関所破りと手形の意味
夜――城の奥の離れに、酒の匂いと笑い声が満ちていた。
鉄斎と宏典は床几に腰を下ろし、膳の上には肴と徳利が並ぶ。
「おい宏典、もう十年は会ってなかったんじゃないか?」
鉄斎が杯を傾けながら笑う。
「正確には十一年だ。お前が江戸へ出た年、俺はまだ十七だった」
宏典はゆっくりと酒を口に運び、目を細めた。
「そうか……あれから随分経ったな」
二人の間に、しばし沈黙が落ちる。炉の炭が小さく弾け、火の粉が舞った。
やがて宏典が、何気ない口調で言った。
「……実はな、あの時――お前が江戸へ行くと決めた時のことだ」
鉄斎が眉を上げる。
「なんだ?」
「藩主に手形を発行させたのは、俺だ」
鉄斎は杯を置き、半ば呆れたように笑った。
「はぁ? そんなもんいらねぇよ。俺なら関所くらい破れる」
宏典は真顔で続ける。
「破れば、お前は牢だ。そして結局、三河に引き戻される。……そうならないために、俺は父上を説得し、お前の父上にも頭を下げた」
鉄斎は一瞬、言葉を失った。
「……そうだったのか」
「お前の父上は相当渋ったぞ。『あれは跡取りだ、出すわけにはいかぬ』とな。だが、俺は言った。鉄斎が江戸で何をするか、それは必ずこの藩のためになると」
鉄斎は黙って酒を注ぎ足した。
「……借りができちまったな」
宏典は軽く笑って首を振る。
「借りだなんて思うな。俺は俺のやり方で、お前に動いてほしかっただけだ」
鉄斎はしばらく宏典を見つめ、やがて真剣な声で言った。
「……ありがとうよ」
宏典は杯を掲げる。
「礼はいらん。ただ、十年後に死なずにここへ帰ってくる。それで十分だ」
「上等だ」鉄斎は杯を合わせ、酒をあおった。
その後は城下町へ繰り出し、二人は夜の街を渡り歩いた。
居酒屋の暖簾をくぐれば、鉄斎は「今日は俺の奢りだ!」と声を張り、宏典は苦笑しつつも杯を受け取った。
焼き鳥を頬張り、煮込みをつつき、店を三軒も回る頃には、二人の笑い声は通りを賑わせた。
「おい鉄斎、覚えてるか? あの川原で剣の稽古して、お前が俺の木刀を折った日」
「忘れるかよ。あれ、わざとだ」
「やっぱりか!」
「お前こそ、俺の弓を勝手に持ち出して城の壁に矢を射ったろ」
「あれは……的が欲しかっただけだ」
「城の壁が的か!」
酒と笑いが尽きることはなく、気づけば夜明け前。
二人は千鳥足で町を歩き、空が白み始める頃、鉄斎がぽつりと言った。
「……悪くねぇな、こういうのも」
宏典は空を見上げたまま答えた。
「ああ。だが、次は十年も空けるなよ」
――こうして、久々の再会は朝まで続いた。
◆
その後、一週間ほどの滞在で、父は少しずつ回復した。
まだ杖を手放せぬものの、廊下をゆっくりと歩けるまでになった姿を見て、鉄斎は安堵した。
ある朝、縁側で父が声をかけてきた。
「……江戸へ戻るのか」
「ああ。もう大丈夫だろう」
父はしばし黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「無理はするな」
鉄斎は笑みを浮かべる。
「お前こそな。役職は継がねぇが、病気は治せ」
そう言い残し、荷をまとめ、馬に跨った。
門前で振り返ると、宏典と父が並んで立っていた。
鉄斎は軽く手を上げ、馬の腹を蹴って江戸への道を進み始めた。




