君のSAN値はもうゼロだ
じんわりと、背中に熱が伝わってくる。
「きゅう〜(あったけぇ〜)」
窓側の壁にもたれながら、俺はだらりと身体を床へ広げていた。
今日はよく晴れているらしい。
直接陽が当たっているわけではない。それでも、陽に温められた壁が心地よかった。
人間だった頃の輪郭なんて、とうにない。
今の俺は、柔らかく弾力のある不定形の身体をしている。そこから何本もの触手が伸び、二つだけ残った目は身体の表面を自由に動き回る。
どうしてこんな姿になったのかは、俺にも分からない。
「修也、ちょっと寄るよ」
「きゅ?(ん?)」
返事を待つこともなく、梓が俺の身体に背中を預けてきた。
「きゅっ(おい)」
ぐに、と身体が沈む。
梓はそんなことを気にした様子もなく、そのまま俺へ体重を預けた。
「きゅう(相変わらず遠慮ねえな)」
人間だった頃から、こいつはこうだった。
ソファで隣に座れば勝手に肩へ寄りかかってくるし、俺が寝転がっていれば背中に乗っかってくる。
その頃と何も変わらない。
──少なくとも、梓は。
「…………」
梓は俺にもたれたまま、手にしていた本へ視線を落とした。
ぱらり、ぱらりと紙をめくる音が、静かな部屋に響く。俺もすることがないので、そのままぼんやりと過ごす。
暖かい。
静かだ。
梓もいる。
今の俺には、それで十分だった。
「…………」
「…………」
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、本をめくる音が止まっていることに気がついた。
「きゅ?(梓?)」
返事がない。
「きゅーう(おーい)」
やっぱり返事がない。
俺は身体の正面にあった二つの目を、するすると表面に沿って移動させ、梓の顔を覗き込んだ。
「きゅぎゅ?(あれ?寝た?)」
目を閉じた梓から、すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえてくる。
「きゅう……(マジで寝てる……)」
俺の上で。
まあ、人間だった頃から俺の背中で寝たこともある女だ。今さらと言えば、今さらなのかもしれない。
「…………」
起こさないように、俺はそのまま動かずにいることにした。
しばらくして、梓の腕に小さく鳥肌が立っていることに気づく。
「きゅーん?(寒いのか?)」
俺には暖かく感じるけれど、人間の梓には少し肌寒いらしい。
少し離れた場所にあるブランケットへ触手を伸ばし、先端を引っかけてこちらへ引き寄せる。そのまま梓を起こさないよう、そっと肩まで掛けてやった。
「……ん」
「きゅっきゅ〜?(あ、起きた?)」
梓が身じろぎする。けれど目は開かず、それどころかもっと深く俺へ身体を預けてきた。
「……修也」
「きゅ?(ん?)」
「…………」
呼んだだけらしい。
「きゅう(なんだよ)」
返事はない。
梓はもう一度、穏やかな寝息を立て始めていた。
「…………」
俺はブランケットから触手を離した。
人間だった頃とは、何もかもが違う。
声も。
身体も。
こうして触れる感触だって、きっと違う。
それなのに梓は、昔と変わらず俺に寄りかかって眠っている。
「きゅっきゅー(……まあ、いっか)」
窓側の壁から伝わる熱は、まだ暖かい。
俺は眠る梓を起こさないよう、そのまま身体を床へ広げた。
◇◇◇
夕方。
「修也ー。買い物行ってくるけど、何かいる?」
「きゅうー?(んー?)」
リビングから聞こえてきた梓の声に、俺は二つの目をそちらへ向けた。
梓は財布とエコバッグを手に、出かける準備をしている。
「今日、何食べたい?」
「きゅう(なんでもいい)」
「なんでもいいが、一番困るんだよねえ」
梓は少し考えてから、冷蔵庫に掛けてある小さなホワイトボードを指差した。
「欲しいものあったら書いといて」
「きゅ(はいよ)」
俺は触手を伸ばし、ホワイトボードの脇にぶら下がっていたペンを掴む。もう一本の触手で、きゅぽん、とキャップを外した。
さて、欲しいもの。
『プリン』
「またプリン?」
「きゅ!(いる!)」
「昨日も食べたじゃん」
「きゅう(今日の分)」
「毎日食べる気?」
「きゅっきゅ〜(食後の楽しみだろ〜)」
梓が呆れたように笑う。
「はいはい。いつものね」
「きゅ!(よろしく!)」
そう言って、梓は玄関へ向かった。
「行ってきます」
