だし巻き玉子とワカサギの佃煮と関取
その夜、鉄斎は片桐新左衛門と肩を並べ、いつもの酒場「升屋」の隅に腰を下ろしていた。
「おい、鉄。今日はつまみを贅沢にいくぞ」
新左衛門が笑い、鉄斎は黙ってうなずく。
「親父、だし巻き玉子とワカサギの佃煮を頼む」
店主が「へい」と返事をして奥へ消える。
暖簾が揺れ、重い足音が店内に響く。振り向くと、巨体の関取と、その後ろに数人の幕下力士が入ってきた。
場の空気が一瞬、むっと熱を帯びる。酒の匂いに混じって、土俵の土と汗の臭いが漂った。
「おう、俺にもだし巻き玉子とワカサギの佃煮をくれ」
関取の声は太鼓のように響く。
しかし、店主は困った顔で頭をかいた。
「すまんが、両方とも丁度切らしちまって……こっちのお客さんの分で最後なんだ」
そう言って、鉄斎の前の皿を指さす。
関取が鉄斎に向き直る。
「兄さん、悪いが金は払うから、少し分けてくれねえか」
丁寧な口ぶりだったが、鉄斎は唇をわずかに歪めた。
——この数日、片岡親子に監視されるような息苦しい日々が続いていた。
その鬱憤が、この瞬間に噴き上がる。
「悪いが、これは俺が食う」
短く、それだけを言った。
幕下の一人が椅子を鳴らして立ち上がる。
「おい、それは失礼だろう!」
大股で歩み寄った瞬間——
鉄斎の手が閃いた。相手の袖を掴み、腰をひねりながら崩す。
ごうっ、と畳を擦る音。続いて、乾いた骨の折れる音が店内に響いた。
「ぐっ……!」幕下は腕を抱え、うずくまる。
関取の目が釣り上がった。
「……表に出ろ」
低く唸るような声。
鉄斎は立ち上がり、刀の柄ではなく拳を握った。
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外は夏の夜気が重く、提灯の赤い灯が二人の顔を照らす。
先に動いたのは鉄斎だった。間合いを詰め、顎へ鋭い正拳突き。
がつん、と肉と骨の鈍い感触が拳に走る。
二撃、三撃と畳み掛ける。しかし関取はぐらつきもせず、闘牛のように突進してきた。
肩と胸がぶつかり、衝撃で息が詰まる。
投げを狙ったが、相手は関取——腰が岩のように動かない。逆に鉄斎の足が宙を舞い、背中から土に叩きつけられた。
肺の空気が一気に抜ける。
立ち上がると同時に、鉄斎は戦法を変えた。
すねを低く払うように蹴る。
「くっ……!」
鈍い声と共に関取の足が揺らぐ。もう一度、さらにもう一度。
肉を打つ感触が確かに効いている。巨体の呼吸が荒くなり、動きが鈍った。
「——今だ」
間合いを一気に詰め、腰に手を回して体を反らす。
巨体がぐるりと宙を舞い、地面が揺れるような音と共に落ちた。
鉄斎は浴衣の襟をがっちりと掴み、喉元に締めをかける。
関取の呼吸が詰まり、暴れる腕が次第に力を失っていく——
やがて、関取の全身が静かになった。
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鉄斎が手を放すと、店主と新左衛門が駆け寄ってきた。
「お、お前さん……見事だ!」
店主はなぜか破顔していた。
「今夜は奢りだ! 好きなだけ食ってくれ」
やがて、気付いた関取がふらつきながら起き上がる。
「……いい腕だな」
そう言って、互いの皿に残っただし巻き玉子とワカサギの佃煮を分け合った。
奇妙な笑みと共に、敵だったはずの二人は杯を交わした。
——この出会いが鉄斎を変えることを、その場にいた誰も知らなかった。




