荒くれ者 崇人
昼下がりの江戸。町のざわめきの中に、妙な緊張が漂っていた。
「おい、また出たぞ……」
噂が早い。火急の知らせを持った町人が息を切らせながら通りを走る。名を聞けば、崇人――元武士にして剣術大会優勝の猛者。だがその剣は今、腰に無い。理由は単純、素手で暴れまわっているからだ。
鉄斎はその知らせを耳にし、静かに立ち上がった。
「下戸のくせに素面で暴れるとは、よほど質が悪い」
横で茶を啜っていた片桐新左衛門が眉をひそめる。
「宏典様から護衛を任された身としては、あまり行ってほしくはないが……」
「護衛じゃなくて監視だろ」鉄斎は苦笑し、刀を帯びたまま町へ向かった。
やがて、怒号が響く辻へと辿り着く。
そこには背丈六尺近く、肩幅も広い大男が、通りすがりの男を投げ飛ばし、商人の荷車を蹴り倒していた。
「あれが……崇人か」
鉄斎が呟くと同時に、崇人の視線が鋭く突き刺さる。
「おい……てめぇが鉄斎か」
「そうだ。手配されているのを知っているか」
「知ってるさ。だから何だ?」崇人は不敵に笑い、拳を構える。「剣はいらねぇ。素手で来い」
鉄斎は刀の柄に添えた手を離した。
「いいだろう。俺もお前がどれほどのものか試してみたい」
次の瞬間、崇人の拳が空を裂いた。速い――しかも重い。鉄斎は寸でのところで避けたが、風圧が頬をかすめた。打撃一発で人を沈められる男だ。
「ほぅ……これは面白い」
だが避け続けられるほど甘くはない。二撃目、三撃目が容赦なく襲いかかる。腹に重い衝撃が走り、肺の空気が一瞬で抜けた。
「がはっ……!」
崇人は畳みかけるように顔面を狙う。鉄斎は腕でガードしたが、その衝撃で肋がきしんだ。
「打撃じゃ勝てねぇ……!」
鉄斎は一瞬距離を取り、体勢を低くした。崇人の突進に合わせて腰を捻り、肩口を掴む。相撲の投げ――掛け投げだ。だが崇人は踏ん張った。まるで根の張った大樹のように動かない。
「おらぁッ!」
鉄斎は逆に膝を払うと同時に、柔術の体捌きで背後に回り込み、崇人の首に腕を絡めた。崇人は抵抗するが、空気を奪われ徐々に動きが鈍くなる。
「ぐっ……ぬぅ……!」
最後は崇人の体重を利用し、背負い投げで地面に叩きつけた。土煙が舞い、周囲が静まり返る。
鉄斎は膝をつき、肩で息をしながら崇人を押さえ込んだ。
「終わりだ、崇人」
崇人は唸り声を上げたが、力尽きて動かない。
奉行所への護送の道中、鉄斎は自分の肋骨の痛みを確かめた。呼吸の度に鈍い痛みが走る。鼻も折れているのは分かっていたが、それ以上に崇人の打撃の重さが脳裏に焼き付いていた。
「素手でこれか……もし刀を持っていたら……」
新左衛門が横で呟く。「次は刀で挑みたいとでも言うつもりか」
「……まさか。だが、面白い相手だった」
奉行所に着くと、役人たちは崇人の姿を見て息を呑んだ。
「またお前か……」
崇人は不敵に笑うだけだった。鉄斎が差し出した手配書と照合し、捕縛は正式に成立。
「刑は三カ月の牢生活だ」奉行所の役人が冷たく言い渡す。
崇人は肩をすくめ、「三カ月で済むなら安いもんだ」と吐き捨てた。
鉄斎は奉行所を出ると、額の汗を拭った。痛む肋と鼻を押さえながらも、心の中では妙な高揚が残っていた。あれほどまでの体術の遣い手は滅多にいない。
「……またどこかでやり合うことになるかもしれんな」
新左衛門は呆れ顔で、「次は怪我を減らしてくれ」と言った。
江戸の空は茜色に染まり、戦いの熱気を冷ますかのように涼しい風が吹いていた。




