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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

たとえばこんな終わり方【完結】

君のSAN値はもうゼロだ

作者: 有賀羊
掲載日:2026/08/15

 じんわりと、背中に熱が伝わってくる。


「きゅう〜(あったけぇ〜)」


 窓側の壁にもたれながら、俺はだらりと身体を床へ広げていた。


 今日はよく晴れているらしい。

 直接陽が当たっているわけではない。それでも、陽に温められた壁が心地よかった。


 人間だった頃の輪郭なんて、とうにない。

 今の俺は、柔らかく弾力のある不定形の身体をしている。そこから何本もの触手が伸び、二つだけ残った目は身体の表面を自由に動き回る。


 どうしてこんな姿になったのかは、俺にも分からない。


「修也、ちょっと寄るよ」


「きゅ?(ん?)」


 返事を待つこともなく、梓が俺の身体に背中を預けてきた。


「きゅっ(おい)」


 ぐに、と身体が沈む。

 梓はそんなことを気にした様子もなく、そのまま俺へ体重を預けた。


「きゅう(相変わらず遠慮ねえな)」


 人間だった頃から、こいつはこうだった。

 ソファで隣に座れば勝手に肩へ寄りかかってくるし、俺が寝転がっていれば背中に乗っかってくる。

 その頃と何も変わらない。


 ──少なくとも、梓は。


「…………」


 梓は俺にもたれたまま、手にしていた本へ視線を落とした。

 ぱらり、ぱらりと紙をめくる音が、静かな部屋に響く。俺もすることがないので、そのままぼんやりと過ごす。


 暖かい。

 静かだ。

 梓もいる。


 今の俺には、それで十分だった。


「…………」


「…………」


 どれくらい、そうしていただろう。

 ふと、本をめくる音が止まっていることに気がついた。


「きゅ?(梓?)」


 返事がない。


「きゅーう(おーい)」


 やっぱり返事がない。

 俺は身体の正面にあった二つの目を、するすると表面に沿って移動させ、梓の顔を覗き込んだ。


「きゅぎゅ?(あれ?寝た?)」


 目を閉じた梓から、すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえてくる。


「きゅう……(マジで寝てる……)」


 俺の上で。

 まあ、人間だった頃から俺の背中で寝たこともある女だ。今さらと言えば、今さらなのかもしれない。


「…………」


 起こさないように、俺はそのまま動かずにいることにした。

 しばらくして、梓の腕に小さく鳥肌が立っていることに気づく。


「きゅーん?(寒いのか?)」


 俺には暖かく感じるけれど、人間の梓には少し肌寒いらしい。

 少し離れた場所にあるブランケットへ触手を伸ばし、先端を引っかけてこちらへ引き寄せる。そのまま梓を起こさないよう、そっと肩まで掛けてやった。


「……ん」


「きゅっきゅ〜?(あ、起きた?)」


 梓が身じろぎする。けれど目は開かず、それどころかもっと深く俺へ身体を預けてきた。


「……修也」


「きゅ?(ん?)」


「…………」


 呼んだだけらしい。


「きゅう(なんだよ)」


 返事はない。

 梓はもう一度、穏やかな寝息を立て始めていた。


「…………」


 俺はブランケットから触手を離した。


 人間だった頃とは、何もかもが違う。

 声も。

 身体も。

 こうして触れる感触だって、きっと違う。


 それなのに梓は、昔と変わらず俺に寄りかかって眠っている。


「きゅっきゅー(……まあ、いっか)」


 窓側の壁から伝わる熱は、まだ暖かい。

 俺は眠る梓を起こさないよう、そのまま身体を床へ広げた。


◇◇◇


 夕方。


「修也ー。買い物行ってくるけど、何かいる?」


「きゅうー?(んー?)」


 リビングから聞こえてきた梓の声に、俺は二つの目をそちらへ向けた。

 梓は財布とエコバッグを手に、出かける準備をしている。


「今日、何食べたい?」


「きゅう(なんでもいい)」


「なんでもいいが、一番困るんだよねえ」


