獣を閉じ込める檻
江戸に戻って十日。
鉄斎は、奉行所から再び密命を受けた。
標的の名は「小坂与一」。
博打場の取り仕切りから身を起こし、今では賭場と香具師を牛耳る小悪党……だが、口の悪さと狡猾さで、捕縛に来た者を何人も返り討ちにしてきたという。
「挑発好きな野郎だ。気をつけろよ」
片桐新左衛門は釘を刺した。
鉄斎は、鼻で笑って返すだけだった。
***
夜の浅草裏。
提灯の灯りが、路地の奥で小さく揺れている。
鉄斎は音を殺して進む。
瓦屋根の上から別動の同心たちが見張る中、標的はあっさりと姿を現した。
「……与一」
鉄斎が低く名を呼ぶと、そいつは口の端を吊り上げた。
「おう、噂の犬っころか。休養から戻ってきたばかりだってな?」
「……」
「てめえが殺った奴らの顔、まだ覚えてるぜ。楽しかったろ? あの感触……」
与一の舌打ち混じりの笑いが、闇に響く。
胸の奥に、かつての衝動がじわりと滲む。
「またやってみろよ。俺の首も、派手に飛ばしてみな」
鉄斎の右手が、無意識に柄を握る。
与一は一歩踏み出し、鼻先で笑った。
「怖えのか? それとも、飼いならされた犬は噛みつけねえのか?」
***
刹那、鉄斎は前に出た。
閃光のような動きで間合いを詰め、刀を引き抜く。
与一が抜刀する間もなく、刃はその手首を正確に斬り落としていた。
血飛沫が夜気に舞う。
与一は絶叫した。
「ぐああああッ!! この野郎!!」
膝をつく与一の眼を、鉄斎は無言で見下ろす。
……ここで首を落とせば、楽になる。
自分も、町も、こいつの悪から解き放たれる。
だが――刀は動かなかった。
鉄斎は深く息を吐き、刃を納めた。
「……生きたまま引っ立てろ」
背後から駆け寄った同心たちに、短く命じる。
***
奉行所への帰途、鉄斎は自分の右手を見つめた。
震えていた。
首を斬る寸前まで行った。
ほんの一言、ほんの一瞬の感情で、また獣に戻るところだった。
片桐新左衛門が後ろから歩み寄る。
「……よく抑えたな」
「……獣は、まだ檻の中だ」
鉄斎は、わずかに笑った。だがその笑みは、自分に向けた警告でもあった。
こうして鉄斎は、獣を完全には殺せぬまでも、飼い慣らす術を少しずつ身につけていった。
だが――檻の鍵は、今も脆く、油断すれば容易く外れてしまう。
それを知るからこそ、鉄斎は再び刀を握り、町の闇へと歩み出していった。




