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とんでもなく上手に悪役令嬢を演じられます(と、信じて疑わない私の末路)

作者: 錆猫てん
掲載日:2026/02/09

 辺境という場所は、風が強い。

 強い風は髪を乱すけれど、そのぶん、いろいろな音も運んでくる。馬のいななき、訓練所の掛け声、鍛冶場の金属音。私の世界は、そういう「生きる音」でできていた。


 その代わり、きらきらした娯楽は少ない。

 だから私は本を読んだ。雪の日も、雨の日も、風が窓を叩く日も。物語は、どこへでも連れて行ってくれるから。


 そして、私が一番のめり込んだのは、魔獣も世界をめぐる船も出てこない物語。

 恋愛小説。その中でも――悪役令嬢が出てくる物語。


 悪役令嬢という存在は、たいへん優美で、たいへん不憫で、たいへん気高い。

 美しいドレスをまとい、洗練された言葉を操り、ときに高慢に、ときに冷酷に振る舞う。

 そして最後、華々しく断罪される。


 格好いい。

 あまりにも格好いい。


 何が格好いいって、物語を動かす力があることだ。

 ヒロインが泣いても、王子が迷っても、悪役令嬢が立ち上がれば物語は転がる。

 あの存在感。あの覚悟。あの潔さ。


 ……辺境伯令嬢として、ぬくぬく守られて育った私には、眩しすぎるほどに。


 そして、そういう辺境を治めているのが――父だ。

 父――ローマン・ガルフィードは、国防を預かる辺境伯である。

 厳つい。強い。怖い。

 ただし、娘にだけは甘い。これは世間がどう言おうと事実だ。


 そんな環境で育ったせいか、私は王都の「きらきら」に少しだけ疎い。

 流行のドレスも、話題のお菓子も、噂の香水も、辺境に届くころには旬を少し過ぎている。けれど恋愛小説だけは、なぜかちゃんと届く。


 ――私の憧れを育てるには、十分すぎるほどに。


***


 私は王立アカデミー入学を控えていた。

 王都のアカデミーで学び、社交を身につけ、将来に備える。そういうコースは昔からある。父は渋い顔をしていたが、国防を担う家として断腸の思いで王都に送り出してくれた。


 王都は眩しい。なのに、空気が薄く感じる。

 もちろん実際に薄いわけではない。辺境の空気が濃いのだ。王都の空気は香りが混ざり合って曖昧で、私は少しだけ心細くなる。


 そして、入学して早々に知ってしまった事実がある。


 王太子クライド・グリトニル殿下には、婚約者がいない。

 婚約者候補すら、いない。


 それは、想像以上の衝撃だった。


 王太子が婚約者を持たないということは、王家の継承が不安定になり、貴族たちの思惑が渦巻き、国の未来が揺らぐということだ。辺境伯の娘として、その意味はよく分かる。


 なのに、いない。

 誰もいない。


 私は悩んだ。悩みすぎて、一、二か月、恋愛小説を読む手が止まった。止まった結果、悪役令嬢ノートだけが分厚くなった。原因分析ページまで作った。


 そして、ある日の夜。

 私は閃いた。


 殿下に婚約者がいないのは――悪役令嬢がいないからだ。


 悪役令嬢がいなければ、ヒロインとの運命の出会いは起こらない。

 真実の愛が試されない。

 恋は燃え上がらない。

 結果、王太子はずっと独り身。


 つまり、悪役令嬢不在は国家的危機。


 ……え、私、天才では?


