他の友人と同じ枠で括ったことはないが、かといって恋心などと言う甘い感情を抱いたこともない。淡泊であるに違いないが、無関心というのとも違った。互いに曖昧な立ち位置に居るのだと、そう思う。
「うん、行くよ。俺も恭助さんに用があったんだ」
「写真の現像をさせてもらうの?」
「それもあるけど。こないだ言っただろう、八月に展示会があるって。それに出展する作品について、色々聞こうと思ってさ。仮にも相手はプロのカメラマンだしね」
次の講義の準備をしながら言う真の言葉に、ふうんと、何か思うことでもある様な口ぶりで幸子が相槌を打った。
想い人がカメラマンと言う職に就いているせいか、こと写真に関しては大いに関心を示す幸子であったが、基本的に彼女は他人に対して無頓着なことが多い。
そのため友人らしい友人はおらず、こうして立ち止まって話をする相手といえば真くらいである。
それにしたって二人の会話は特段面白味のあるものではなく、友人同士が気安い冗談を言って笑いったりする当たり前の光景が、二人の間には全くと言っていいほどなかった。
そのため、先日のようなことがない限りいつだって真の話など興味なさ気に聞き流している幸子が、平常時に彼の言葉を気に留めるというのは幾らか珍しいことであった。
それを不思議に思い彼女を見やると、ガラスでも埋め込んだような明度の高いその目が真っ直ぐに自分を見つめており、思わず真は息を飲んだ。
時折真は、この目の前の相手が自分と同じように当たり前に息をしているのだと言う現実に戸惑うことがあった。
それほどまでに幸子の顔立ちは美しいのだ。左右対称に整ったその顔は、どこか非現実的であり一種の神聖ささえ感じられる。物語に出てくる絶世の美女や神々などは恐らく彼女のような顔立ちをしているのだろうと、そんなことさえ思う。
例えば童話の中の白雪姫などは彼女の容姿にぴったりと当てはまるのかもしれなかった。彩らずとも瑞々しい赤い唇に、くすみのない白い頬、そしてカラスの濡れ羽のような黒髪、その全てを幸子は兼ね備えている。
しかしそこまで考えて、ああ違うなと、真はそんなことを思った。何が違うのかと言えば、純真無垢に小人と笑いあっている様子でもなければ林檎の毒に侵されて倒れる姿でもなく、ただ王子と共に幸せに暮らすその結末である。不毛な恋を追う彼女の姿は、どうしたってめでたしめでたしで終わる物語の幸福な姫君の姿からはかけ離れていた。
幸せと言う字を背負って生まれて来たのに、悲壮さが最も似合うのがこの女である。
視線を交わしながら思わずそんなことを考えた真に対し、幸子は唐突に唇を開いた。
「人物を撮るなら、私をモデルに起用したらどうかしら」
思いもよらない彼女の提案に、真は一瞬何を言われたのか理解することが出来ず、数度瞬きを繰り返した。
しかしそんな真の戸惑いなど気にした様子もなく、幸子は変わらず表情のない瞳を向けているだけだった。意外なその提案が単なる思い付きであるのか、それとも何か意図があるものなのか、それを探ろうとガラス玉の目を見つめてみたが、平生の彼女の眼差しからは何一つ読み取れはしなかった。
「……君を撮ってもいいの。俺が」
「駄目だなんて、言ったことはなかったと思うけれど」
「……確かに、言われたことはないな」
「あなたが撮りたいって言うなら、幾らでも協力するわよ」
それなりのものは撮らせてあげられると思うけど、という彼女のその言葉は、決して自分の容姿に対する高慢さや自尊心の表れではない。
他人が彼女を見て美しいと感じるのと同じように、幸子自身もまた自分自身の容姿を肯定的に見ているだけのことに過ぎなかった。それでも人によっては嫌味だと捉える者もいるのかもしれないが、彼女のその潔さが真は嫌いではなかった。美しいものを美しいと感じるのは、正しい感覚である。