「きゅう(いってらっしゃい)」
ぱたん。
扉が閉まる。
「…………」
静かになった部屋で、俺はホワイトボードを見る。
『プリン』
我ながら、怪物になってまで書くことがこれでいいのだろうか。まあ、食べたいものは食べたい。
◇◇◇
「修也、プリン食べる?」
「きゅ!(食べる!)」
夕食を終えた梓が、冷蔵庫から二つのプリンを取り出した。
どこにでも売っている、安いやつだ。
でも、これがいい。
梓が一つを俺の前に置き、自分の分の蓋を開ける。
「いただきます」
「きゅう(いただきます)」
梓がスプーンですくって一口食べる。
俺はプリンを触手で持ち上げ、そのまま身体へ押し当てた。
ずぶり。
柔らかな身体の表面にプリンが沈み、内側でじわじわと輪郭を崩していく。
「きゅう(うまい)」
「おいしい?」
「きゅ!(うまい!)」
「私もおいしい」
梓がもう一口食べる。
「やっぱこれで十分だよねえ」
「きゅう(分かる)」
「私たち、安舌でよかったね」
「きゅ!(ほんとな!)」
高いものを食べれば、もっと美味しいのかもしれない。でも俺たちは昔から、スーパーで買ってきた安いプリンを食べて、うまいうまいと喜んでいた。
そこは、今も変わらない。
俺のプリンが身体の中ですっかり消えた頃、梓も最後の一口を食べ終えた。
「明日の分も買ってくればよかった」
「きゅきゅーう(毎日食う気なのはお前もじゃねえか)」
「明日また買ってくるね」
「きゅ!(頼んだ!)」
梓は満足そうに、空になった容器をゴミ箱へ捨てた。
◇◇◇
「ねえ、修也」
「きゅ?(ん?)」
梓がスマホを眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「この前行ったところ、よかったよね」
「きゅう?(どこのこと?)」
「ほら、ここ」
こちらへ向けられた画面には、見覚えのある景色が映っていた。
青々と茂った木々の向こうに、白い筋を引いて流れ落ちる滝。初夏に二人で訪れた、山奥の温泉地だ。
泊まった旅館から少し歩いたところに、その滝はあった。
行きは、まだ着かないのかと二人で文句を言いながら歩いた。
けれど、木々の向こうに滝が見えた瞬間、そんな不満はどこかへ吹き飛んだ。
「青紅葉、綺麗だったよね」
「きゅう〜(綺麗だったなあ)」
「滝も、マイナスイオンいっぱい〜って感じで」
「きゅう、きゅーきゅ(うん。着いた瞬間、空気うまって言ったよな)」
「思ったより歩いたけど」
「きゅう、きゅっきゅ(梓、途中からずっと疲れたって言ってたもんな)」
「でも、行ってよかったよね」
「きゅ!(それな!)」
もちろん、俺の言葉が梓にそのまま伝わっているわけではない。
それでも梓は、俺と会話でもしているように楽しそうに話す。
「ご飯もおいしかったなあ。川で獲れた鮎だっけ?お酒にめちゃくちゃ合って最高だったよね〜」
「きゅう(あれはうまかった)」
「温泉もよかったし」
「きゅう。きゅきゅきゅ〜(露天風呂な。そこから見えた空と青紅葉の組み合わせも最高だった)」
「また行きたいね」
「きゅう(そうだな)」
何気なく返すと、梓が続けた。
「今度は、紅葉が綺麗な時に旅行に行こうよ」
「…………」
俺は黙った。
梓は気づかない。
スマホを操作して、今度は秋の写真を探している。
「ほら。やっぱり綺麗」
画面いっぱいに、赤や黄色に染まった山が広がっていた。
俺たちが見た青紅葉とは、まるで違う景色だ。
「十一月くらいかな」
「きゅう……(梓)」
「また同じ旅館泊まりたいなあ。ご飯もおいしかったし」
「…………」
「ね。修也、いつにする?」
二つの目を、俺は自分の身体へ向けた。
これで、どうやって行くというのだろう。
「きゅう(……無理だろ)」
「予約、早めにした方がいいかな」
「きゅ……(聞いてねえな)」
俺は近くに置いてあったホワイトボードを触手で引き寄せた。
ペンを取る。
『旅行は無理だろ』
「どうして?」
「…………」
あまりにも自然な返事に、何を書けばいいのか分からなくなった。
電車に乗れるわけがない。
旅館に泊まれるわけがない。
あの遊歩道を歩いて、滝を見に行くことだってできない。
そもそも、玄関の外に出ることすら──。
『俺はもう』
そこから先が、書けなかった。
「…………」
俺はもう。
なんだ。
人間じゃない?