 梓は少し考えてから、冷蔵庫に掛けてある小さなホワイトボードを指差した。


「欲しいものあったら書いといて」


「きゅ(はいよ)」


 俺は触手を伸ばし、ホワイトボードの脇にぶら下がっていたペンを掴む。もう一本の触手で、きゅぽん、とキャップを外した。


 さて、欲しいもの。


『プリン』


「またプリン?」


「きゅ!(いる!)」


「昨日も食べたじゃん」


「きゅう(今日の分)」


「毎日食べる気?」


「きゅっきゅ〜(食後の楽しみだろ〜)」


 梓が呆れたように笑う。


「はいはい。いつものね」


「きゅ!(よろしく!)」


 そう言って、梓は玄関へ向かった。


「行ってきます」


「きゅう(いってらっしゃい)」


 ぱたん。


 扉が閉まる。


「…………」


 静かになった部屋で、俺はホワイトボードを見る。


『プリン』


 我ながら、怪物になってまで書くことがこれでいいのだろうか。まあ、食べたいものは食べたい。


◇◇◇


「修也、プリン食べる?」


「きゅ!(食べる!)」


 夕食を終えた梓が、冷蔵庫から二つのプリンを取り出した。

 どこにでも売っている、安いやつだ。


 でも、これがいい。


 梓が一つを俺の前に置き、自分の分の蓋を開ける。


「いただきます」


「きゅう(いただきます)」


 梓がスプーンですくって一口食べる。

 俺はプリンを触手で持ち上げ、そのまま身体へ押し当てた。


 ずぶり。


 柔らかな身体の表面にプリンが沈み、内側でじわじわと輪郭を崩していく。


「きゅう(うまい)」


「おいしい?」


「きゅ!(うまい!)」


「私もおいしい」


 梓がもう一口食べる。


「やっぱこれで十分だよねえ」


「きゅう(分かる)」


「私たち、安舌でよかったね」


「きゅ!(ほんとな!)」


 高いものを食べれば、もっと美味しいのかもしれない。でも俺たちは昔から、スーパーで買ってきた安いプリンを食べて、うまいうまいと喜んでいた。


 そこは、今も変わらない。


 俺のプリンが身体の中ですっかり消えた頃、梓も最後の一口を食べ終えた。


「明日の分も買ってくればよかった」


「きゅきゅーう(毎日食う気なのはお前もじゃねえか)」


「明日また買ってくるね」


「きゅ!(頼んだ!)」


 梓は満足そうに、空になった容器をゴミ箱へ捨てた。


◇◇◇


「ねえ、修也」


「きゅ?(ん?)」


 梓がスマホを眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。


「この前行ったところ、よかったよね」


「きゅう?(どこのこと?)」


「ほら、ここ」


 こちらへ向けられた画面には、見覚えのある景色が映っていた。


 青々と茂った木々の向こうに、白い筋を引いて流れ落ちる滝。初夏に二人で訪れた、山奥の温泉地だ。

 泊まった旅館から少し歩いたところに、その滝はあった。


 行きは、まだ着かないのかと二人で文句を言いながら歩いた。

 けれど、木々の向こうに滝が見えた瞬間、そんな不満はどこかへ吹き飛んだ。


「青紅葉、綺麗だったよね」


「きゅう〜(綺麗だったなあ)」


「滝も、マイナスイオンいっぱい〜って感じで」


「きゅう、きゅーきゅ(うん。着いた瞬間、空気うまって言ったよな)」


「思ったより歩いたけど」


「きゅう、きゅっきゅ(梓、途中からずっと疲れたって言ってたもんな)」


「でも、行ってよかったよね」


「きゅ!(それな!)」


 もちろん、俺の言葉が梓にそのまま伝わっているわけではない。

 それでも梓は、俺と会話でもしているように楽しそうに話す。


「ご飯もおいしかったなあ。川で獲れた鮎だっけ?お酒にめちゃくちゃ合って最高だったよね〜」


「きゅう(あれはうまかった)」


「温泉もよかったし」


「きゅう。きゅきゅきゅ〜(露天風呂な。そこから見えた空と青紅葉の組み合わせも最高だった)」


「また行きたいね」


「きゅう(そうだな)」


 何気なく返すと、梓が続けた。


「今度は、紅葉が綺麗な時に旅行に行こうよ」


「…………」


 俺は黙った。