それに彼女は、自分の美しさを自覚しつつも、特段ひけらかすようなことはしなかった。かと言って頓着がないわけではなく、その活かし方はきちんと心得ている。同年代の女子に比べて薄い化粧や控えめな色柄のワンピースなどは、彼女の外見上の魅力を覆い隠さずにいつだって引き立たせていた。
そしてその整った容姿を自分のために惜しまずに使ってくれると言うのなら、真にとっては有難いことに違いなかった。
普段彼は花や空や景色ばかりをシャッターに収めていたが、人物を撮りたいと思ったことが一度もないわけではなかった。むしろ写真を教わった人物の影響のためか興味はそちらに向いていたのだが、今までそうしてこなかったのはただ単に撮りたいと思う相手が居なかったために他ならなかった。
周りの友人を撮ったところで特段楽しみは感じられないし、道行く人々を見ていても頼み込んでまで撮りたいと思う程魅力的に感じられる人物は居なかった。
そこまで考えて真は、これまで自分が幸子を撮りたいと思ったことがなかった事実に気が付いた。さんざん観察してきたくせに、被写体として見たことは一度もなかったのである。
しかし自分を撮ればいいと言われた瞬間に彼の心は高ぶった。切り取られた四角形の中で彼女はどのように映るのだろうと、自分は白黒の世界の中でどのように彼女の姿を生かすことが出来るのだろうと、そんなことにばかりに思考が傾く。
じゃあ放課後にまた、と言って幸子と別れた後も、ただただ真は彼女の姿をフィルムの中に収めることばかり考えていた。
講義を終えた真は大学を出たその足で駅へと向かい、そこで幸子と合流した。そうして幸子と二人、恭助の住む町まで行く電車へと乗り込む。並んで座席に腰を下ろしたものの、二人の間に会話と言う会話はなかった。
しかしそうして訪れた沈黙に居心地を悪くするということも最早なく、むしろ心地の良いものとして捉えながら、真はしばらくの間意味もなく車窓から見える景色を眺めていた。そうして不意に、幸子や恭助と関わり合いになるに至った経緯を思い出した。
基礎演習が同じであったこともあり、幸子と知り合った時期は割合早かった。かといって今現在のような関係がすぐに築かれたわけではない。
しかしそうして改めて記憶を辿ってみると、出会った際に挨拶を交わす程度であったはずの関係が変わったきっかけは、実に奇妙なものであった。
ある日いつものように講義を終えて教室を出た真は、自分の少し前を歩く人物が幸子であることに気が付いた。
しかし声をかけたところで特にこれといった用もなく、またその頃には幸子があまり人付き合いを得意とする性質ではないことにも気付き始めていたので、声はかけないでおこうと、そう思って僅かに歩く速度を落とした、その瞬間であった。
不意に、彼女の持っているファイルの中から何か紙のようなものが落ちた。一瞬見て見ぬふりを仕掛けた真であったが、いやはや流石にそれは薄情だろうと考え直して足元のそれを拾い上げ、早足で幸子の後を追いかけた。
これ、落としたよ。そう言いながら手渡したそれは、一枚の白黒写真であった。
そこには一人の少女が写っていた。小学校高学年くらいの、美しい顔立ちをした少女である。特にこれと言ったポーズも取らずに、何処かの家の窓際に立ってただはにかむように微笑んでいた。日の高い時間に撮られたものなのか、あたりは白く眩んでいる。光の中で微笑むその少女は、幸子に良く似ていた。
「……これ、君の幼い頃の写真?」
そう問うと、幸子は僅かに躊躇うような色を浮かべながら控えめに頷いた。
それまではりついたような無表情以外見たことのなかった真は、そんな彼女の細やかな表情の変化に何度か瞬きを繰り返しながらも、自分の手の中にある写真と目の前の彼女を見比べた。
