アヘン売りの正吉
正吉は、江戸の裏通りでは知らぬ者のない悪党だった。
髪は脂でべったりと固まり、いつも酒臭い息を吐いて歩く。
両親は二人揃って酒浸り。幼い頃からまともな飯より安酒の匂いを嗅いで育った。
成長しても変わらぬ生活。正吉もまた、酒と博打を糧とし、テキ屋や博打打ちで日銭を稼いでは呑み潰れる毎日だった。
しかし、腕も頭も鈍い正吉は、やがて稼ぎ口を失った。そんな時に手を出したのが、アヘンの密売だった。
裏長屋の一角、畳に散らばる小さな紙包み。咳き込む客に笑いながら手渡す姿は、もはや人の道を外れて久しい。
江戸の町を毒で蝕む正吉──鉄斎が目をつけぬはずもなかった。
ある晩、鉄斎は廃れた寺に足を運んだ。夜の闇に沈む古い堂内は、今や博打場と化している。
薄暗い灯りの下、賽の音が響き、男たちの声が飛び交う。
その中に、膝を投げ出し、大笑いする正吉の姿があった。
「……正吉」
低く呼びかけると、正吉は肩を跳ねさせ、振り返った。その顔に浮かんだのは驚きと怯え。
「て、鉄斎……っ!」
次の瞬間、正吉は立ち上がり、足元の賽銭を蹴飛ばすようにして裏口へと走った。
鉄斎は今まさに勝っていた勝ち分を換金もせず、迷わず後を追った。
「逃げるってことは、覚悟があるんだな」
夜の町を抜け、路地を曲がり、橋を渡る。
正吉は何度も振り返りながら、必死で逃げた。
その足取りは重く、息も荒い。酒とアヘンに蝕まれた体は、昔のようには動かないのだ。
隣町に差し掛かった時、正吉はとうとう立ち止まった。
「……もう、逃げねぇ。好きにしやがれ」
そう呟き、肩を落とす。鉄斎はゆっくりと距離を詰め、縄を取り出した。
だが、次の瞬間、正吉は懐から短刀を抜き放ち、獣のような目で飛びかかってきた。
「死ねぇっ!」
鋭い光が夜気を裂く。
鉄斎は半歩引き、刀を抜きざまに右腕へ一閃を浴びせた。
甲高い悲鳴と共に、正吉の右手が宙を舞い、地面に落ちた。短刀は草むらに転がり、血が土を黒く染めていく。
「もう、終いだ……」
正吉は膝をつき、うずくまったまま動かない。
鉄斎は縄で正吉を縛り上げ、奉行所へ引き渡した。
奉行所の役人たちは、血まみれの正吉を見るなり顔をしかめた。
「また厄介なのを捕まえたな、鉄斎」
「こいつはただの博打打ちじゃねぇ。町に毒を撒く奴だ」
机の上に置かれた証拠の紙包みが、ぴんと張り詰めた空気をさらに重くする。
裁きは早かった。アヘン密売と殺意を持った襲撃。加えて過去の博打絡みの傷害事件もすべて洗い出され、情け容赦ない判決が下された。
正吉の末路は、市中引き回しの上、打首獄門。
その首は橋の袂に晒され、しばらくの間、子供たちの間で恐れと共に囁かれ続けた。
鉄斎はその日、いつもの酒屋で黙って酒を呑んだ。
杯を置くと、勝ち分を置き去りにした賭場のことがふと頭をよぎった。
──損はしたが、毒を一つ潰した。
そう自分に言い聞かせ、次の獲物に思いを巡らせるのだった。