 梓は気づかない。


 スマホを操作して、今度は秋の写真を探している。


「ほら。やっぱり綺麗」


 画面いっぱいに、赤や黄色に染まった山が広がっていた。

 俺たちが見た青紅葉とは、まるで違う景色だ。


「十一月くらいかな」


「きゅう……(梓)」


「また同じ旅館泊まりたいなあ。ご飯もおいしかったし」


「…………」


「ね。修也、いつにする?」


 二つの目を、俺は自分の身体へ向けた。


 これで、どうやって行くというのだろう。


「きゅう(……無理だろ)」


「予約、早めにした方がいいかな」


「きゅ……(聞いてねえな)」


 俺は近くに置いてあったホワイトボードを触手で引き寄せた。

 ペンを取る。


『旅行は無理だろ』


「どうして?」


「…………」


 あまりにも自然な返事に、何を書けばいいのか分からなくなった。


 電車に乗れるわけがない。

 旅館に泊まれるわけがない。

 あの遊歩道を歩いて、滝を見に行くことだってできない。


 そもそも、玄関の外に出ることすら──。


『俺はもう』


 そこから先が、書けなかった。


「…………」


 俺はもう。


 なんだ。


 人間じゃない?

 あの頃とは違う?

 こんな姿になったから、もう二人では行けない?


「今度もさ」


 梓の声に、目を向ける。


「紅葉の前で、また写真撮ろうね」


「…………」


 梓は笑っていた。

 初夏の旅行を思い出しているのだろう。

 あのときと何も変わらない顔で。


「きゅう……(そうだな……)」


 俺は書きかけの文字を消した。

 白い板の上から、『俺はもう』が消えていく。


「滝も、もう一回見たいなあ」


「……きゅ(……うん)」


「絶対綺麗だよ」


「きゅう(きっとな)」


 梓は満足そうに、またスマホへ目を落とした。

 俺も、それ以上は何も書かなかった。


 梓は時々、こういうことを言う。

 まるで俺が今でも、以前と同じように外を歩けると思っているかのように。


 俺にもたれて眠る。

 一緒に安いプリンを食べる。

 そして、次の旅行の予定を立てる。


 まるで、何も変わっていないかのように。


 ──梓がこうなったのは。

 俺がこうなった、あの夜からだった。


◆◆◆


 その日は、どこにでもある普通の一日だった。


 仕事を終えた梓と駅前で待ち合わせて、二人で夕飯を食べに行った。


「食べすぎた〜」


「俺も。最後のデザートいらなかったかも」


「頼んだの修也じゃん」


「梓も半分食っただろ」


「だってくれたから」


「俺のせいみたいに言うなよ」


 そんなくだらない話をしながら、二人並んで家までの道を歩く。


 季節は初夏。

 夜になれば昼間の暑さも少し和らぎ、吹き抜ける風が気持ちよかった。


「明日の休み、どうする?」


「んー。家でいいんじゃね?」


「えぇ〜」


「最近出かけすぎだろ。たまには家でゴロゴロしようぜ」


「じゃあ映画観よ。ほら、昨年一緒に何回も見に行ったあの映画!ネットで配信開始されたんだよね〜」


「お!いいじゃん!見る前に炭酸とポテチ買っとかないとな〜」


 明日のこと。

 これからのこと。

 そんな当たり前の話をしていた。


「──痛っ」


 突然、首筋にちくりとした感触が走った。


「どうしたの?」


「なんか刺さった」


 首へ手をやる。

 指先で探ってみても、特に何かが刺さっている様子はない。


「蚊じゃない?」


「え、もういる?」


「いるでしょ。初夏だよ?」


「マジかよ。最悪」


「刺されやすいもんね、修也」


「梓が刺されなさすぎなんだよ」


「日頃の行いかな」


「じゃあ俺の行い悪すぎだろ」


 それだけだった。痛みが続くわけでも、血が出ているわけでもない。

 少し気になって首を擦ったものの、家に着く頃にはそんなことがあったことすら忘れていた。


◆


 ──暑い。


 最初に感じたのは、それだった。


「…………っ」


 意識が浮上する。


 暗い。

 寝室だ。

 隣では梓が眠っている。


 いつもの夜。

 いつもの部屋。

 なのに。


(……暑い)