自分の幼い頃の写真を持ち歩くことには果たしてどのような意味があるのだろう。
そんな疑問を抱きつつも、しかしカラー写真がすっかり定着した今の時代では白黒のそれはやけに目立っていて、その写真自体に何か意味があるのだろうと思わされた。
しかし幸子の様子を見てあまり深く追及すべきではないと感じた真は、ただ短く「良い写真だね」と答えるに止めた。写真について興味などなかった当時の真にとっては、その言葉はあくまでも見たままの感想に過ぎなかった。社交辞令であったと言っても良い。そのため、何気ない自分の言葉に弾かれたように顔を上げた幸子の反応に、真の方が驚かされた。
「これ、私の叔父が撮った写真なの」
「叔父さん?」
「そう。カメラマンなのよ」
身近でそのような職に就いている者の話などそれまで聞いたことがなかったため、そんな人も居るのかと幾らか関心しつつも、しかし思う程興味を抱いたわけではなかった。そのため「叔父に会ってみる?」と言ってきた幸子に対し、何故自分が頷いたのか解らなかった。
恐らくは気まぐれであったのだろうと、そう思う。そして自分のほんの気まぐれが多難な人生を背負った二人と出会うきっかけを作ったのだ。
思い出した事実に思わず苦笑しつつも、しかし煩わしいとは思わなかった。面倒なことに首を突っ込んでしまったとは思うが、後悔もない。
ただぼんやりと、そういえばあれ以来幸子の写真を見ていないなと思った。
「おお、よく来たな。入れ入れ。ついこないだ良い写真が撮れてな。それを見せたくてうずうずしてたんだ」
「本職の写真なら遠慮するけど」
「安心しろって、普通の写真だよ」
電車を降り、少し歩くと既に見慣れたと言っても過言ではない家に到着し、呼び鈴を鳴らしたところで上機嫌の家主に出迎えられた。しかし現れた恭助のその出で立ちに思わず真は肩を竦めてしまった。
仕事を終えて寛いでいたせいもあるのかもしれないが、裾の擦り切れたジーンズに皺だらけのシャツを素肌に羽織っただけのその姿は、とても優秀な家系の血を引いている男の佇まいとは思えなかった。
おまけに伸び放題の襟足からちらりと見えたその首筋に何やら見てはいけない赤い華を見つけ、真は見なかったことにしようと視線を逸らした。
実際のところ、恭助のその四十間近とは思えない子供じみた所作も出で立ちに対する無頓着さも、そして漂わせる女の残り香でさえも見慣れたものになりつつあった。
しかしそうして理解を示す自分の横で、見え隠れするその痕に気付いたらしい幸子が途端に目を伏せ口数を減らすその様子には未だに慣れることが出来ずにいる。
「……しかし相変わらず古い家だ。台風が来たらきっと一発で吹き飛んでしまうよ」
一瞬訪れた気まずさを払拭するためにわざと真がおどけてみせると、それに恭助が「家主に似て根性があるから大丈夫だ」と歯を見せて笑ったので幾らか安堵した。この二人と同じ場所に居ると、嫌でも真は気遣いを覚える。
恭助の家は、二人が通う大学から地下鉄で数駅乗り継いだ先にあった。都会の中心地から幾らか離れたそこは、時代の変遷とともに新しいものを取り入れて発展していった近代的な町並みとは異なり、どこか故郷を思い出させる懐かしさがあった。
背の高い商業ビルなどはほとんどなく、立ち並ぶ家々は古い木造建築ばかりである。来る途中には昔ながらの酒屋や駄菓子屋もあった。
恭助の住む家も小さな木造の古い平屋建てであり、初めてその家を見た時、自分が想像していたカメラマンという職に就く人の住む家とは到底結びつかずに首を傾げたのを覚えている。
写真で生計を立てている人間の暮らしぶりなどこれまで一度として考えたことはなかったが、少なくとももう少し煌びやかな世界の住人なのだと思っていた。
加えて恭助が普段仕事場として使っているスタジオはここから車で三十分はかかる中心街のビルの中にあるため、いつだか何故わざわざこんな辺鄙なところで暮らしているのかと問いかけたことがあった。