あの頃とは違う?
こんな姿になったから、もう二人では行けない?
「今度もさ」
梓の声に、目を向ける。
「紅葉の前で、また写真撮ろうね」
「…………」
梓は笑っていた。
初夏の旅行を思い出しているのだろう。
あのときと何も変わらない顔で。
「きゅう……(そうだな……)」
俺は書きかけの文字を消した。
白い板の上から、『俺はもう』が消えていく。
「滝も、もう一回見たいなあ」
「……きゅ(……うん)」
「絶対綺麗だよ」
「きゅう(きっとな)」
梓は満足そうに、またスマホへ目を落とした。
俺も、それ以上は何も書かなかった。
梓は時々、こういうことを言う。
まるで俺が今でも、以前と同じように外を歩けると思っているかのように。
俺にもたれて眠る。
一緒に安いプリンを食べる。
そして、次の旅行の予定を立てる。
まるで、何も変わっていないかのように。
──梓がこうなったのは。
俺がこうなった、あの夜からだった。
◆◆◆
その日は、どこにでもある普通の一日だった。
仕事を終えた梓と駅前で待ち合わせて、二人で夕飯を食べに行った。
「食べすぎた〜」
「俺も。最後のデザートいらなかったかも」
「頼んだの修也じゃん」
「梓も半分食っただろ」
「だってくれたから」
「俺のせいみたいに言うなよ」
そんなくだらない話をしながら、二人並んで家までの道を歩く。
季節は初夏。
夜になれば昼間の暑さも少し和らぎ、吹き抜ける風が気持ちよかった。
「明日の休み、どうする?」
「んー。家でいいんじゃね?」
「えぇ〜」
「最近出かけすぎだろ。たまには家でゴロゴロしようぜ」
「じゃあ映画観よ。ほら、昨年一緒に何回も見に行ったあの映画!ネットで配信開始されたんだよね〜」
「お!いいじゃん!見る前に炭酸とポテチ買っとかないとな〜」
明日のこと。
これからのこと。
そんな当たり前の話をしていた。
「──痛っ」
突然、首筋にちくりとした感触が走った。
「どうしたの?」
「なんか刺さった」
首へ手をやる。
指先で探ってみても、特に何かが刺さっている様子はない。
「蚊じゃない?」
「え、もういる?」
「いるでしょ。初夏だよ?」
「マジかよ。最悪」
「刺されやすいもんね、修也」
「梓が刺されなさすぎなんだよ」
「日頃の行いかな」
「じゃあ俺の行い悪すぎだろ」
それだけだった。痛みが続くわけでも、血が出ているわけでもない。
少し気になって首を擦ったものの、家に着く頃にはそんなことがあったことすら忘れていた。
◆
──暑い。
最初に感じたのは、それだった。
「…………っ」
意識が浮上する。
暗い。
寝室だ。
隣では梓が眠っている。
いつもの夜。
いつもの部屋。
なのに。
(……暑い)
掛け布団を退けようと腕を動かす。
「っ……?」
動かない。
いや、違う。
(熱い)
暑いんじゃない。
熱い。
身体の奥から、焼けるような熱が込み上げてくる。
「ぐ……っ」
息を吸う。
喉が熱い。
いや、それどころか胸も、腹も、頭も。
全身が、内側から火に炙られているようだった。
(なんだ、これ。火事……?)
朦朧とする頭で、そんなことを考えた。
部屋が燃えている。
だから熱い。
だったら逃げないと。
梓を早く、起こさないと。
(あ、梓……!)
呼ぼうとした。
声が出ない。
「──っ」
代わりに、喉の奥から空気が漏れるような音がした。
(梓)
(起きろ)
(火事だ)
身体を起こそうとする。
その瞬間。
(──あ?)
何かが、おかしい。
腕は?
足は?
身体は?
どこだ。
(俺の身体、どこだ?)
