善悪の狭間で
鉄斎は、最近妙な感覚に囚われていた。
奉行所の依頼や長谷川平蔵との協力の中で、相手にするのは極悪人ばかり。
人の形をしていながら、人の道を外れた者――外道。
その外道たちを追ううち、まるで彼らの怨念や呪いが、自分の中に染み込んでいくような感覚があった。
捕まえた容疑者を、怒りのまま殴り殺してしまったあの夜から、胸の奥に黒い渦が生まれていた。
奉行所の仕事である捕物よりも、「裁き」そのものを自分の手で下すことに快感を覚え始めていた。
それは武士の矜持とは正反対の、獣の衝動だった。
ある日の午後、奉行所に立ち寄った鉄斎は、新しい手配書の束を何気なくめくっていた。
一枚の紙に目が止まる。
――耕助。
年の頃は三十前後。元は百姓だが、闇市で手に入れた刀を振るい、無差別に通行人を斬る辻斬りと化した男。
顔はやつれ、目は落ち窪み、まるで飢えた獣のようだった。
鉄斎はすぐに動いた。
耕助が最後に目撃されたのは、裏長屋の外れにある寂れた路地。夕暮れ時、人影の薄いその道は、血の匂いが残っているように思えた。
静かに歩を進めると、前方に一人の男が立っていた。
片手に刀を握り、何かを待つように突っ立っている。
その姿は手配書と寸分違わぬ――耕助だった。
目が合った瞬間、耕助は唸り声を上げて斬りかかってきた。
刀筋は粗く、力任せだったが、その勢いは本物だった。
鉄斎は半歩退き、流れるように刀を抜く。
二合、三合――金属が火花を散らす。
次の瞬間、鉄斎の刃が耕助の右手首を払った。
「ぐあぁぁ!」
耕助の悲鳴が路地に響く。刀は地面に落ち、血が噴き出した。
勝負は、もうついていた。あとは縄をかけ、奉行所に引き立てるだけだ。
だが――そこで鉄斎の視界が変わった。
目の前の耕助は、確かに悪人だ。辻斬りの被害者の顔が脳裏に浮かぶ。泣き叫ぶ女、倒れる老人、首筋から血を流す若者。
その映像と耕助の姿が重なり、胸の奥の黒い渦がざわめいた。
気づけば、鉄斎の身体は前に出ていた。
「……」
言葉はなかった。ただ、刀を振り上げ、振り下ろした。
肉を断ち、骨を断つ鈍い感触。
耕助の首は宙を舞い、路地の石畳に転がった。血が温かく足元に広がる。
その場に、しばし静寂が訪れた。
鉄斎は自分の刀を見下ろした。
――なぜだ? 拘束すれば済むはずだった。それなのに、俺は……。
***
奉行所では、耕助が討ち取られたと聞き、役人たちは満足げだった。
「抵抗したので斬った」と鉄斎が告げると、それ以上詮索する者はいなかった。むしろ、「よくぞ片をつけてくれた」と酒を勧める者すらいた。
しかし、片桐新左衛門は違った。
同郷で古くからの知己である彼は、鉄斎の顔をじっと見つめた。
「……お前、変わったな」
その声には驚きと、わずかな恐れが混じっていた。
鉄斎は返す言葉を持たなかった。
自分でも分かっていたのだ。
悪人なら殺してもいい――いや、殺したい。
そんな考えが、もはや自分の中で理屈ではなく「当たり前」のように居座っていることを。
その夜、鉄斎は酒を口にしても酔えなかった。
暗闇の中で、耕助の首が転がる光景が、何度も何度も脳裏に浮かんだ。
そしてその度に、胸の奥の黒い渦は、さらに大きくなっていった。