***


 そのころ、生徒会室では別の意味でざわついていた。


「殿下、入学者名簿の確認はお済みですか」


 書記のヴィオラ・クロイツ伯爵令嬢がさらりと言う。

 ペン先が一度も迷わないのが怖い。


「済んでいる」


 生徒会長、クライド殿下は涼しい顔で答える。

 涼しい顔で、答えているだけ。


 庶務のノア・フェルナー子爵令息は書類を抱えたまま、心の中でため息をついていた。

 殿下の「涼しい顔」が、いま何を意味するのか。彼もヴィオラも知っている。


 殿下の幼少期の初恋の相手が、アカデミーに入学してきた。

 辺境伯令嬢――アリシア・ガルフィード。


 殿下は、その名前を声に出すことすら慎重だった。


 過去、王家が辺境伯へ熱心に縁談の打診をしたことがある。だが辺境伯は「愛娘の気持ちが第一である」として、王家の介入を強く牽制した。

 つまり、嫌われたらチャンスはない。

 だから殿下は取り決めを守り、守りすぎて――


 結局、何もできずに悶えていた。


 近づきたい。

 でも近づけない。

 話しかけたい。

 でも拒絶されたら。


 ……耐えられない。


 それが、殿下の数か月だった。


***


 ある日、私は生徒会室の扉を勢いよく開く。


「失礼いたします」


 室内の視線が、一斉に私に向けられる。


「今年入学いたしました、アリシア・ガルフィードです」


 中央に座るクライド殿下。

 隣にヴィオラ様。

 書類の山の向こうにノア様。


「生徒会長……いえ、王太子殿下!」


 よし。

 ここで言う。

 悪役令嬢宣言を。


 胸を張り、扇を閉じ、その先でびしっと指す。


「殿下に婚約者がいないのは、このアカデミーに悪役令嬢がいないからです!」


 ……静寂。


 私はここぞとばかりに畳みかける。


「悪役令嬢がいなければ、運命の出会いが生まれません! 真実の愛が育ちません! 結果として婚約者が決まらず――そして、ひいては国家的危機です!」


 言い切った瞬間、殿下が一瞬だけ目を見開いた。

 そして、信じられないほど冷静に殿下が口を開く。


「……君は、とても熱心だね」


「当然です!」


「ならば、どうするつもりか聞いても?」


「私が悪役令嬢となり、殿下に運命の出会いを必ず!」


「なるほど。では一つ確認しよう。君の言う悪役令嬢は、どの立場だい?」


「殿下の恋路を邪魔する立場です!」


「だよね」


 殿下は、すっと頷いた。


「そうなると、アリシア。君はとりあえずでも私の婚約者にならないと、悪役令嬢っぽくならないのでは?」


「……ッ!」


 頭の中で、大事な悪役令嬢ノートが轟音を立ててめくれた。


 そうだ。

 断罪される悪役令嬢は、だいたい婚約者だ。

 婚約者がヒロインの恋路を邪魔するから、断罪が成立する。


「何も関係ない私では、ただの……」


 言い切れなかった。――私は青ざめた。

 確かに。婚約者でもないのに邪魔をしたら、それはただの嫌がらせだ。


「そうなるね。どうするんだい?」


「ど、どうするって……」


 殿下は淡々と続ける。


「仮にでも婚約者となるなら、家同士にも話を通さないといけない。形式だけ、というわけにはいかないよ」


 形式。家同士。

 それはつまり、父。ローマン・ガルフィード。


 私は一瞬、父の顔を思い出し、少し身震いする。


 でも。


 国の未来のためだ。

 悪役令嬢は揺るがない。


「……大丈夫です!」


 私は拳を握りしめた。


「やります、やれます、やってみせます!」


 その瞬間。


 書記席のヴィオラ様が、ペンを持ったまま肩を震わせた。

 ノア様が咳払いをして、書類で顔を隠した。


 二人が笑いを堪えていることに、私は気づかない。

