岡崎藩の神谷鉄斎
その日、奉行所の与力部屋に妙な空気が流れた。
いつもなら捕物の相談や手配書の確認で賑やかな部屋が、今日はひそひそ声ばかり。
「……おい、本当か」
「間違いねえ、岡崎藩の中老の長男だとよ」
「何でそんな身分のやつが町方の仕事を……」
火付盗賊改方との合同作戦から数カ月後、鉄斎の素性が奉行所内部に正式に伝わった。江戸詰の岡崎藩邸から回ってきた文には、確かに「岡崎藩中老・神谷権右衛門嫡子」と記されていた。
同心たちは口々に囁き合い、その視線は時折、縁側に腰かけて煙草をくゆらす鉄斎へと向かった。
「やっかいなことになったな」
「これじゃ下手に扱えねえ。藩の顔を潰したら大事だ」
「いや、そもそも町方稼業なんざやらせちゃいけねえ身分だ」
保守的な与力・堀川は眉をひそめた。
「こういうのは長谷川様のやり口だな。腕は立つかもしれんが、奉行所にとっちゃ火種にしかならん」
一方、捕物好きの同心・山崎はにやりと笑った。
「俺は構わねえ。あの腕っぷしと度胸は本物だ。だが、あの気性は……爆ぜたら誰も止められねえ」
やがて、奉行所上役から鉄斎が呼び出された。
奥の間で向かい合うのは町奉行所の与力頭。年配で、武家らしいきちんとした所作の男だ。
「……神谷殿。身分のことは承知した。だが、我ら町奉行所は武家といえど町方である。あなたのような御身分の方がここに関われば、いずれ御家と幕府の間に不要な火種を生むやもしれぬ」
鉄斎は静かに答える。
「承知しております。しかし、今さら刀を置く気はございません」
与力頭は溜息をつき、声を低くした。
「捕物を続けるというのか。……それが御家のためになると?」
鉄斎は少し間を置き、口元だけで笑った。
「家のためではなく、自分のためです。悪を放ってはおけぬ性分ゆえ」
その答えに、与力頭は何も言わなかった。ただ、しばし目を閉じてからこう言った。
「ならば、せいぜい慎重になさい。あなたの行動一つで、奉行所も、御家も、江戸全体も揺れるのだから」
部屋を出た鉄斎を待っていたのは、山崎と片桐新左衛門だった。
山崎は面白そうに肩をすくめる。
「お偉方は慎重になれと言ってただろうが、お前は聞く耳持たねえ顔してやがる」
片桐は真顔で言った。
「鉄斎……お前のやることは、お前だけじゃなく背後の者たちにも響く。それでもやるんだな」
鉄斎は二人を見渡し、淡々と答えた。
「俺は、悪人を許さぬ。それがどんな立場だろうと変わらぬ」
その夜、鉄斎は一人で岡崎藩邸近くの堀端を歩いた。月明かりが水面を照らし、風は涼しい。
だが心は重い。身分を知られた以上、今までのように動き回るのは難しくなる。敵は盗賊だけではなく、政治や世間の目にもなるだろう。
それでも――
あの日、初めて捕物をしたときの感覚が蘇る。
追い詰め、縛り、悪を地面に叩きつけたあの瞬間。
武家の義務でも、奉行所の命令でもない。自分の中の「正しさ」が満たされる感覚だった。
「……やめられるかよ」
鉄斎は小さく呟いた。
岡崎藩の嫡子であろうと、町方の外様であろうと関係ない。
悪を見つけたら、捕らえる。それが俺だ。
月明かりの下、鉄斎の横顔は決意に満ちていた。
――この先、誰が止めようとも、俺は捕物を続ける。