 掛け布団を退けようと腕を動かす。


「っ……?」


 動かない。

 いや、違う。


(熱い)


 暑いんじゃない。

 熱い。

 身体の奥から、焼けるような熱が込み上げてくる。


「ぐ……っ」


 息を吸う。

 喉が熱い。

 いや、それどころか胸も、腹も、頭も。

 全身が、内側から火に炙られているようだった。


(なんだ、これ。火事……?)


 朦朧とする頭で、そんなことを考えた。


 部屋が燃えている。

 だから熱い。


 だったら逃げないと。

 梓を早く、起こさないと。


(あ、梓……!)


 呼ぼうとした。

 声が出ない。


「──っ」


 代わりに、喉の奥から空気が漏れるような音がした。


(梓)


(起きろ)


(火事だ)


 身体を起こそうとする。

 その瞬間。


(──あ?)


 何かが、おかしい。


 腕は?

 足は?

 身体は?


 どこだ。


(俺の身体、どこだ?)


 感覚がないわけではない。

 むしろ、ある。

 ありすぎる。


 腕を動かそうとしたはずなのに、ベッドの上で何かがのたうった。

 足を下ろそうとしたはずなのに、床へ何本もの何かが落ちる感覚がした。


(な……に……)


(……なんだよ、これ)


 熱い。


 あつ……い……。


 熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。


(あつい)


(あついあついあついあつい)


(なんで)


(なんでこんな)


 痛い。


 いや。


 熱い。


 もう、どちらなのかも分からない。


 身体の中に火を放たれたみたいだった。

 血が沸騰して、内臓まで焼け焦げていくような感覚がする。


 そんなはずがない。

 そんなはずがないのに。


(あつい)


 腕はどこだ。


(あつい)


 足は。


(あつい)


 身体が。


(あつい)


 俺が。


(あつい)


 溶けていく。


(あついあついあついあついあついあついあつい)


(たすけて)


 誰に。


(梓)


 そうだ。

 梓。


(起きろ)


(起きて)


(助けて)


 けれど、声が出ない。

 身体を動かそうとしても、もうどこをどう動かせばいいのか分からない。


 皮膚が。

 肉が。

 骨が。


 全部がぐずぐずに溶けて、混ざっていく。


 俺の形が、なくなっていく。


(いやだ)


(いやだ)


(いやだ)


(俺、溶けて──)


 そこで、意識が途切れた。


◆


「…………」


 気がついたとき、熱は消えていた。痛みもない。

 薄暗い寝室の中で、俺はしばらく動けずにいた。


(…………夢?)


 悪夢。そうであってほしかった。


 隣を見る。

 梓は規則正しい寝息で眠っている。


(よかった……)


 ほっとする。

 少なくとも、火事ではなかったらしい。


 俺は息を吐いて──


「…………」


 息?


(……あれ?息って、どうやるんだっけ)


 そもそも呼吸をしている感覚がない。なのに苦しくない。


(な……んで……)


 身体を起こそうとする。


 ずるり。


 何かがベッドから床へ落ちた。


(…………は?)


