片岡家での食事会
昼下がりの長屋は、蝉の声がやけにうるさかった。
鉄斎は縁側で昼酒をあおり、半眼になっていた。
その静けさを、突如として乱す一団があった。
「鉄斎殿はおられるか!」
玄関口で声を張るのは、背筋を伸ばした壮年の武士。立派な烏帽子形の兜はかぶっていないが、家紋入りの羽織と腰の大小が威厳を放つ。その後ろには屈強な護衛が三名、そして――さくらが涼しい顔で立っていた。
「……おい、またお前か」
鉄斎がぼやくと、さくらは口元に微笑を浮かべた。
「はい、また来ました」
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男は名乗った。
「久しいな鉄斎殿。我は片岡源右衛門。古河藩の家老職にある」
鉄斎はぴくりともせず、杯を置いた。
「で、何の用だ?」
その素っ気なさに、護衛の一人が眉をひそめたが、源右衛門は表情を崩さない。
「単刀直入に申す。娘――さくらの護衛を引き受けてはくれぬか」
「はあ?」
源右衛門は続けた。
「そなたは先日、私の護衛を瞬時に制圧した。その腕は本物だ。護衛にはうってつけ」
提示された給金は耳を疑うほどの額だった。江戸の用心棒相場を遥かに超え、町道場一つを買えるほどである。
しかし鉄斎は、頭をぽりぽり掻きながら言った。
「悪いが、俺は女の子守をする柄じゃねえ」
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源右衛門の眉がわずかに動く。だが次の瞬間、彼はふっと笑った。
「ならば礼をさせてくれ。あの時の無礼、そして娘を輩から助けてくれたこと、父としてただ一言、感謝を述べたい」
そう言い、また深々と頭を下げた。護衛たちは息を呑む。鉄斎のような浪人風情に家老が頭を垂れるなど、前代未聞だった。
鉄斎はその真摯さに一瞬だけ目を細めたが、すぐに肩をすくめた。
「礼なんざいい。……ああ、そうだな、飯なら食ってやる」
それを待っていたかのように、さくらの目が輝いた。
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数日後、鉄斎と新左衛門は片岡家江戸屋敷の門をくぐった。
広々とした庭、磨き上げられた廊下、廂からは涼しい風が抜ける。
広間には見事な膳が並び、鯛の塩焼き、山海の珍味、銘酒の徳利がいくつも置かれている。
「こりゃあ……夢か?」
新左衛門は半ば泣きそうな声で膳を覗き込み、すぐに箸を伸ばした。鉄斎もためらわず杯を取り、豪快に酒をあおった。
さくらは終始、鉄斎の斜め前に座り、視線を外さなかった。
「美味しいですか?」
「……ああ」
素っ気ない返事にもめげず、彼女は嬉しそうに微笑む。
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宴は延々と続き、膳は何度も入れ替わった。
新左衛門はすでに腹を押さえ、うめきながらも追加の握り寿司を口に押し込んでいる。鉄斎は淡々と盃を干し、やがて座布団から立ち上がった。
「じゃあな、うまかった」
「……え? もうお帰りに?」
「腹も膨れたし、眠くなった」
さくらは慌てて袖を掴んだ。
「お泊まりになっては? お部屋はご用意してあります」
「悪いが、俺は自分の布団でしか寝られねえ性分だ」
そう言って、鉄斎はひらりと袖を振りほどいた。
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玄関で草履を履く鉄斎を見送りながら、さくらは静かに唇を噛んだ。
その横で源右衛門は微笑を浮かべ、娘にだけ聞こえる声で言った。
「諦めないんですかい?」
「……いいえ」
瞳は炎のように揺れていた。二度の策は失敗した。だが、まだ道はある――さくらはそう確信していた。




