表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/68

岡崎藩の神谷鉄斎

その日、奉行所の与力部屋に妙な空気が流れた。

 いつもなら捕物の相談や手配書の確認で賑やかな部屋が、今日はひそひそ声ばかり。


 「……おい、本当か」

 「間違いねえ、岡崎藩の中老の長男だとよ」

 「何でそんな身分のやつが町方の仕事を……」


 火付盗賊改方との合同作戦から数カ月後、鉄斎の素性が奉行所内部に正式に伝わった。江戸詰の岡崎藩邸から回ってきた文には、確かに「岡崎藩中老・神谷権右衛門嫡子」と記されていた。


 同心たちは口々に囁き合い、その視線は時折、縁側に腰かけて煙草をくゆらす鉄斎へと向かった。


 「やっかいなことになったな」

 「これじゃ下手に扱えねえ。藩の顔を潰したら大事だ」

 「いや、そもそも町方稼業なんざやらせちゃいけねえ身分だ」


 保守的な与力・堀川は眉をひそめた。

 「こういうのは長谷川様のやり口だな。腕は立つかもしれんが、奉行所にとっちゃ火種にしかならん」


 一方、捕物好きの同心・山崎はにやりと笑った。

 「俺は構わねえ。あの腕っぷしと度胸は本物だ。だが、あの気性は……爆ぜたら誰も止められねえ」


 やがて、奉行所上役から鉄斎が呼び出された。

 奥の間で向かい合うのは町奉行所の与力頭。年配で、武家らしいきちんとした所作の男だ。


 「……神谷殿。身分のことは承知した。だが、我ら町奉行所は武家といえど町方である。あなたのような御身分の方がここに関われば、いずれ御家と幕府の間に不要な火種を生むやもしれぬ」


 鉄斎は静かに答える。

 「承知しております。しかし、今さら刀を置く気はございません」


 与力頭は溜息をつき、声を低くした。

 「捕物を続けるというのか。……それが御家のためになると?」


 鉄斎は少し間を置き、口元だけで笑った。

 「家のためではなく、自分のためです。悪を放ってはおけぬ性分ゆえ」


 その答えに、与力頭は何も言わなかった。ただ、しばし目を閉じてからこう言った。

 「ならば、せいぜい慎重になさい。あなたの行動一つで、奉行所も、御家も、江戸全体も揺れるのだから」


 部屋を出た鉄斎を待っていたのは、山崎と片桐新左衛門だった。

 山崎は面白そうに肩をすくめる。

 「お偉方は慎重になれと言ってただろうが、お前は聞く耳持たねえ顔してやがる」

 片桐は真顔で言った。

 「鉄斎……お前のやることは、お前だけじゃなく背後の者たちにも響く。それでもやるんだな」


 鉄斎は二人を見渡し、淡々と答えた。

 「俺は、悪人を許さぬ。それがどんな立場だろうと変わらぬ」


 その夜、鉄斎は一人で岡崎藩邸近くの堀端を歩いた。月明かりが水面を照らし、風は涼しい。

 だが心は重い。身分を知られた以上、今までのように動き回るのは難しくなる。敵は盗賊だけではなく、政治や世間の目にもなるだろう。


 それでも――

 あの日、初めて捕物をしたときの感覚が蘇る。

 追い詰め、縛り、悪を地面に叩きつけたあの瞬間。

 武家の義務でも、奉行所の命令でもない。自分の中の「正しさ」が満たされる感覚だった。


 「……やめられるかよ」


 鉄斎は小さく呟いた。

 岡崎藩の嫡子であろうと、町方の外様であろうと関係ない。

 悪を見つけたら、捕らえる。それが俺だ。


 月明かりの下、鉄斎の横顔は決意に満ちていた。

 ――この先、誰が止めようとも、俺は捕物を続ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