 だって私は国家的危機を救いにきているのだから。


 一方、クライド殿下の胸中では、たいへんな騒ぎが起きていた。


 渡りに船。

 婚約の事実を、いまここに。

 しかも本人が突撃してきた。

 これはもう、運命だ。


 顔に出さず、声も揺らさず、殿下は「仮初め」という言葉を巧みに使い、話を整えた。

 私の頭の中では「仮初め=破棄前提」と変換され、完全に安心していた。


 ――こうして、仮初めの婚約者候補が決まった。


***


 殿下より「家同士にも話を通さないとね」と念を押されたので、不承不承、婚約の件について父へ手紙をしたためた。


 辺境から王都までどんなに急いでも馬車で二週間ほど。それまでに何とか良い言い訳を考えなければならないと考えていた。


 ――そう、考えていたのだ。だが私は、父のことを完全に見誤っていた。


 父は継ぎ馬を湯水のごとく使い、三日三晩、夜通しの早駆けで王都のタウンハウスへ乗り込んできた。


 体力と財力、執念で距離を縮めるのが、辺境伯の本気である。


 呼び出された私は、心臓が口から飛び出しそうになりながら殿下と応接室へ向かう。

 父は腕を組み、目だけで部屋を凍らせていた。


「アリシア」


「お父さま……」


「……説明しろ」


 怒鳴らないのが、本当に怖い。


 私の隣に立つクライド殿下が、静かに一歩前に出る。


「ローマン卿。突然のことで驚かせたこと、まず詫びたい」


「詫びはいい」


 父の声は低い。


「聞きたいのは一つだ。王家は、娘の意思が第一だと言った私の言葉を忘れたのか」


「忘れておりません」


 クライド殿下は即答した。

 その声に迷いがない。


「だからこそ、アリシア嬢の意思を確認し、彼女の提案を受け入れた。私は彼女に、強制していない」


 私は横で、しどろもどろしながらも合わせる。


 父は殿下をじっと見つめた。

 辺境伯の眼差しは、相手の嘘を剥がす。


 ……と聞いたことがある。


 私は父の前で嘘をついたことがないので実感はない。


「経緯を話せ」


 クライド殿下は、幼少期の話をした。

 婚約者選定の場で一目惚れしたこと。

 その後、会えた回数が少なかったこと。

 そして、アカデミーで再会したこと。


 私は隣で、ドキドキしながら聞いた。

 え、そんなに……?

 という気持ちと、いやこれは打ち合わせ済みだから、という気持ちがせめぎ合う。


 打ち合わせは確かにした。

 私が悪役令嬢を演じるための仮初め婚約だと説明するのは危険だと殿下が言うので、「お互い一目惚れ」という形に整えた。


 ただ、殿下の口から出る言葉はやけに真剣で、やけに具体的で、やけに熱があった。


 ……仮初めなのに。


 父は黙って聞き、最後に私へ視線を向けた。


「アリシア。お前は、それでいいのか」


 私は息を呑んだ。


 嫌ではない。殿下は優しい。丁寧。理知的。国の未来。

 でもそれは、婚約者として好きという意味では――。


「い、いいえ。嫌では……ありません」


 言った瞬間、自分の声が震えた。

 父の眉がわずかに動く。


 クライド殿下が、静かに言った。


「ローマン卿。私は彼女を、仮の存在として扱うつもりはない」


 私は心の中で叫んだ。

 え? 仮ですよ? 仮初めですよ?


 父はしばらく沈黙し、深く息を吐いた。


「……いいだろう」


 心臓が跳ねた。


「ただし」


 父は条件を突きつけた。


「王太子の卒業までは婚約者候補に留める。卒業後も気持ちが続くなら婚約。結婚は、アリシアが卒業してからだ」


 殿下は一礼した。


「承知しました」


 父は殿下を睨み、最後に低く言った。


「娘を泣かせるな」


「誓います」


 ……誓う?

 仮初めなのに誓う?