感覚がないわけではない。
むしろ、ある。
ありすぎる。
腕を動かそうとしたはずなのに、ベッドの上で何かがのたうった。
足を下ろそうとしたはずなのに、床へ何本もの何かが落ちる感覚がした。
(な……に……)
(……なんだよ、これ)
熱い。
あつ……い……。
熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。
(あつい)
(あついあついあついあつい)
(なんで)
(なんでこんな)
痛い。
いや。
熱い。
もう、どちらなのかも分からない。
身体の中に火を放たれたみたいだった。
血が沸騰して、内臓まで焼け焦げていくような感覚がする。
そんなはずがない。
そんなはずがないのに。
(あつい)
腕はどこだ。
(あつい)
足は。
(あつい)
身体が。
(あつい)
俺が。
(あつい)
溶けていく。
(あついあついあついあついあついあついあつい)
(たすけて)
誰に。
(梓)
そうだ。
梓。
(起きろ)
(起きて)
(助けて)
けれど、声が出ない。
身体を動かそうとしても、もうどこをどう動かせばいいのか分からない。
皮膚が。
肉が。
骨が。
全部がぐずぐずに溶けて、混ざっていく。
俺の形が、なくなっていく。
(いやだ)
(いやだ)
(いやだ)
(俺、溶けて──)
そこで、意識が途切れた。
◆
「…………」
気がついたとき、熱は消えていた。痛みもない。
薄暗い寝室の中で、俺はしばらく動けずにいた。
(…………夢?)
悪夢。そうであってほしかった。
隣を見る。
梓は規則正しい寝息で眠っている。
(よかった……)
ほっとする。
少なくとも、火事ではなかったらしい。
俺は息を吐いて──
「…………」
息?
(……あれ?息って、どうやるんだっけ)
そもそも呼吸をしている感覚がない。なのに苦しくない。
(な……んで……)
身体を起こそうとする。
ずるり。
何かがベッドから床へ落ちた。
(…………は?)
腕をつこうとする。
にゅるりと伸びた何かが、床へ触れた。
触手。
そうとしか呼べないものが、俺の身体から伸びていた。
(…………)
理解したくなくて視線を逸らす。
その先に、寝室の姿見があった。
鏡の中に、何かがいる。
(…………は)
鏡の中にいるのは、どう見ても人間ではなかった。
輪郭を失った、不定形の身体。
そこから何本も伸びる触手。
人間だった頃の名残のように残された、二つの目。
冒涜的なナニカ。
そんな言葉が、これほど似合う存在を俺は知らない。
そして、それが俺だった。
(はは…………なんだよコレ……)
『さあ、SAN値チェックのお時間です』
そんな声が、聞こえた気がした。
昔から好きだった、クトゥルフ神話TRPG。
もしも探索者が、こんな存在を目の当たりにしたのなら、正気を保っていられるかダイスを振って確かめることになる。
(……俺も、振るのかな)
馬鹿みたいなことを考えた。
けれど、そうやって自分の知っているものに置き換えなければ、目の前の現実を理解できそうになかった。
鏡の中のナニカが、俺を見る。
俺も、そいつを見る。
これは俺だ。
どうしようもなく、途方もなく、俺なのだ。
考えろ。
どうすればいい。
何が起きた。
病気?
そんなわけがない。
夢?
だったら早く覚めてくれ。
俺は、どうしたらこの現実から逃れられる?
「……ん……」
背後から、小さな声が聞こえた。
鏡越しに見る。
梓が、ベッドの上で身じろぎしていた。
(梓)
「……修也?」
ゆっくりと瞼が開く。
まずい。
「きゅ……!(梓、待って)」
呼びかけたつもりだった。
けれど、自分から出たのは、声とも呼べない訳の分からない音だけで。
「…………」
梓と、目が合った。
梓の目が、大きく見開かれる。
「…………っ」
『さあ、SAN値チェックのお時間です』
また、そんな声が聞こえた気がした。
(……やめてくれ)
今度は、少しも笑えなかった。
梓は動かない。俺から目を逸らすこともできず、ただ固まっている。
「きゅ……(梓……)」
返事はない。
その顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
(怖いよな)
当たり前だ。
俺だって怖い。
鏡に映った自分を見ただけで、どうにかなりそうだった。
いや、どうにかはなっている。
それが突然、梓の目の前にいる。
「きゅう……(ごめん)」
謝ったところで、伝わるはずもない。
だが反射的にその言葉が出た。
