さくら
「いい加減にしろ!」
長屋の前に響いた鉄斎の怒声に、道行く者たちが足を止めた。目の前では、あの女――さくら――がにこにこ笑いながら鉄斎の袖をつかんでいる。
「だって、今日も一緒に行きたいんですもの」
「昨日もだ、一昨日もだ。何で毎日俺の行き先を知ってやがる」
鉄斎の目は、火花が散るような鋭さだった。ところが片桐新左衛門は、背後で腕を組み、涼しい顔で立っている。
「まぁまぁ鉄斎。こんな可愛らしい嬢ちゃんが一緒に来たいって言ってんだ。悪い話じゃねぇだろ」
「お前も同類か」
「はは、俺はただの紳士ってやつだ」
さくらはそんなやり取りを楽しむように笑っている。その笑顔は町娘というより、どこか育ちの良さを漂わせていた。
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事の発端は三日前。
鉄斎が三人組の輩を叩きのめした夜から、さくらは毎日のように現れた。朝、長屋を出れば入口に立ち、昼飯を食べれば隣に座り、夕暮れには一緒に帰ろうと待っている。
新左衛門は早々に懐柔され、すっかり兄貴分気取りで話し込んでいたが、鉄斎にとってはただの足枷だった。
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その日も三人で歩きながら、鉄斎は耐えきれず立ち止まった。
「おい、もうはっきり聞く。お前、何者だ」
さくらは少し視線を泳がせ、それから口を開いた。
「……下総は古河藩の家中にございます。父は藩の政務を司る役職におりまして、今は江戸詰めです」
鉄斎は眉をひそめる。
「武家の娘ってわけか。じゃあ、なんで護衛もつけずにふらふらしてんだ」
「だって、退屈なんですもの。父の屋敷は窮屈ですし……江戸の町を自由に歩いてみたくて。だから、こっそり一人で借家を借りて暮らしています」
新左衛門が口笛を吹いた。
「そりゃまた大胆なお嬢さんだな」
「下総では、外出すれば必ず護衛がつきます。でも、江戸なら自由だと思って……」
「自由? 三人組に絡まれたのも、その『自由』のおかげか」鉄斎の声は冷たい。
さくらは少しだけうつむいたが、すぐ顔を上げた。
「でも、あの日鉄斎さんが助けてくれたでしょう? だから……お礼がしたくて」
「礼は奉行所で済んでる。もう帰れ」
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だが、さくらは退かなかった。
「嫌です。鉄斎さんは強いし、何だか安心できるんですもの」
「俺はお前の護衛じゃねぇ」
「じゃあ友達でもいいです」
新左衛門が肩をすくめる。
「鉄斎、もう諦めろ。嬢ちゃんの目を見ろよ、聞く耳持たねぇぞ」
鉄斎は深いため息をついた。
「……で、お前の親父は娘が勝手に家出してるのを知ってんのか」
「さぁ……ばれてないと思います」
「思います、じゃねぇだろ」
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三人で歩きながら、鉄斎は考えていた。下総古河藩――江戸詰めの家老格の娘となれば、何かあれば大騒ぎになる。まして江戸の裏通りで絡まれるような事態になれば、鉄斎自身にも火の粉が降りかねない。
しかし、さくらの様子を見れば、恐怖よりも好奇心が勝っているのは明らかだった。護衛に囲まれて過ごす生活に飽き、江戸の雑踏や喧嘩沙汰までも「面白い」と思っている節がある。
「……お前な、武家の娘ってのはな、下町じゃカモにされるんだよ。懐が分厚いと思われりゃ、すぐ付け狙われる」
「だから鉄斎さんがいれば安心です」
「話を聞け!」
新左衛門は笑いをこらえきれず、腹を抱えた。
「ははは! 鉄斎、完全に嬢ちゃんの手のひらだな」
「黙れ」
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夕暮れ、長屋に戻る頃になっても、さくらは帰る気配を見せなかった。鉄斎が戸を開けると、当然のように中へ入り、湯飲みを勝手に取り出して茶を飲み始めた。
「ここ、居心地いいですね」
「……勝手に住み着く気か」
「いいんですか?」
「良くねぇ!」
それでも、笑顔で座っているさくらを前に、鉄斎は再び深くため息をつくしかなかった。
自由気ままな武家の娘――その存在は、これから先、江戸での彼の生活に大きな波を立てることになるのだった。