 私は混乱しながら、父に頭を下げた。


***


 お父さまとの顔合わせも、無事……だったと思う。たぶん。

 その直後、殿下からお茶会のお誘いがあった。


 殿下と二人だけのお茶会。


 私は上品に座り、悪役令嬢らしく薄く笑い、紅茶に口をつけようと――したところで。


「こっち」


 殿下が当然のように私を抱えて、膝の上へ座らせた。


「……で、殿下?」


「うん?」


「距離感が……!」


 私は慌てた。

 悪役令嬢は距離を詰めるものだ。詰められるものではない。


 殿下は涼しい顔で言った。


「王都――というより、王族のお茶会なら普通だよ」


「えっ」


「そんなことより」


 殿下は私の頬を見て、微笑んだ。


「アリシアはかわいいね。子リスみたいだ」


 私は言葉を失った。

 そのまま殿下は、お菓子を一つ、私の口元へ運ぶ。


「ほら」


「……え、ええと……」


 私は抵抗しようとして、なぜかできなかった。

 甘い香りがして、殿下が楽しそうで、そして何より――膝の上という状況が、混乱を加速させる。


「殿下、これは悪役令嬢の役作りですか?」


「もちろん」


 殿下は穏やかに頷いた。


「婚約者に執着する悪役令嬢が、私のことを好きでないと、説得力がないだろう?」


「……ぐっ」


 正論。

 私は反論できない。


「それとも、なんとなくの演技で、真実の愛を教えてくれるヒロインと対等になれるのかな」


「……むぐっ」


 さらに正論。

 私は屈した。


「……分かりました。頂きます……ですわ」


「いい子だね」


 殿下の声が甘すぎて、私は危うく悪役令嬢の仮面を忘れるところだった。


***


 翌月、今度は王家との顔合わせが設定された。


 仮初めの婚約者候補に、国王夫妻との顔合わせ。

 必要なのか。必要なのか。必要なのか。


 私はその疑問を三回心の中で唱えたが、クライド殿下は穏やかに言った。


「必要だよ」


「どうしてですの」


「私がそうしたいから」


 その言い方がずるい。

 王太子が「そうしたい」と言えば、国の未来みたいな重みが乗ってしまうではないか。


 王城の応接間は静かだった。

 豪奢な調度品。視線の圧。空気の格。


 国王オルム・グリトニル陛下は、噂通り、威厳と余裕を同居させた人だった。

 王妃は柔らかな笑みを浮かべている。


 私は最上級に礼儀正しく挨拶した。

 悪役令嬢を意識した所作。

 顎を上げすぎない。背筋を伸ばす。笑みは薄く。視線は逸らさず、しかし睨まない。


 王妃は私の所作を見て、目を輝かせた。


「まあ、可愛らしい方ね」


 可愛らしい。

 悪役令嬢、ですのに。


 王妃は嬉しそうに私を見て、次々に質問を投げる。辺境の生活のこと、好きな本のこと、アカデミー生活のこと。

 私は答えながら、悪役令嬢としての高慢さを混ぜようとするのに、王妃が笑うたび私の高慢さが溶ける。


 陛下は、ちらりと息子を見る。

 その視線が「ようやくだな」と言っている気がした。


(仮初めの婚約者候補で……ごめんなさい)


 王妃はすっかり気に入ってしまい、私の手を取ろうとする。

 その瞬間、殿下が一歩前へ出た。


「母上」


「なにかしら、クライド」


「彼女は、ボクのものです」


 空気が止まった。


 王妃が瞬きをし、陛下が咳払いをし、私は心の中で転げ落ちた。


 殿下の……もの?


 王妃は次の瞬間、くすっと笑った。


「そう。なら大事にしなさい」


 国王陛下は、どこか楽しそうに紅茶を飲んでいた。

 多分、父の顔を思い浮かべている。


 顔合わせの後、殿下の部屋で短い歓談。


「大丈夫だった?」


「……大丈夫です」


 嘘ではない。私は一応、致命的な失言をしていない。たぶん。


「よかった」


 殿下はそう言って、少しだけ目を細めた。

 その優しい目が、胸の奥を妙にくすぐる。


 空気が甘い。甘すぎる。


 次は市街へ買い物に行く約束まで取り付けられ、私は王城を後にした。


 私は帰宅後、顔を赤らめたまま脳内悪役令嬢反省会議を開き、結論が出ないまま、深い眠りに落ちた。


***


 週末、市街へ買い物に出た。

 市街デート――などと言ったら、私は殿下に叱られるだろうか。


 殿下が「悪役令嬢には相応しい装いも重要」と言うので、大いに納得してしまった。私が悪役令嬢に相応しいドレスを一着も持っていないのは事実だし、辺境では実用性が勝つ。露出少なめで暖かく動きやすいのが正義だ。