 腕をつこうとする。


 にゅるりと伸びた何かが、床へ触れた。


 触手。

 そうとしか呼べないものが、俺の身体から伸びていた。


(…………)


 理解したくなくて視線を逸らす。

 その先に、寝室の姿見があった。


 鏡の中に、何かがいる。


(…………は)


 鏡の中にいるのは、どう見ても人間ではなかった。


 輪郭を失った、不定形の身体。

 そこから何本も伸びる触手。

 人間だった頃の名残のように残された、二つの目。


 冒涜的なナニカ。


 そんな言葉が、これほど似合う存在を俺は知らない。

 そして、それが俺だった。


(はは…………なんだよコレ……)


『さあ、SAN値チェックのお時間です』


 そんな声が、聞こえた気がした。


 昔から好きだった、クトゥルフ神話TRPG。

 もしも探索者が、こんな存在を目の当たりにしたのなら、正気を保っていられるかダイスを振って確かめることになる。


(……俺も、振るのかな)


 馬鹿みたいなことを考えた。

 けれど、そうやって自分の知っているものに置き換えなければ、目の前の現実を理解できそうになかった。


 鏡の中のナニカが、俺を見る。

 俺も、そいつを見る。


 これは俺だ。

 どうしようもなく、途方もなく、俺なのだ。


 考えろ。

 どうすればいい。

 何が起きた。


 病気?

 そんなわけがない。


 夢?

 だったら早く覚めてくれ。


 俺は、どうしたらこの現実から逃れられる?


「……ん……」


 背後から、小さな声が聞こえた。


 鏡越しに見る。

 梓が、ベッドの上で身じろぎしていた。


(梓)


「……修也?」


 ゆっくりと瞼が開く。


 まずい。


「きゅ……!(梓、待って)」


 呼びかけたつもりだった。

 けれど、自分から出たのは、声とも呼べない訳の分からない音だけで。


「…………」


 梓と、目が合った。

 梓の目が、大きく見開かれる。


「…………っ」


『さあ、SAN値チェックのお時間です』


 また、そんな声が聞こえた気がした。


(……やめてくれ)


 今度は、少しも笑えなかった。


 梓は動かない。俺から目を逸らすこともできず、ただ固まっている。


「きゅ……(梓……)」


 返事はない。

 その顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。


(怖いよな)


 当たり前だ。

 俺だって怖い。

 鏡に映った自分を見ただけで、どうにかなりそうだった。

 いや、どうにかはなっている。


 それが突然、梓の目の前にいる。


「きゅう……(ごめん)」


 謝ったところで、伝わるはずもない。

 だが反射的にその言葉が出た。


 触手を一本、梓へ伸ばしかける。


 せめて、大丈夫だと。

 目の前にいるのは俺なんだと、伝えたくて。


 だが、その動きが引き金だった。


「──いやああああああああああっ!!」


「っ!」


 梓の叫び声が、寝室に響いた。

 伸ばしかけた触手を、咄嗟に引っ込める。


「いやっ、いや、なに、なにあれ……!」


「きゅう……!(待って、梓!)」


「来ないで!」


「…………」


 その声に俺の身体が止まった。


 梓はベッドの端まで後ずさる。けれど、それ以上は動けない。

 逃げることも、目を逸らすこともできず、ただ俺を見ている。


(……失敗)


 そんな言葉が、頭に浮かんだ。


 正気度ロールは、失敗。


 しばらく、そうしていた。


 俺がもう動かないと思ったのだろうか。

 膠着した時間が不意に動き出す。


「修也……」


「…………!」


「修也、どこ……?」


 梓の視線が、俺から外れた。


「修也ぁ……?」


「きゅう(梓)」


「どこいったの?」


 震える手で掛け布団を退ける。


「修也……修也……」


 俺を探している。

 目の前にいる俺ではなく、人間だった俺を。


「きゅう!(ここだよ!)」


「ひっ!修也っ!」


 梓がベッドから降りようとする。

 けれど、足に力が入らなかった。


「あ……っ」


 ずるりと身体が滑り落ちる。

 床に手をつき、そのまま座り込んだ。


「きゅう!(梓!)」


 出てきたのは、やっぱり訳の分からない音だけだった。

 梓は振り返らない。


「修也……どこ……?」


 立ち上がることもできないまま、床に手をつく。


 ぺたぺた。


 梓は這うように寝室の外へ向かっていく。


「修也……」


 呼びながら。

 何度も、俺の名前を呼びながら。


「きゅう……(ここにいるのに……)」


 俺も、その後を追った。


 ずるり。


 床を這う俺の身体から、湿った音がする。


 梓が這っていく。

 俺も、その後を這っていく。


 こんな状況じゃなければ、あまりにも間抜けな光景だった。

 いつもだったら、笑っていた。


 なんて格好してるんだって。

 何やってんだよって。


 梓と一緒に、笑いたかった。

 なのに。


(なんで)


