真面目過ぎた男
一樹は町でも評判の商人だった。几帳面で、嘘をつかず、客の無理もできる限り聞き入れる。値引きを頼まれれば笑顔で応じ、配達を頼まれれば遠方でも足を運ぶ。
そんな人柄は客には好かれたが、同時に、悪意を持つ者にもよく知られるようになった。
最初は、店先で菓子をひとつ持っていかれる程度だった。
「代金は今度払う」――そう言われれば、一樹は苦笑しながらうなずいた。
だが、その「今度」は二度と来なかった。
やがて金をせびられ、在庫を勝手に持ち出されるようになる。
それでも一樹は怒らなかった。
怒るより、事を荒立てぬ方が平穏でいい。そう信じていた。
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鉄斎が一樹の名を耳にしたのは、ある朝のことだ。
奉行所の廊下で、与力が帳面をめくりながら言った。
「今度は、一樹って商人だ。女子供や年寄りから物を盗んだらしい」
「……あの一樹か?」鉄斎は眉をひそめた。
鉄斎も町の巡回で顔を合わせたことがある。人当たりの良い男で、盗みとは縁遠いように見えた。
「元々は評判のいい男だったんだがな。長年たかられ続けて、とうとう壊れたらしい」
与力の声は淡々としていたが、わずかに憐れみがにじんでいた。
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一樹を見つけたのは夕暮れの裏道だった。
小さな行李を背負い、足早に歩く。どこかに売り捌くつもりなのか、中身は盗んだ品だろう。
「一樹」
呼びかけると、男は肩をびくりと震わせ、振り向いた。
その顔は怯えでも怒りでもなく、妙に諦めきった色をしていた。
「……鉄斎さんか」
「縄に付け」
一樹はため息をひとつつき、行李を下ろして両手を差し出した。抵抗は一切なかった。
縄を掛ける間、鉄斎はその表情をじっと見た。
かつて商売の合間に見せた笑顔は消え、代わりに、何もかも投げ出した人間特有の虚ろな目だけがあった。
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奉行所までの道すがら、一樹は口を開いた。
「……もう、何をしても同じなんだ。笑っても怒っても、物は取られる。だったら、いっそ……」
そこで言葉を切り、口をつぐんだ。
鉄斎は何も言わなかった。
心の中では、怒りと哀れみがせめぎ合っていた。
悪いのは間違いない。女子供や老人を狙った時点で、容赦の余地はない。だが、その背中を押したのが長年の搾取であったことも事実だった。
捕らえるべきか、救うべきか――
鉄斎は自分が役人である以上、前者を選ばねばならないと知っていた。
だが、縄を握る手に力を込めるたび、胸の奥が重くなる。
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奉行所の門前で、一樹はふと笑った。
「鉄斎さん、あんたが捕まえてくれてよかったよ。……見知らぬ奴だったら、もっと惨めだったろうから」
それは皮肉でも冗談でもなかった。ただ、諦めの果てに残った淡い感謝の響きだった。
鉄斎は言葉を返さず、一樹を役人に引き渡した。
背を向けて歩き出すとき、鉄斎は自分の胸に、鉛のようなものが沈んでいくのを感じた。
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その夜、鉄斎は眠れなかった。
一樹の虚ろな目と、最後の笑顔が、闇の中で何度も浮かび上がった。
悪を裁くのが正義だと信じてきた。しかし、悪へと堕ちるまでに至る道筋を知ってしまうと、剣の重みは増すばかりだった。
――正義とは、何を守るためのものか。
鉄斎は答えを探そうとしたが、夜はただ深く、静かに更けていった。




