雷ノ海万蔵の稽古
朝の土俵はまだ冷えていた。土の匂いが鼻を突く。
雷ノ海万蔵は裸足で土俵に上がると、ゆったりと四股を踏んだ。その度に地面がわずかに揺れ、鉄斎は体の奥で振動を感じた。
「さあ、来い」
低く落ち着いた声だった。
鉄斎は過去を思い返す。
武士や町人、農民――相撲を取れば負けることはほとんどなかった。腕力、体幹、投げ技。どれも自信があった。
だが、雷ノ海のような関取にだけは、どうしても勝てなかった。何度やってもだ。
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塩を撒き、両者が蹲踞の姿勢を取る。
合図も待たずに雷ノ海はわずかに前傾し、その巨体が迫った。
ぶつかった瞬間、鉄斎の足裏から背骨まで、全身を突き上げる衝撃が走る。
押し返そうと力を込めても、土俵の俵がすぐ背中に迫る。
「まだまだ腰が浮いとる!」
雷ノ海の声と同時に、鉄斎は土俵下へ転がされていた。
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何度挑んでも結果は同じだった。
ただ押されるだけでなく、時に胸を掴まれ、捻り倒され、足を払われ、何が起きたのか分からぬまま土を舐めた。
幕下との稽古なら勝ったり負けたりだ。それでも、雷ノ海相手には一度も勝てない。
――ただの力じゃない。
雷ノ海の動きには、間合い、重心、呼吸、そして相手の癖を読む眼があった。
鉄斎は武芸者として自負があったが、相撲にはそれ以上の「奥深さ」が潜んでいることを思い知らされていた。
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十番目の取組みを終えたとき、鉄斎は肩で息をしていた。
雷ノ海は汗こそ光らせていたが、息は乱れていない。
「鉄斎、お前は強い。だがな、相撲は相手をどう崩すかが肝心だ。力だけじゃねぇ」
雷ノ海の言葉は重く、鉄斎の胸に沈んだ。
捕物でも同じだ――相手を倒すだけでなく、動きを封じる、逃げ道を塞ぐ、心理を揺さぶる。
相撲の技術は、そのまま生きた。足運び、崩し、重心の奪い方。いつかきっと、捕縛の場で役立つだろう。
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稽古を終えると、二人は風呂で汗を流し、近くの料理茶屋へ向かった。
大きな膳に並んだのは、焼き魚、煮物、味噌汁、そして山盛りの飯。
ここからが鉄斎の得意分野だった。
「お前、稽古より食い方のほうが早えな」
雷ノ海が笑う。
「ここでくらいは勝たせてもらわんと」
鉄斎は返事もそこそこに飯をかき込む。焼き魚の骨を鮮やかに外し、煮物を一口で平らげ、飯を二杯、三杯。
雷ノ海も健啖家だったが、この日ばかりは鉄斎が先に膳を空にした。
「……今日は負けた」雷ノ海は箸を置き、苦笑いを浮かべた。
「稽古は全部負けたがな」鉄斎も笑い、二人の笑い声が茶屋に響いた。