触手を一本、梓へ伸ばしかける。
せめて、大丈夫だと。
目の前にいるのは俺なんだと、伝えたくて。
だが、その動きが引き金だった。
「──いやああああああああああっ!!」
「っ!」
梓の叫び声が、寝室に響いた。
伸ばしかけた触手を、咄嗟に引っ込める。
「いやっ、いや、なに、なにあれ……!」
「きゅう……!(待って、梓!)」
「来ないで!」
「…………」
その声に俺の身体が止まった。
梓はベッドの端まで後ずさる。けれど、それ以上は動けない。
逃げることも、目を逸らすこともできず、ただ俺を見ている。
(……失敗)
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
正気度ロールは、失敗。
しばらく、そうしていた。
俺がもう動かないと思ったのだろうか。
膠着した時間が不意に動き出す。
「修也……」
「…………!」
「修也、どこ……?」
梓の視線が、俺から外れた。
「修也ぁ……?」
「きゅう(梓)」
「どこいったの?」
震える手で掛け布団を退ける。
「修也……修也……」
俺を探している。
目の前にいる俺ではなく、人間だった俺を。
「きゅう!(ここだよ!)」
「ひっ!修也っ!」
梓がベッドから降りようとする。
けれど、足に力が入らなかった。
「あ……っ」
ずるりと身体が滑り落ちる。
床に手をつき、そのまま座り込んだ。
「きゅう!(梓!)」
出てきたのは、やっぱり訳の分からない音だけだった。
梓は振り返らない。
「修也……どこ……?」
立ち上がることもできないまま、床に手をつく。
ぺたぺた。
梓は這うように寝室の外へ向かっていく。
「修也……」
呼びながら。
何度も、俺の名前を呼びながら。
「きゅう……(ここにいるのに……)」
俺も、その後を追った。
ずるり。
床を這う俺の身体から、湿った音がする。
梓が這っていく。
俺も、その後を這っていく。
こんな状況じゃなければ、あまりにも間抜けな光景だった。
いつもだったら、笑っていた。
なんて格好してるんだって。
何やってんだよって。
梓と一緒に、笑いたかった。
なのに。
(なんで)
なんで、こんなことになってるんだ。
梓はリビングまで辿り着くと、辺りを見回した。
「修也……?」
当然、返事はない。
俺はここにいる。
すぐ後ろにいる。
「きゅう……(梓……)」
どうすればいい。
声をかけても伝わらない。
近づけば、また怖がらせる。
俺だと。
ここにいると。
どうすれば伝えられる。
そのとき、冷蔵庫に掛けてある小さなホワイトボードが目に入った。
(……あ)
触手を伸ばし、ホワイトボードの脇にぶら下がっていたペンを掴む。
もう一本の触手でキャップを外そうとして、滑った。
ころん、と床に落ちる。
「…………」
拾い直し、もう一度試みる。
今度は、外れた。
震える触手で、ペン先をホワイトボードへ押しつける。
書き慣れたはずの自分の名前が、がたがたとひどく歪んだ。
『修也』
ボードを梓の視界に入るように、触手をさらに伸ばす。
梓が、その文字を見る。
「……修也?」
「きゅう!(そう!)」
思わず身体が大きく揺れた。
梓がびくりと肩を震わせる。
「修也が……どうしたの?」
(名前に気づいた)
(それなら──)
俺はもう一度ペンを握り、今書いた名前の上に文字を書き足した。
『俺が
修也』
「…………」
梓は何も言わず、その文字を見つめていた。
やがて、ボードを持つ触手を辿るように、ゆっくりと俺を見る。
「…………」
目が合う。
「……修也?」
「きゅう……(うん)」
「…………」
梓の唇が、小さく震えた。
「修也……」
もう一度。
確かめるように、俺の名前を呼ぶ。
「きゅ!(うん!)」
「…………そっか」
梓が笑った。
いや、笑おうとしたのだろう。口元はひどく歪んでいた。
「そっかぁ……修也なんだ……」
「きゅう……(梓)」
梓は俺を見る。
二つの目を。
何本もの触手を。
輪郭を失った、この身体を。
「…………」
また、ホワイトボードを見る。
『俺が
修也』
そこに書かれた文字を、じっと見つめる。
「修也……」
「きゅ(うん)」
「修也……」
「きゅう(うん)」
「…………」
何度も。何度も。
俺とボードを見返しながら、梓は名前を呼んだ。
まるで、目の前にあるものと、その名前をどうにか結びつけようとしているみたいに。
「修也……」
「きゅう……(ここにいるよ)」
「……うん、いるね」
「…………」
