俊足の純也
夏の午後、江戸の町は蝉の声と熱気で満ちていた。神谷鉄斎は片桐新左衛門と別れ、ひとり飾り職の店先で簪を物色していた。
そのとき、甲高い悲鳴が通りを切り裂いた。
「盗人だッ! あの男、簪を盗みやがった!」
振り返ると、紺の麻裃の若い職人が店先から飛び出し、手を伸ばして叫んでいた。その前を、痩せたが身の軽い若者が駆け抜ける。右手に煌びやかな簪を握りしめ、口元に笑みを浮かべていた。
「おい待てッ!」
鉄斎は反射的に地を蹴った。長年の鍛錬で培った脚力が唸りを上げ、町人や駕籠をすり抜ける。しかし盗人――純也の脚はさらに速かった。軽く身をかわし、路地へ滑り込むと、あっという間に人混みに紛れた。
追跡を断たれ、鉄斎は息を吐く。
「……あれは並の盗人じゃねえな」
後に耳に入ったのは、純也という町人の名。生まれはごく普通の家だが、見栄と女遊びのために飾り職ばかり狙って盗みを繰り返す。白昼堂々と簪や櫛を奪い、しかも追っ手を振り切る速さはまるで狐のようだという。
手配書にはまだ顔は載っていないが、どうやら盗みは十や二十ではきかない。
その夜、鉄斎は片桐新左衛門に酒を注ぎながら言った。
「狙いはいつも飾り職だ。女に貢ぐためだとよ。ならば次は――」
新左衛門が眉を上げる。
「張り込みだな?」
「そういうことだ」
二人は翌日、町でも評判の簪職人の店の近くに潜んだ。夏の日差しが照り付ける中、飴売りのふりをして新左衛門は軒下に座り、鉄斎は隣の紙屋の客に紛れた。
日が傾き始めた頃、細身の若者が人混みの向こうから現れた。浅葱色の着物に黒の兵児帯。顔は涼しげだが、目の奥は獲物を狙う狐そのものだった。
純也は簪職人の店先を一瞥し、何気なく足を止める。客のふりをして店の品を見回し、店主の視線が逸れた瞬間――右手が閃き、簪が袖の中へと消えた。
次の瞬間、鉄斎が地面を蹴った。
「そこまでだ、純也!」
驚いた純也は反射的に駆け出す。しかし今日は道の先に片桐新左衛門が立ちはだかっていた。逃げ道を塞がれた純也は左右に揺さぶりをかけるが、鉄斎の長い腕が襟首をがっちり掴む。
「離せッ、この野郎!」
「おとなしくしろ」
抵抗は一瞬だった。鉄斎が膝裏を払うと、純也は尻餅をつき、そのまま縄がかけられた。
奉行所での取り調べはあっけなかった。押収された簪や櫛は十数本。さらに調べを進めると、夜陰に紛れての盗みも発覚し、被害総額は五十両に及んだ。飾り職や質屋、果ては大店の奥方までが被害を訴えに来る有様だった。
奉行は重く頷き、判決を下す。純也は牢へ送られ、二度と町を歩くことはなかった。
事件の謝礼として、鉄斎の懐には二両が収まった。
「二両あれば、いい酒が飲めるな」
新左衛門が笑うと、鉄斎も肩をすくめた。
「……ま、今日は飾り職の親父にでも奢ってやるか」
夕暮れの江戸の空に、簪職人の店から響く笑い声が、いつまでも続いていた。