 ブティックに入った瞬間、私は心が踊った。

 布が光っている。刺繍が歌っている。宝石が笑っている。

 王都のドレスとはこういうものか。


 私は迷わず、深紅の露出が多いドレスの前に立った。

 胸元も背中も大胆で、見た瞬間「悪役令嬢」と書いてある。

 断罪が似合う。むしろ断罪してくださいと言っている。


「これですね!」


「……だめだ」


 殿下が即答した。


 振り向くと、殿下の顔が真っ赤だった。

 耳まで赤い。なぜ。


「どうしてですか!? とても悪役令嬢らしいのに!」


「……君には別のが似合う」


 殿下はそう言い、少し落ち着いた色味のドレスを指した。露出は控えめ。けれど線が美しく、どこか大人びて見える。


 私は試着室で着替え、鏡の前に立つ。

 店員が褒める。

 殿下が息を呑む。

 その反応で分かってしまった。


 似合っているのだろう。


 でも私は、恨めしげに殿下を見た。


「あっちの方が悪役令嬢っぽいのに」


 殿下は視線を逸らしながら、ぼそっと言った。


「……あれを着た君を、他の男に見せたくない」


「はい?」


 心臓が一拍、遅れた。


「何でもない。こっちでいい」


 私は理解できなかった。

 悪役令嬢の役作りのためなのに、なぜ他の男が出てくるのだ。


 結局、私は似合うドレスを買ってもらい、甘味屋で一緒に菓子を食べた。

 殿下はいつもより少しだけ表情が柔らかく、私はいつもより少しだけ笑っていた。


「楽しいですね」


「ああ」


 なんだかんだ、楽しかった。


 この時間が、ずっと続けばいいのに。

 そんなことを思ってしまって、私は慌てて頭を振った。


 悪役令嬢は、そういうことを思ってはいけない。

 いけない、のに。


 胸の奥が少しだけ、ちくりとした。


***


 数か月が過ぎ、卒業が近づくころ。

 アカデミーに噂が流れ始めた。


 王太子殿下に、アリシアではない女性の影。

 廊下で、誰かと話していた。

 放課後、姿が見えない日が続いた。

 王太子の周囲が、妙にそわそわしている。


 噂が立つ。囁かれる。ざわめく。


 ――ついに、運命の出会い。


 真実の愛を育める、真のヒロインが登場したのだ。


 私は胸を弾ませた。

 これで悪役令嬢として完璧に立ち回り、殿下の真なる婚約者ができる。

 国の未来が安定する。父にも説明ができる。


 なのに。


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 こんなの、小説には書いてなかった。


 私はその痛みに蓋をした。

 そんなことより、お父さまになんて謝ろう。

 きっと殿下が説明してくれるはず。

 殿下は優しいから。

 そのためには、悪役令嬢の役目を果たさなくては。


 私はヒロインと思わしき人物を探した。

 文房具を隠し、「この泥棒ねこちゃん!」と罵り、恋路を邪魔し、断罪される――予定だった。


 だが。


 ヒロインに、まったく出会えない。


 話では、ちゃんとアカデミーにはいるらしい。

 噂では、殿下が私と彼女が出会わないように動いているらしい。


 胸が、ちくちくする。

 卒業が近づくほど、その痛みは増していった。


***


 卒業パーティー当日。


 私は手紙を受け取った。

 クライド殿下から。


 当日はエスコートできない。

 一人で入場してほしい。


 ――ついに断罪ですね。


 悪役令嬢が最後に一人で入場し、皆の前で断罪される。

 そういう場面は、何度も読んだ。

 これはその流れだ。


 ぽとり、と手紙に涙が落ちた。


 あれ。

 あれ?

 どうしちゃったんだろう。


 私は慌てて目を擦った。

 違う。

 泣くところではない。

 悪役令嬢は、断罪を誇りに思う。


 国の未来、クライド殿下の未来のために。


 父への謝罪はあとで。ちゃんとする。

 だから――。


「しっかりしろ、私」


 声に出して自分を叱咤し、私は会場へ向かった。


 卒業パーティー。最後の入場はひとり。

 会場の扉が重々しく開く。


 光が溢れる。

 視線が刺さる。


 私は一歩踏み出し――目の前には、クライド殿下。

 その隣に立つ、見知らぬ令嬢。


 淡い色のドレス。高貴な立ち姿。余裕の笑み。

 王太子の運命の相手。


 その瞬間、蓋をしていたものが、胸の奥から溢れ出した。


 ああ。


 私は恋をしていたんだ。


 あの痛みは、私の心の痛みだったんだ。


 一歩進む。


 足が震える。


 でも止まらない。


 悪役令嬢だから。


 最後まで演じる。


「辺境伯令嬢!」


 殿下が言う。


「皆! よく聞いてほしい!」


 殿下の声が会場に響く。

 私は、背筋を伸ばした。


「この私、王太子クライド・グリトニルは、本日をもって、婚約者候補である辺境伯令嬢アリシア・ガルフィードを――」


 来た。

 断罪の言葉が。


 さようなら、私の淡い恋心。

 お父さま、裏切ってごめんなさい。

 後でちゃんと謝ります。


「正式に婚約者として迎えることを宣言する!」


「……え?」


 え?

 え?

 何?

 なんて?