しかし返ってきた答えは「暗室用に水場を設置できる部屋が必要だったんだ」という実に味気ないものであったため、幾らか肩透かしを食らった。借家の場合は床を汚すことはもちろん、好き勝手に使うことがあまり出来ないのだと言う。
しかしそう言った後で「女を呼ぶのにもこちらの方が都合が良いのだ」と、幸子に聞こえぬよう小声で耳打ちされ、ああなるほどなと先の理由以上に納得した。それと同時に幸子に対して憐憫を抱いたが、かと言って恭助を責めることも出来なかった。
「ほら、見ろよこれ。よく撮れているだろう」
少し待っていろと言われ、十畳程度の居間で幸子と二人卓上を囲んで座っていると、数分も経たぬうちに奥の部屋から恭助が現れた。そうして卓上に何枚かのカラー写真が広げられ、得意気な顔で見下ろされる。
宝物を見せびらかすようなその仕草に呆れつつその中の一枚を手に取ると、隣で幸子が僅かに息を吐いた。
「へえ。結婚式の写真か。恭助さんにもこんなまともな依頼が来るんだね」
「お前、言うようになったじゃねえか。……って言ってもまあ、あれなんだよ。新郎が高校時代のダチなんだ。カメラマンになったとは言ってあったけど、具体的な仕事内容までは言ってなかったからさ」
「それで知らずに結婚式の写真を頼まれたわけか。だけどほんとによく撮れてるね。二人とも幸せそうだ」
「ああ。花嫁さん、綺麗だったぜ」
満足そうに微笑みながら言った恭助の言うとおり、純白のウエディングドレスを身に纏った花嫁が朗らかに笑っているその姿は何よりも目を引くものであった。腰から下にかけて緩く膨らんでいるドレスのデザインは、どうやら流行の最先端であるらしい。
顔の造形でいえば当然のことながら幸子には敵いもすまいが、これから先の明るい未来と愛を信じて笑う女は顔立ちに関係なく眩く、そして見惚れてしまう程に美しかった。絵に描いたような幸福の形である。
「……素敵な夫婦ね。羨ましいわ」
しかしそれまで黙り込んでいた幸子が不意に写真を見つめながら意味深に呟いたのを耳にして、真は僅かに身体を強張らせた。
幸福な人間を羨むのはいつだって心に傷や侘しさを負った者である。溜息のように漏れた幸子の呟きには、彼女の叶わない恋への落胆と、幸せを手に入れた女への羨望が含まれていた。
気まずさを抱きながらもちらりと恭助に視線を向けると、姪のそんな呟きなど気にした様子もなくただじっと写真を見つめているだけであった。その様子にこの男も大概狡い人間だなと思いつつも口にすることはせず、ようやく真は身体から力を抜いた。当事者以上に緊張している自分が馬鹿らしく思えた。
「だけどさ、恭助さん。こういうまともな写真見る度にいつも思うんだけど。いい加減、独立した方がいいんじゃないの。大変だろうけど、成功すればそっちの方がずっと稼ぎもいいだろうし」
とりあえず話題を変えようと、もう何度言ったか解らない言葉を投げかけたところで、真面目に思案しているのかいないのかよく解らない曖昧な返答が返って来ただけであった。
カメラマンと一言で言ってみても、撮る対象によって職種は様々である。雑誌や新聞などに載せる物を専門的に撮る者もいれば、芸術性を求めて作品として撮る者もいる。写真館を経営して個人的な依頼を受け持つ者もいるし、中には戦場カメラマンなどと呼ばれながら危険を伴う環境の中命懸けでシャッターを切る者もいた。
その中で言えば恭助は一番初めの部類に当てはまり、そして彼の撮った写真の一枚一枚が一冊の雑誌を形成していることに違いはないのだが、そうして出来上がった内容を目にするのはごく一部の限定された者達だけであった。
