獣は獣を追いたい。
岡崎藩中老の長男――その素性が奉行所内に知れ渡ってから、空気は一変した。
同心や与力たちの表情は表向き変わらぬようでいて、会話の裏には明確な色が混じり始める。
協力派と邪魔派。
火付盗賊改方と共に鉄斎の働きを間近で見てきた者たちは、「あの腕と胆力なら危険な仕事は全部任せたい」と考えた。町人からすれば危険な悪党を捕らえてくれるなら誰がやっても構わない。だが奉行所内部での思惑はもっと濁っている。
「鉄斎に危険な役を押し付ければ、こちらは被害を減らせる。成功すれば町は安全、失敗して死んでも身分持ちなら我らの責任は薄い」――そんな打算が透けて見えた。
一方で邪魔派は別の腹積もりを持っていた。
「高額の賞金首を安全に捕らえさせ、恩を売る」
岡崎藩は旗本の中でも発言力を持つ家柄だ。そこへ「奉行所があなたの嫡子に手柄を与えました」という形を作れば、藩からの借りを作れる。だから彼らはわざと危険度の低い、しかし賞金額の高い任務ばかり鉄斎に回す。
ある日、与力頭の部屋で顔を突き合わせた両派のやりとりは、まるで将棋の駒をぶつけ合うようだった。
「次の捕物は南本所での押し込み一味だ。奴らは血の雨を降らす連中だ。鉄斎殿、あんたが行くべきだろう」協力派の山崎が声を上げる。
「いや、その前に日本橋の商家から逃げた詐欺師を捕らえてもらおう。身分を持つ方には血生臭い場所よりも、こういう仕事がふさわしい」邪魔派の堀川が冷ややかに返す。
鉄斎は二人のやりとりを一通り聞き、煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
「……俺は自分で行き先を決める」
その声音には一切の揺らぎがなかった。
翌日、鉄斎は邪魔派が回してきた「高額だが安全」な仕事を無視し、南本所の押し込み一味を追う協力派の捜査に加わった。
奉行所の中にはあからさまに不快そうな顔をする者もいたが、鉄斎は意に介さなかった。
危険な場所に足を踏み入れるとき、体が熱を帯びる。
己の中に棲む獣が「行け」と背中を押す――その感覚が、鉄斎にとっては生きている証だった。
その夜、南本所の裏長屋で一味の残党を捕らえた帰り道、山崎が口を開いた。
「お前、奉行所の空気、だいぶ悪くなってるぞ。堀川の奴なんざ、今日もお前の悪口ばかりだった」
「放っておけ。あいつらの顔色を見てたら、悪人が逃げちまう」鉄斎は歩きながら淡々と答える。
山崎は苦笑し、懐から一枚の紙を取り出した。
「そう言うと思ってな……お前、これを見ろ」
それは新しい手配書だった。
名は――隼雄。年齢不詳、身長は中背。出自は定かではないが、伊賀か甲賀の忍びの末裔と噂される。
目撃証言によれば、常に複数の武器を所持し、投げ槍や鎖鎌、短弓までも扱う。夜陰に紛れての暗殺を得意とし、狙った相手は必ず息絶えるまで追い詰めるという。
「……元忍び、か」鉄斎は紙を見つめながら呟いた。
「しかも並外れた体術持ちだ。俺たちの同心の一人が首を折られて殺られた。手際は一瞬……」山崎の声が低くなる。
紙の隅には「極めて危険、発見次第捕縛せよ」と赤文字が走っていた。
鉄斎はその文言を見て、口の端をわずかに上げた。
「……面白い」
山崎は眉をひそめる。
「お前、笑ってる場合か? こいつは下手すりゃ夜道で背中からやられるぞ」
「だからこそ、俺が行く」
その決意に迷いはなかった。奉行所の誰が何を言おうと、危険な相手を放置すれば必ず誰かが殺される。それを放ってはおけない。
鉄斎はその夜、家に戻ると短刀の手入れをし、使い慣れた刀の刃をわずかに研ぎ直した。
幼い頃から剣術も相撲も柔術も「野蛮だ」と蔑まれた。だが、今やその野蛮こそが己を生かし、人を救う力になっている。
――獣であることを恥じる必要はない。必要なのは、獣を正しい方向に走らせることだ。
翌朝、奉行所の帳場で堀川が声を上げた。
「鉄斎殿、こちらの仕事を優先していただきたい。商家から金を騙し取った浪人者で、賞金は百両。危険は少ない」
鉄斎は手配書を机に置き、淡々と返す。
「悪いが、隼雄を追う」
堀川の顔が一瞬引き攣った。
「……あれは危険すぎる。万一のことがあれば、岡崎藩にも奉行所にも――」
「万一を恐れて悪人を野放しにする方が、よほどの恥だ」
その言葉に堀川は何も言い返せなかった。
こうして鉄斎は、協力派数名を伴い、元忍びと噂される隼雄の足跡を追うことになる。
夜の江戸に、再び血の匂いが漂い始めていた。




