外道の弘也
夜の町は静まり返っていた。
虫の声さえ遠く、月明かりが石畳を青白く照らす。鉄斎は提灯をぶら下げ、町外れをゆっくりと歩いていた。巡回という名の散歩。だが、心の奥底では常に一人の男を探していた。
――弘也。
強盗に押し入り、一家全員を惨殺。子供も老人も容赦なく斬り捨てた凶悪犯。
手配書が回って三月、弘也は雲のように姿を消していた。目撃情報も少なく、追っても影を掴むばかりだった。
その夜、ふと鼻先をかすめるような微かな灯りを見た。
廃材置き場の隙間から、ろうそくの光が漏れている。
鉄斎は足を止め、耳を澄ませた。中からかすかな物音。
――いるかもしれん。
抜き足で近づき、隙間から覗く。
そこには小柄な男がしゃがみ込み、手元で何かをいじっていた。
やせた頬、細い目、頬にあるほくろ――手配書の似顔絵と一致する。
「……弘也、だな」
鉄斎の低い声が、夜気を裂いた。
男は振り返り、一瞬固まると、蜘蛛のように飛び出した。
逃げ足は速かったが、鉄斎の目にはその動きが鈍く映る。三月の逃亡生活が、足腰を蝕んでいたのだろう。
数十歩も行かぬうちに捕まった。鉄斎は組み伏せ、手際よく縄を掛ける。
荒い息をつきながらも、弘也は薄ら笑いを浮かべた。
「……捕まえたつもりかよ」
「黙れ。奉行所で話を聞く」
だが弘也は、静かに、しかし刃のように言葉を放った。
「あの時の殺しは、楽しかったなぁ。特に、親を目の前で殺された子供の顔が……忘れられねぇ」
鉄斎の手がわずかに震えた。
「やめろ」
「子供を殺した時は、もっと気持ちよかったぜ。あの小さな身体が、俺の刃で崩れる瞬間――」
その瞬間、鉄斎の中で何かが音を立てて外れた。
理性ではなく、本能が体を支配した。
拳が動く。頬骨が砕ける鈍い音。
「ぎゃっ……!」と短い悲鳴。だが鉄斎は止まらなかった。
縛られたまま地面に転がる弘也を、何度も、何度も殴った。
血が石畳に飛び散り、鉄の匂いが鼻をつく。
弘也は「助け……」と呻いたが、その声さえ鉄斎の耳には届かなかった。
頭の中では、弘也の言葉と、かつての惨劇の噂が渦を巻く。
親を失った子の泣き顔。血溜まりに沈む老いた母。
――こんな奴、生かして奉行所に渡す必要があるのか。
拳の感触が、肉から骨へと変わる。
やがて、弘也の身体は微動だにしなくなった。
***
明け方、奉行所の門前に鉄斎は立っていた。
縄付きの弘也――否、冷たくなった弘也を背に括りつけ、淡々と役人に引き渡す。
「抵抗したので……力を入れすぎた」
鉄斎の声は感情を殺していた。
役人たちは互いに目を見交わしたが、浪人の捕物に深入りする者はいない。
弘也は数年追われた大悪党。町人も役人も、その最期を咎める声はなかった。むしろ小声で「よくやった」と呟く者すらいた。
だが鉄斎の胸中は、凍りついていた。
自分は何をしたのか。奉行所に渡して裁きを受けさせる――それが捕物の本分だ。だが、今夜の自分は、ただの殺し屋だった。
夜風に吹かれながら、鉄斎は思った。
――あの言葉を聞いた瞬間、俺は武士でも浪人でもなかった。ただの一匹の獣だった。
廃材置き場に残った血痕が、月明かりに鈍く光っていた。




