片岡源右衛門
古河藩、八万石――江戸城桜田門近くの藩邸にその人は住まう。名は片岡源右衛門。土井家江戸詰め筆頭家老にして、藩政を実質的に仕切る男であった。
五十を越える年齢ながら背筋は真っ直ぐ、眉目も涼しく、声は常に落ち着き払っている。藩主の信頼は厚く、城中での評判も高い。だが、同時にその厳格さから家中では「片岡様の前では息も整えて吸え」とまで言われるほどであった。
その片岡源右衛門には、一人娘がいた。名をさくら。
武家の娘としての礼儀作法や教養は徹底的に仕込まれたが、自由を好む奔放な性格は父譲りの頑固さと母譲りの気性の激しさを兼ね備えていた。
本来、こうした娘は常に護衛がつき、外出も厳しく制限される。だが数ヶ月前、父の目を盗み、屋敷を抜け出して市中に小さな借家を構えた。父の許可などあるはずもない。
そして、あの事件――井戸端で悪漢三人に絡まれ、偶然通りかかった鉄斎に助けられた夜――以降、彼女は鉄斎の後をつけ回すようになったのだ。
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ある日の夕刻。
鉄斎は片桐新左衛門と長屋の前で言い争っていた。原因は、またもさくらが勝手に長屋へ押しかけ、鉄斎に晩餉をご馳走になろうとしていたからだ。
「いい加減にしろ!」
鉄斎は怒鳴った。
「てめぇは武家の娘だろうが! 市井の男の長屋に入り浸るって、頭どうかしてんのか!」
対照的に片桐新左衛門は口元を緩ませ、
「いやいや鉄斎殿、この娘御はなかなか気立ても良く、話も面白いではないか」
と、完全にデレデレである。
そこへ――
ズシン、ズシン…
地を踏み鳴らすような足音と共に、通りの奥から十数名の武士が現れた。槍持ち二人、佩刀の侍八人、その中央に威風堂々と立つ初老の男。
片岡源右衛門、その人であった。
「さくら!」
低く鋭い声が長屋の前に響く。
「父上…」さくらが小さく呟く。
源右衛門の手が上がると、護衛の侍たちは一斉に鉄斎と新左衛門を取り囲んだ。
「娘を拐かしたのはお主らか。捕らえよ!」
「はぁ? なんだって?」鉄斎は目を細めた。
「俺は助けただけだぞ」
しかし護衛たちは取り合わない。二人がかりで腕を取ろうとした瞬間――
「なめやがって!」
鉄斎の拳が一人目の顎を撃ち抜いた。ガクリと崩れる侍。
二人目は肩口を掴まれ、そのまま石畳に叩きつけられる。
新左衛門も負けじと二人を相手に刀の柄で鳩尾を突き、吹き飛ばした。
「やめよッ!」源右衛門が叫ぶも、護衛たちは次々に倒れていく。
最後の一人を鉄斎が投げ飛ばし、辺りは静寂に包まれた。
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乱れた息を整えながら、源右衛門は娘を睨みつける。
「……さくら、お前の仕業か」
彼女は観念したように頷く。
「はい、父上。鉄斎様は私を助けてくださっただけです」
源右衛門はその場で深々と頭を下げた。
「無礼を働いた。すべて私の早合点だ。許してほしい」
江戸の街中で、筆頭家老が平民同然の男に頭を下げる――周囲の人々は息を呑んだ。
鉄斎は一瞬驚き、そしてニヤリと笑った。
「わかった。全部水に流す。護衛の連中も、命までは取ってねぇ」
その言葉に、源右衛門は再び礼を述べ、娘を連れて立ち去った。
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しかし、その背中を見送りながら、さくらは密かに心に誓っていた。
――今度は、もっと上手くやる。鉄斎様から離れられないように。
彼女の次なる付き纏い計画が、静かに動き出そうとしていた。




