雷ノ海万蔵
喧嘩が終わった路地裏、鉄斎と万蔵は互いに息を整えながら汗まみれの浴衣を直していた。店の主人はまるで自分の家族のように二人の勝負を見守り、今は笑顔で酒の支度をしている。
「今日は奢りだぞ、鉄斎。」主人が言い、酒とつまみを二人の前に並べる。だし巻き玉子、ワカサギの佃煮、香ばしい煎り酒の香りが漂った。鉄斎は少し照れくさそうに笑い、万蔵と顔を見合わせた。
「悪いな、いきなり仲間の腕を折っちまって。」鉄斎は杯を手に取り、万蔵と軽くぶつけ合う。
「いや、俺も悪かった。お前、なかなかやるな。」万蔵の口元にわずかに笑みが浮かぶ。
酒を口に含みながら、鉄斎はふと思った。「……あの時、もっと密着させていればお前を投げれたかもしれん。」
万蔵は黙って頷き、次の言葉を探すように息を整える。「明日、土俵に来い。稽古だ。」
鉄斎は一瞬、酒の温かさに浸りながらも、身体の芯がしゃんとするのを感じた。
「……稽古か。いいだろう、行く。」
万蔵は短く頷き、店の外の夜風に身を任せる。月明かりの下、二人の背中が並ぶ。
翌朝、薄曇りの空の下、鉄斎は土俵に立った。昨夜の酒の余韻はまだ残るが、心地よい緊張感が身体を貫く。万蔵はすでに構え、厳しい目で鉄斎を見つめていた。
「昨日の喧嘩の時から気になっていたんだが、脇を刺す時、顎が上がる癖がある。」
鉄斎は眉をひそめる。「そうか?気にしたことはなかったが……」
「気にしろ。顎が上がれば首が伸びる、力が逃げるんだ。」万蔵は静かに、しかし力強く説明する。
鉄斎は息を整え、刀も棒も使わず、素手で万蔵に組みかかる。顎を胸に沈め、腰で押す。だが何度も動くうちに、やはり顎は上がってしまう。万蔵はそのたびに手を添え、微細な動きを修正する。
「ほら、こうだ。俺に密着させろ。力を逃がすな。」
鉄斎は顎を押し付けたまま呼吸を整え、足腰を踏み込む。
数十回の繰り返しの後、鉄斎は徐々に体の感覚を掴む。顎は自然に胸元に収まり、腰の押しが前に出る。万蔵は低く笑いながら手を離す。
「おう、今のは悪くねぇな。忘れるなよ。」
稽古の後、鉄斎は土俵の外で汗を拭い、万蔵と並んで座った。小さな杯で水を口に含み、互いの顔を見合わせる。
「俺の弱点を見抜くとは……さすがだな。」鉄斎はわずかに笑った。
万蔵も笑みを返す。「あんたも強いが、まだ伸びしろはある。明日も来い。」
鉄斎は頷く。「わかってる。明日も来る。」
こうして、喧嘩の夜から一夜明け、酒の余韻を残したまま、鉄斎の稽古の日々は始まった。弱点を潰し、力を研ぐその先に、次の戦いの姿が待っていることを、鉄斎はまだ知らなかった。




