表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/68

雷ノ海万蔵の稽古

朝の土俵はまだ冷えていた。土の匂いが鼻を突く。

 雷ノ海万蔵は裸足で土俵に上がると、ゆったりと四股を踏んだ。その度に地面がわずかに揺れ、鉄斎は体の奥で振動を感じた。


「さあ、来い」

 低く落ち着いた声だった。


 鉄斎は過去を思い返す。

 武士や町人、農民――相撲を取れば負けることはほとんどなかった。腕力、体幹、投げ技。どれも自信があった。

 だが、雷ノ海のような関取にだけは、どうしても勝てなかった。何度やってもだ。



---


 塩を撒き、両者が蹲踞の姿勢を取る。

 合図も待たずに雷ノ海はわずかに前傾し、その巨体が迫った。

 ぶつかった瞬間、鉄斎の足裏から背骨まで、全身を突き上げる衝撃が走る。

 押し返そうと力を込めても、土俵の俵がすぐ背中に迫る。


「まだまだ腰が浮いとる!」

 雷ノ海の声と同時に、鉄斎は土俵下へ転がされていた。



---


 何度挑んでも結果は同じだった。

 ただ押されるだけでなく、時に胸を掴まれ、捻り倒され、足を払われ、何が起きたのか分からぬまま土を舐めた。

 幕下との稽古なら勝ったり負けたりだ。それでも、雷ノ海相手には一度も勝てない。


 ――ただの力じゃない。

 雷ノ海の動きには、間合い、重心、呼吸、そして相手の癖を読む眼があった。

 鉄斎は武芸者として自負があったが、相撲にはそれ以上の「奥深さ」が潜んでいることを思い知らされていた。



---


 十番目の取組みを終えたとき、鉄斎は肩で息をしていた。

 雷ノ海は汗こそ光らせていたが、息は乱れていない。


「鉄斎、お前は強い。だがな、相撲は相手をどう崩すかが肝心だ。力だけじゃねぇ」

 雷ノ海の言葉は重く、鉄斎の胸に沈んだ。


 捕物でも同じだ――相手を倒すだけでなく、動きを封じる、逃げ道を塞ぐ、心理を揺さぶる。

 相撲の技術は、そのまま生きた。足運び、崩し、重心の奪い方。いつかきっと、捕縛の場で役立つだろう。



---


 稽古を終えると、二人は風呂で汗を流し、近くの料理茶屋へ向かった。

 大きな膳に並んだのは、焼き魚、煮物、味噌汁、そして山盛りの飯。

 ここからが鉄斎の得意分野だった。


「お前、稽古より食い方のほうが早えな」

 雷ノ海が笑う。

「ここでくらいは勝たせてもらわんと」

 鉄斎は返事もそこそこに飯をかき込む。焼き魚の骨を鮮やかに外し、煮物を一口で平らげ、飯を二杯、三杯。


 雷ノ海も健啖家だったが、この日ばかりは鉄斎が先に膳を空にした。

「……今日は負けた」雷ノ海は箸を置き、苦笑いを浮かべた。

「稽古は全部負けたがな」鉄斎も笑い、二人の笑い声が茶屋に響いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