というのも、彼が撮る写真は人間の欲望を、もっと言えば男の欲望を掻き立てるような、あまり声を大にして言うことの出来ない如何わしい物であったからである。要するに恭助は、所詮グラビアやポルノと呼ばれる雑誌に載るような、決して一般向けとは言えない対象を専門的に撮るカメラマンなのである。
出会ったその日に「これは俺が撮ったんだ」と手渡されて開いた雑誌の中のあられもない女性の姿に、当然のことながらそんな物を撮っているとは思っていなかった真は驚かされたが、しかし目の前の好色そうな人物を見ていくうちになるほどなと妙に納得したものだった。
しかし職種はどうであれ、恭助の写真の腕は確かなものであった。情欲をそそる女の表情を捉えることが上手いのはもちろんのこと、何気ない風景の断片や、意図を持って撮られた人物や風景まで、その全てに奇妙な魅力が秘められているのだ。
白黒にせよカラーにせよ、その四角い中に収められた小さな世界には確かな息遣いがあった。花であれば花の、鳥であれば鳥の、人であれば人の、それぞれ微かな生命の躍動を感じる。流れる水でさえも、彼の手にかかれば呼吸をしているように感じられた。シャッターに収められた瞬間の世界に、彼は永遠の命を与えることが出来るのである。
それまで写真になど興味を抱かなかった真が、中途半端な時期に大学の写真部に入部する気になったのは、そんな恭助の撮る小さな世界の一つ一つに魅せられたからに他ならなかった。
自分も彼のように移ろい行く世界の一瞬を永遠の物として捉えることが出来たら良いのにと、柄にもなく夢を抱いたのだ。
そのため真にとって恭助は、知り合いの想い人であるのと同時に師でもあるのだが、如何せん捉えどころのない人物であるため、彼の撮る作品以外に敬意を払ったことはそれほどなかった。
「稼ぎねぇ。まあ、金はあるに越したことはないけどな。別にカメラマンとして有名になりたいってわけじゃないからな」
しかしその確かな腕前を、どうしてか恭助自身は大層なものとして扱おうとしないのである。そのため毎度気のない返事をしてはぐらかされて終わってしまうのだった。
「じゃあどうしてカメラマンになることを選んだんだい。写真を撮るのが好きなだけなら、趣味としてでも出来たじゃないか」
そう問いかけた真に対し、恭助は一瞬眉を顰めた。その表情はすぐにいつもの飄々としたものに変わったが、変化を見逃さなかった真は自分が触れてはならないことに触れたのだということに気付かされた。
「……どうして、か。あれじゃないか。お堅い家に少しくらいゆとりを作ってやろうっていう優しさだよ。俺みたいな奴が居たら、今後生まれてくるかもしれない優秀じゃない子供が安心できるだろ。勉強以外で何か一つくらい自分にも特技があるかもしれないってさ」
そう言って笑った恭助の姿に何か影のようなものを感じつつも、これ以上踏み込むべきではないと悟った真はそうだねと肩を竦めた。
隣に座る幸子へと視線を向けると、彼女は相も変わらず幸福な夫婦を見つめていた。物憂げなその様子を見つめながら、堪えきれずに真は溜息を吐いた。
本来良い血統に生まれついたはずの二人は、どうにも困難の中を生きていく性質にあるようだ。それが彼ら自身の選択であったのか、それともそうあるしか他に道がなかったのかは解らない。ひょっとしたらそのどちらもなのかもしれない。生まれついたこの世界が、彼らにとって幾らか息苦しさを伴うものであることはまず間違いないのだろう。
恭助が作った簡単な食事で夕食を済ませた後、真は先日訪れた際に現像しておいたネガの焼付け作業のために暗室へと向かった。
真が恭助の家を訪れる一番の目的は、なんといっても気兼ねなく使える暗室の存在であった。大学にも暗室の設備は整っているが、後に他の部員が控えている場合は慌ただしくやらねばならないので落ち着かなかった。