 なんで、こんなことになってるんだ。


 梓はリビングまで辿り着くと、辺りを見回した。


「修也……?」


 当然、返事はない。


 俺はここにいる。

 すぐ後ろにいる。


「きゅう……(梓……)」


 どうすればいい。


 声をかけても伝わらない。

 近づけば、また怖がらせる。


 俺だと。

 ここにいると。


 どうすれば伝えられる。


 そのとき、冷蔵庫に掛けてある小さなホワイトボードが目に入った。


(……あ)


 触手を伸ばし、ホワイトボードの脇にぶら下がっていたペンを掴む。

 もう一本の触手でキャップを外そうとして、滑った。

 ころん、と床に落ちる。


「…………」


 拾い直し、もう一度試みる。

 今度は、外れた。


 震える触手で、ペン先をホワイトボードへ押しつける。

 書き慣れたはずの自分の名前が、がたがたとひどく歪んだ。


『修也』


 ボードを梓の視界に入るように、触手をさらに伸ばす。

 梓が、その文字を見る。


「……修也?」


「きゅう!(そう!)」


 思わず身体が大きく揺れた。

 梓がびくりと肩を震わせる。


「修也が……どうしたの?」


(名前に気づいた)


(それなら──)


 俺はもう一度ペンを握り、今書いた名前の上に文字を書き足した。


『俺が

  修也』


「…………」


 梓は何も言わず、その文字を見つめていた。

 やがて、ボードを持つ触手を辿るように、ゆっくりと俺を見る。


「…………」


 目が合う。


「……修也?」


「きゅう……(うん)」


「…………」


 梓の唇が、小さく震えた。


「修也……」


 もう一度。

 確かめるように、俺の名前を呼ぶ。


「きゅ!(うん!)」


「…………そっか」


 梓が笑った。

 いや、笑おうとしたのだろう。口元はひどく歪んでいた。


「そっかぁ……修也なんだ……」


「きゅう……(梓)」


 梓は俺を見る。


 二つの目を。

 何本もの触手を。

 輪郭を失った、この身体を。


「…………」


 また、ホワイトボードを見る。


『俺が

  修也』


 そこに書かれた文字を、じっと見つめる。


「修也……」


「きゅ(うん)」


「修也……」


「きゅう(うん)」


「…………」


 何度も。何度も。

 俺とボードを見返しながら、梓は名前を呼んだ。

 まるで、目の前にあるものと、その名前をどうにか結びつけようとしているみたいに。


「修也……」


「きゅう……(ここにいるよ)」


「……うん、いるね」


「…………」


「修也、ここにいるね」


「きゅう(うん)」


「よかった……」


 ぽろり。


 梓の目から、涙が落ちた。


「いなくなったのかと思った……」


「きゅ……(ごめん)」


「よかった……修也、ちゃんといる……」


「…………」


 その言葉に。

 ほんの少しだけ、俺も安心してしまった。


 怖がられた。

 叫ばれた。

 逃げられた。


 それでも、俺だと分かってくれた。

 この姿でも、俺が修也だと。


「…………」


 梓が、俺へ手を伸ばす。


「きゅ……(梓?)」


 震える指先が俺の身体へ近づき、あと少しのところで止まった。


「……ごめん」


「きゅ(いいよ)」


「ごめんね……」


「きゅう(大丈夫だから)」


 分かってる。

 無理をしなくていい。


 俺だって、まだ自分の身体を見るのが怖い。

 梓なら、なおさらだ。


 だから、時間があればいい。

 少しずつ慣れていけばいい。


 俺は、そう思った。


「…………」


 梓が手を引っ込める。

 膝を抱えるようにして、その場に座り込んだ。


「……どうしよう」


「きゅ?」


「明日……」


