神谷鉄斎、お主が欲しい。
朝、長屋を出て裏通りを抜けると、角のところで待っている。白い絹の小袖を着て、まるで何かの偶然を装ったかのような顔だ。
「まあ鉄斎さま、奇遇ですね」
奇遇も三度続けば必然だ、と鉄斎は心の中で吐き捨てた。
だが今回は、さくらだけではなかった。
昼過ぎ、行きつけの酒屋「升屋」で一杯やっていると、のれんをくぐって現れたのは、片岡源右衛門その人であった。しかも二人の屈強な護衛を従えて。
「おう、鉄斎殿も来ておったか。よし、ここはわしが奢ろう」
そう言って、大声で銚子を追加させる。
護衛の一人が、じっと鉄斎を睨んでいる。あの視線が妙に苛立たしい。刀を抜かぬ限りは無視するしかないが、背筋に小さな棘が刺さったような不快感が残った。
それからの数日、奇妙な現象が続いた。
蕎麦屋「角屋」に行けば、片岡源右衛門がどっかと座っている。
「おお、鉄斎殿! ここもわしが払う」
寿司屋台で握りをつまんでいれば、今度はさくらが現れて微笑む。
「今夜は私にご馳走させてくださいな」
奢りはどこでも同じだ。どの店でも、何を頼んでも、金を出すのは片岡親子。しかもその顔は、やたらと満足げだ。
(……こいつら、何を考えてやがる)
鉄斎は眉間に皺を寄せた。礼を欠くのは好まぬが、連日これでは借りばかり増える。
ある夜、升屋での帰り道。酔いを覚まそうと夜風に当たっていると、裏手の細道からさくらがひょいと顔を出した。
「鉄斎さま、明日はお時間ありますか?」
「ない」
即答だった。
「え……では、明後日は?」
「ない」
それでも怯まず、にこやかに笑うさくら。後ろの闇には護衛らしき影が二つ、黙って立っている。
こうして、鉄斎の生活は片岡親子に半ば監視されているような日々になった。
しかしある日を境に、急にその姿を見なくなる。
——その理由は、片岡家の奥座敷にあった。
さくらは両膝をつき、悔しげに拳を握り締めていた。
「父上、もう……全く振り向いてくださらないのです」
源右衛門も渋い顔をしている。
「むう……あれほど奢り、顔を合わせ、機会を作ったというのに、まるで響かぬとは……」
「私、鉄斎さまのお好みの酒も肴も、ちゃんと調べて用意したのです。なのに……」
「婿取りというものは、もっと容易いと思っておったが……あやつは並の男ではないな」
父娘は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
「次の手を考えねばならん」
「ええ、父上……まだ諦めません」
夏の夜風が、障子の隙間から流れ込み、二人の溜息をさらっていった。
その音は、獲物を逃した狩人の吐息にも似ていた。