暗室として使われている部屋は、居間に隣接された三部屋のうち一番小さな四畳半の和室である。他二部屋は、一つは恭助の寝室として使われており、もう一つは撮った写真を収納しておくだけのコレクション部屋と化している。
客間のない家であるため、真と幸子はいつも終電前には家に帰された。恭助の家に泊まることを許されているのは彼と寝床を共にする女達だけである。
「そういえば、八月にサークルで展示会をすることになったんだ」
光を遮断した暗い部屋の中、引き伸ばし機を用いてフィルムの上の像を印画紙に投影しながら、真は傍らで作業を眺めている恭助に話しかけた。
ここ数か月の間で現像と焼付けの工程をすっかり覚えてしまった真は、初めの頃のように作業の度に恭助の助けを借りる必要はなくなっていた。
にもかかわらず、作業をする自分の横で何をするでもなくただ佇んでいるだけの恭助が何を思ってそうしているのか、真はいまいち解らずにいる。
案に幸子と二人きりになることを厭うているのだとすれば、初めから呼ばなければいいだけのことである。しかしその疑問をわざわざ口にするようなことはしなかった。なんとなく、恭助に対して幸子の話を振るべきではないと感じていた。
「展示会か。俺も高校の写真部時代に参加したな。コンクールなんかもあるんだろう」
「あるよ。確か十一月だったかな」
「ふうん。お前は去年出なかったんだっけ」
「うん。恭助さんに写真を教わるようになったのが十月だからね。それからすぐ入部したけど、いきなり入ってコンクールに出展っていうのもね。なんだか気が引ける話だよ」
そう言いながら、真は初めて恭助に頼み込んだその日のことを思い出していた。
あんたみたいな写真を撮れるようになりたいんだけど、と言った真の言葉を、恭助は二つ返事で了解した。
じゃあ教えてやるよと、まるで子供の宿題にでも付き合うような軽さで言ってのけた恭助に対し、断られることを念頭に置いていた真はしばらくの間信じられない思いで彼を見つめていた。
そして更に数日後、幸子と共に恭助の家を訪れたところで、ほれ、と手渡されたずっしりと重いそれに先日の比ではない程に驚かされた。
使っていいぞ、と言われたそれは何やら年季の入っていそうな一眼レフで、とても「はいありがとう」と言って受け取れるような代物ではなかった。そのため慌てて自分で用意するよと言うと、幾らするか解っているのかと現実問題を突き付けられ返答を見失った。以来渡されたそのカメラを真は大切に使っている。
「何を撮るかもう決めたのか。ただの展示会だったらテーマは自由だろ。今の時期ならそうだなぁ。海なんか良いぞ。夏の前のな、夜の海が静かでいいんだ。きっといい写真が撮れるぞ」
他にも花やら鳥やらどこどこの山だのと様々な提案をしてくる恭助の言葉を聞きながら、真の頭の中には居間で一人、静かに写真のコレクションを見ているであろう幸子の姿が過ぎった。展示会用の写真に彼女を撮ることは、真の中では既に決定事項になりつつあった。
「……今回は人物を撮るって決めてるんだ」
そう言った真を、恭助は一瞬ちらりと見やって、それから珍しいなと呟いた。
「今まで人なんて撮ったことなんてなかったよな。撮りたいと思う人が居ないだかなんだか言ってさ。なんだ、いいモデルが見つかったのか」
その問いには答えず、真はただ小さく笑った。現像液に浸された印画紙には、春に撮った桜の花が写っている。「なかなかよく撮れてるな」と言う恭助の賛辞を耳に入れつつも、しかし撮るべき対象が定まった今、納得いく出来映えであるはずの花の写真への満足感はほとんどなかった。
恭助の家を訪れたその日の帰り道、改めて真は幸子に写真のモデルを依頼した。相も変わらず気落ちした様子の幸子であったが、それでも真の頼みごとには小さく頷いた。それ以降二人の間に会話はなかった。