木口という放火犯
江戸に戻って、わずか二月。
鉄斎は再び、街の空気がざわついているのを肌で感じていた。
風が冷たいのに、人々の声は落ち着かず、どこか怯えを含んでいる。
「また悪人が暴れているらしいな」
路地で耳にした噂を、鉄斎はそのまま新左衛門に告げた。
「ええ。名は木口。れっきとした武士ですが……乱暴者で、酒が入ると手が付けられない。殴る、蹴るは日常茶飯事。ですが、それだけならまだしも……」
「放火か」鉄斎が口を挟む。
「そうです。仕立て屋が『ツケではできない』と言っただけで、店ごと燃やしたと」
新左衛門の眉間に深い皺が刻まれた。
奉行所も動けずにいた。木口の後ろには、大藩の力がある。下手に手を出せば、自分たちが処分される。
そこで白羽の矢が立ったのが、鉄斎だった。
「なるほどな。俺がやれば、奉行所の首も飛ばずに済むってわけか」
「頼みます」
鉄斎は短く笑った。
「任せろ」
◆
夕刻。酒の匂いの漂う裏通りを、鉄斎はゆっくりと歩いた。
ほどなく、賑やかな声が耳に届く。
「おう! もっと持ってこい!」
木口だった。髷は乱れ、顔は真っ赤。酔いのせいか、周囲の町人を押しのけながら通りを歩く。
鉄斎は真正面から立ちはだかった。
「木口だな」
「……なんだ貴様は」
その声には既に酒の棘があった。
「お前を奉行所へ連れて行く。来い」
木口は鼻で笑い、手を伸ばして鉄斎の胸倉を掴もうとした。
その瞬間、鉄斎の拳が音を立てて木口の顎を撃った。
巨体が宙を舞い、土埃を上げて倒れる。
通りの空気が一変した。
「お、おお……」
町人たちが息を呑む。
鉄斎は動けぬ木口の襟首を片手で掴み、ずるずると引きずって歩き出した。
「おい、奉行所まで道を空けろ」
◆
その夜。奉行所の広間には、鉄斎と木口が並んでいた。
奉行は長い沈黙のあと、低く言い放つ。
「木口、放火は重罪。まして武士たる者が理由なく火を放つなど……火炙りの刑に処す」
木口は酔いも醒め、青ざめた顔で叫んだ。
「ま、待て! 俺は――」
その声を遮るように、広間の外で松明の炎が揺れる。
奉行所の役人たちが無言で木口を引き立て、夜の闇へと連れ去った。
炎が夜空を赤く染め、ぱちぱちと木がはぜる音が響く。
町人たちは遠巻きに見つめ、誰一人として言葉を発しなかった。
鉄斎は背を向け、静かに歩き出した。
背後で燃え上がる光を受け、影が長く路地に伸びていった。