「…………」


「そう明日、映画……見る約束、してたよね」


「きゅ?(え?)」


「炭酸と、ポテチ……買わなきゃ」


 何を言っているんだ。


「何味がいいかな」


「…………」


「修也、コンソメ好きだもんね」


「きゅ……(梓?)」


「私、のり塩にしようかなぁ」


 梓は笑った。

 今度は、さっきよりも自然に。


「二つ買えばいいよね」


「…………」


 違う。

 今は、そんな話をしている場合じゃない。

 俺がこんな姿になって、梓はさっきまで叫んでいた。

 なのに。


「炭酸も買わないとね」


「きゅう……(梓、待ってよ……)」


「コーラでいい?」


「きゅ、きゅう……(そうじゃ、ないだろ……)」


 梓は、いつもと同じ顔で俺を見る。


「ね、修也」


 その目は俺を見ているはずなのに、俺を見ていなかった。


 SAN値チェックの声は聞こえない。

 必要なかった。

 結果なんて、見れば分かった。


◇◇◇


 あれから、どれくらい経っただろう。


 俺は変わった。

 こんなナニカになっておいて、変わっていないとは言えない。


 けれど、梓は変わらなかった。


 いや。

 変わらないようにしている、と言った方が正しいのかもしれない。


「きゅう……(あったけぇ……)」


 窓側の壁にもたれながら、俺は身体をだらりと床へ広げた。


 今日もよく晴れているらしい。

 窓には厚手のカーテンが掛かっていて、梓は俺がこうなってから一度もそれを開けようとしない。

 だから俺は、陽に温められた壁から伝わってくる熱で、外が晴れていることを知る。

 この姿を誰かに見られたらどうなるか分からない以上、その方が都合はいい。俺も好き好んで外へ出たいとは思わなかった。


 俺はあの夜から、仕方なくこの身体に適応していった。

 触手で物を掴み、文字を書く。以前とはずいぶん違うが、食事だってできる。今ではどれも当たり前になった。


 元に戻る方法は、今も分からない。

 そもそも、どうしてこんな姿になったのかすら分かっていない。


「…………」


 二つの目を身体の表面に滑らせながら、部屋の中を眺める。

 ふと、棚の上に置かれた写真立てが目に入った。


 初夏に二人で旅行したときの写真だ。

 青紅葉と滝を背景に、俺と梓が並んで撮った。


 ただ、今は俺が写っていた部分だけが、真っ黒に塗り潰されている。

 いつからこうなっていたのかは分からない。気づいたときには、人間だった頃の俺は写真から消えていた。


 梓に理由を聞いたことはない。

 聞かなくても、なんとなく分かる。


 梓は今でも旅行へ行こうと言う。以前と同じように俺にもたれかかって眠るし、一緒に安いプリンを食べて、うまいうまいと笑う。


 あの夜のことなんてなかったように。

 俺が今も人間の姿をしているかのように。


「…………」


 俺は、黒く塗り潰された写真から目を逸らした。


(ああ、それでいいんだ)


 見せたくないものに蓋をして、見たくないものは塗りつぶして。

 それで梓が幸せなら、それでいい。

 俺がこの姿になっても、梓は俺のそばにいる。今だって名前を呼んで、当たり前のように俺へ触れてくれる。

 それだけで十分だ。


「修也ー」


「きゅ?(ん?)」


 リビングから梓の声が聞こえる。


「プリン食べよー」


「きゅ!(食べる!)」


 身体を起こし、梓のいる方へ向かう。


 ずるりと床を這う音がする。


 最初は、この音を聞くだけでも嫌だった。

 今ではもう、何も思わない。


 人間だった頃とは、何もかもが違う。

 それでも梓が俺を修也と呼んでくれるのなら。


 俺は、それでいい。

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