祭りと岡崎の神谷鉄斎
その日、鉄斎の長屋に片岡源右衛門が現れたのは昼前だった。大柄な体に威厳を漂わせているが、どこか浮き立ったような笑みを隠せない。
「神谷どの、急な頼みで悪い」
源右衛門は腰を下ろすなり、ぐっと身を乗り出す。
「今宵、近くの天神さまの祭りがある。さくらがどうしても行きたがってな……だが、あの子を一人で歩かせるわけにはいかん。おぬし、付き添ってやってくれぬか」
鉄斎は箸を止めた。
「俺は祭りなんぞ柄じゃねえ」
「わかっておる。だが、あの子はおぬしとなら安心だと言っておる」
背後から新左衛門が茶をすすりながら笑った。
「鉄斎、お前さんもたまには華やかな場に出ろよ。人斬り面してたら一生女っ気なんざ寄ってこねえぞ」
鉄斎は舌打ちし、「わかった、行く」とだけ言った。
——夕刻。
祭り囃子が遠くから響き始め、通りは人波で溢れていた。軒先には提灯が連なり、赤や橙の灯りが揺れる。線香の香りと、屋台から漂う甘い団子や焼きイカの匂いが入り混じる。
さくらは白地に朝顔模様の浴衣を纏い、簪を挿して現れた。いつもの勝ち気な瞳が、今夜はどこか艶やかに見える。
「お待たせしました、鉄斎さま」
鉄斎は少し視線を逸らし、「行くか」とだけ言って歩き出す。
屋台では金魚すくい、的当て、飴細工の職人が手を止めずに飴を捻る。子どもたちが歓声を上げ、女たちは涼しげに扇を仰ぎながら笑っている。
「鉄斎さま、あれを見てください」
さくらは射的の屋台を指差した。木製の銃で的を倒すと景品がもらえる。
鉄斎は懐から銭を出し、一丁を受け取ると無言で構えた。的は三つ、次々と音を立てて倒れる。周囲からどよめきが起こり、店主が慌てて熊手人形を手渡した。
「……要らねえ」
鉄斎はそれをさくらに押し付けた。
さくらは小さく笑い、「ありがとうございます」と受け取った。
やがて神輿渡御の一団が通りを練り歩く。掛け声が夜空に響き、松明の炎が武者絵の幕を照らす。
「きれいですね……」
さくらが呟くと、鉄斎は少しだけ横顔を見やった。その瞳が子どものように輝いている。
「……お前、こんな人混み好きか」
「ええ。人の賑わいって、力をもらえる気がします」
二人は境内に足を運び、賽銭を投げて鈴を鳴らした。さくらは何やら長く祈っている。鉄斎は早々に立ち上がり、屋台の団子を二串買って戻った。
「……祈りは済んだか」
「はい」
「食え」
さくらは微笑み、団子を一口かじった。醤油の香ばしさが夜風に混じる。
祭りの喧噪の中、二人はしばらく無言で歩いた。周囲は笑い声や囃子で満ちているのに、不思議とその時間は穏やかで、ゆったりと流れていた。
帰り際、さくらはふと足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
鉄斎は何も言わず、ただ軽く頷いた。
遠く、祭り囃子がまだ響いていた。
——その夜、片岡源右衛門は縁側で煙管をくゆらせながら、「これで一歩近づいたな」と小さく呟いた。
祭りから数日後。
片岡家の奥座敷には、父娘ふたりきりの静かな空気が漂っていた。外では蝉が鳴き、庭の池の水面が風に揺れている。
「……父上、調べはつきました」
さくらがそう切り出すと、源右衛門は煙管を置いた。
「申してみよ」
さくらは懐から紙束を取り出し、几帳面な文字で埋められた調べ書きを広げた。
「神谷鉄斎。三河岡崎藩、中老・神谷権左衛門の長子。父は藩主からの信頼厚く、民からの評判も良いとのこと。鉄斎自身は若い頃より剣を好み、江戸に出てからは……」
そこでさくらはわずかに笑った。
「……あまりにも腕が立ちすぎて、面倒ごとを引き寄せているようです」
源右衛門の目が鋭く光る。
「中老の倅か……岡崎藩の中老ともなれば、家中での発言力は計り知れん。それに、あの剣の腕。どこに出しても恥じぬ」
「父上も、あの方を気に入ってくださったのですか」
「無骨だが、嘘をつく男ではない。武士はああでなければならぬ」
二人はしばし黙った。庭の向こうで、白い鷺がゆっくりと飛び立つ。
やがて源右衛門が口を開いた。
「……よいか、さくら。わしはおぬしの婿選びに口を挟むつもりはなかった。だが、鉄斎ならば話は別だ」
「……!」
「岡崎の神谷家と縁戚となれば、片岡家の地位も揺るがぬ。それに何より、おぬしが惚れておる」
さくらの頬が赤らんだ。
「ええ……父上。私はあの方が、ただ強いだけではなく、人として真っ直ぐなところが好きなのです」
源右衛門は深く頷いた。
「では、これよりは父娘ではなく、同志として動こうではないか」
「同志……」
「神谷鉄斎を、片岡家の婿に迎える。そのためには手も手段も選ばぬ」
さくらの瞳が鋭く光る。
「父上、それでは——」
「まずは、あやつの懐を温めてやる。恩を売るのだ。だが、あからさまではならぬ」
「わかりました。私からも近づきます。時には助けられ、時には助ける……そうして距離を縮めます」
二人は顔を見合わせ、同時に微笑んだ。その笑みはどこか狩人のものに似ていた。
庭先の松がざわめき、夏の雲がゆっくりと流れていく。
この日から、片岡源右衛門と娘さくらは、単なる親子ではなく、同じ目的を持った協力者となった。
神谷鉄斎を婿として迎え入れる——その一心が、二人を結びつけたのである。