「修也、ここにいるね」
「きゅう(うん)」
「よかった……」
ぽろり。
梓の目から、涙が落ちた。
「いなくなったのかと思った……」
「きゅ……(ごめん)」
「よかった……修也、ちゃんといる……」
「…………」
その言葉に。
ほんの少しだけ、俺も安心してしまった。
怖がられた。
叫ばれた。
逃げられた。
それでも、俺だと分かってくれた。
この姿でも、俺が修也だと。
「…………」
梓が、俺へ手を伸ばす。
「きゅ……(梓?)」
震える指先が俺の身体へ近づき、あと少しのところで止まった。
「……ごめん」
「きゅ(いいよ)」
「ごめんね……」
「きゅう(大丈夫だから)」
分かってる。
無理をしなくていい。
俺だって、まだ自分の身体を見るのが怖い。
梓なら、なおさらだ。
だから、時間があればいい。
少しずつ慣れていけばいい。
俺は、そう思った。
「…………」
梓が手を引っ込める。
膝を抱えるようにして、その場に座り込んだ。
「……どうしよう」
「きゅ?」
「明日……」
「…………」
「そう明日、映画……見る約束、してたよね」
「きゅ?(え?)」
「炭酸と、ポテチ……買わなきゃ」
何を言っているんだ。
「何味がいいかな」
「…………」
「修也、コンソメ好きだもんね」
「きゅ……(梓?)」
「私、のり塩にしようかなぁ」
梓は笑った。
今度は、さっきよりも自然に。
「二つ買えばいいよね」
「…………」
違う。
今は、そんな話をしている場合じゃない。
俺がこんな姿になって、梓はさっきまで叫んでいた。
なのに。
「炭酸も買わないとね」
「きゅう……(梓、待ってよ……)」
「コーラでいい?」
「きゅ、きゅう……(そうじゃ、ないだろ……)」
梓は、いつもと同じ顔で俺を見る。
「ね、修也」
その目は俺を見ているはずなのに、俺を見ていなかった。
SAN値チェックの声は聞こえない。
必要なかった。
結果なんて、見れば分かった。
◇◇◇
あれから、どれくらい経っただろう。
俺は変わった。
こんなナニカになっておいて、変わっていないとは言えない。
けれど、梓は変わらなかった。
いや。
変わらないようにしている、と言った方が正しいのかもしれない。
「きゅう……(あったけぇ……)」
窓側の壁にもたれながら、俺は身体をだらりと床へ広げた。
今日もよく晴れているらしい。
窓には厚手のカーテンが掛かっていて、梓は俺がこうなってから一度もそれを開けようとしない。
だから俺は、陽に温められた壁から伝わってくる熱で、外が晴れていることを知る。
この姿を誰かに見られたらどうなるか分からない以上、その方が都合はいい。俺も好き好んで外へ出たいとは思わなかった。
俺はあの夜から、仕方なくこの身体に適応していった。
触手で物を掴み、文字を書く。以前とはずいぶん違うが、食事だってできる。今ではどれも当たり前になった。
元に戻る方法は、今も分からない。
そもそも、どうしてこんな姿になったのかすら分かっていない。
「…………」
二つの目を身体の表面に滑らせながら、部屋の中を眺める。
ふと、棚の上に置かれた写真立てが目に入った。
初夏に二人で旅行したときの写真だ。
青紅葉と滝を背景に、俺と梓が並んで撮った。
ただ、今は俺が写っていた部分だけが、真っ黒に塗り潰されている。
いつからこうなっていたのかは分からない。気づいたときには、人間だった頃の俺は写真から消えていた。
梓に理由を聞いたことはない。
聞かなくても、なんとなく分かる。
梓は今でも旅行へ行こうと言う。以前と同じように俺にもたれかかって眠るし、一緒に安いプリンを食べて、うまいうまいと笑う。
あの夜のことなんてなかったように。
俺が今も人間の姿をしているかのように。
「…………」
俺は、黒く塗り潰された写真から目を逸らした。
(ああ、それでいいんだ)
見せたくないものに蓋をして、見たくないものは塗りつぶして。
それで梓が幸せなら、それでいい。
俺がこの姿になっても、梓は俺のそばにいる。今だって名前を呼んで、当たり前のように俺へ触れてくれる。
それだけで十分だ。
「修也ー」
「きゅ?(ん?)」
リビングから梓の声が聞こえる。
「プリン食べよー」
「きゅ!(食べる!)」
身体を起こし、梓のいる方へ向かう。
ずるりと床を這う音がする。
最初は、この音を聞くだけでも嫌だった。
今ではもう、何も思わない。
人間だった頃とは、何もかもが違う。
それでも梓が俺を修也と呼んでくれるのなら。
俺は、それでいい。