 会場が湧く。

 祝福の拍手。

 私は脳内が真っ白で、拍手が遠い。


「そして!」


 殿下は隣の令嬢を示す。


「ルーナシア市国、第二皇女ソフィア・ルーナシアに、正式な手続きに則り、見届け人として立ち会ってもらう!」


 ソフィア様がにこりと微笑んだ。


「かわいらしいご令嬢じゃないか。クライドには勿体ない。ボクが連れ帰っちゃおうかな。まだ婚約なんでしょ?」


 殿下の視線が鋭く光る。

 会場の空気が一瞬で凍る。

 私は初めて、「王太子の殺気」というものを実感した。


「あはは、ごめんごめん。冗談だって。揶揄い甲斐があるなあ」


「……」


 殿下が低い声で言う。


「君はすぐちょっかいを出すから、本当に会わせたくなかった」


「でも見届け人は必要でしょ。取り決めだし」


「……まあ、そうなのだが」


「それに、普段の様子も見ないとだめじゃない? 国同士って堅いからさ」


 その会話の意味の半分も分からず、私はただ、きょとんと立ち尽くしていた。

 断罪は、どこにもなかった。

 ヒロインも、存在しなかった。


 あるのは、祝福と、私が選ばれたという現実だけ。


 その後、私は人波から離され、気づけば静かな廊下にいた。

 クライド殿下が私の前に立っている。


「……大丈夫?」


 私はやっと声を取り戻した。


「殿下……あの……」


「駄目だった⋯⋯かな?」


「……仮初めでは……」


 言いかけて、言葉が詰まった。

 殿下の目が、真剣すぎるほど真剣だったから。


 私は震える声で言った。


「……悪役令嬢……失格ですね」


 殿下は首を振る。


「いや。君は立派な悪役令嬢だよ」


「……え」


「幼い頃から今の今まで」


 殿下は小さく笑った。

 その笑顔は、辺境の風よりも温かい。


「ボクの心を乱し、奪い続けている」


 胸が熱くなる。

 ちくちくが消えていく。


「必ず幸せにする」


 殿下は私の手を取り、指先に触れるように握る。


「ローマン卿との約定もある。君の卒業と同時に、結婚しよう」


 涙が、ぼろぼろ溢れた。


「違う、違うの……」


「何が違うの?」


「すごく嬉しいのに……涙が……」


 殿下は困ったように笑い、私の背にそっと手を回した。


「泣いていい」


 低くて優しい声。


「悪役令嬢が幸せになる物語があってもいいじゃないか」


 その言葉で、私はようやく理解した。


 私は悪役令嬢を演じていたのではない。

 私はただ、恋をしていたのだ。


 役作りだと誤魔化して、仮初めだと信じて、国の未来だと言い聞かせて。

 そうしないと、怖かったのだ。自分の気持ちを認めるのが。


 私は、涙に濡れたまま頷いた。


 それはきっと、悪役令嬢らしくない、情けない返事だった。

 でも、殿下は一瞬だけ目を細め、嬉しそうに息を吐いた。


「ありがとう、アリシア」


 その声に、胸がまたちくりとした。

 今度のちくりは、痛みではない。


 廊下の曲がり角から、くすくすという笑い声が聞こえた。


「いやあ、うまくいったね」


 ソフィア様の声だ。


「殿下、顔が完全に緩んでますよ」


 これはヴィオラ様。


「これでやっと、殿下の人生が動きましたね」


 ノア様の声もする。

 私は顔を真っ赤にした。聞かれている。


「覗くな」


 殿下が低い声で言うと、三人は一斉に足音を遠ざけた。

 逃げるのが速い。王都の貴族は逃げ足まで洗練されている。


 私は恥ずかしくて笑いそうになり、でも泣いているので、変な顔になった。


「殿下……皆さま……」


「放っておこう」


 殿下は言って、私の額にそっと額を寄せた。


「君が望んだ通り、物語は動いた」


「……私が望んだのは……殿下の真実の愛、だったんです」


「そうだね」


 殿下は笑う。


「だから、君は成功した」


 成功。

 悪役令嬢としては失敗なのに。

 でも、恋としては――。


 私は息を吸い、細い声で言った。


「……私、悪役令嬢の演技は、まだまだ未熟でした」


「うん」


「だから……殿下の婚約者として、もっと……上手に……」


 言い切れなかった。

 恥ずかしすぎる。


 殿下は私の手を握り直し、当たり前のように言った。


「一緒に練習しよう」


 その言葉が、どこまでも甘くて、私はまた涙をこぼしてしまった。


 悪役令嬢は断罪されなかった。

 代わりに、溺愛された。


 辺境の風は強い。

 でも、王都の春も悪くない。

 だってここには、私の恋があるのだから。


***


 帰宅後、私はベッドに潜り込み、顔を覆った。


 ――脳内悪役令嬢反省会議、開催。


 結論。


 悪役令嬢は難しい。でも、恋はもっと難しい。


 それでも、私は明日からも頑張る。

 婚約者として。

 そして、たぶん一生かけて。


 だって私は、世界で一番とんでもなく……


 悪役令嬢を演じるのが下手だったのだから。


 でも――。


 そのせいで、世界で一番幸せになったみたい。


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