帰省は気が重い
江戸を発ったのは、まだ冬の名残が空気に混じる頃だった。
鉄斎と新左衛門は二頭の栗毛に跨がり、東海道を西へと進む。
旅はおよそ二週間。
日中は冷えた風を正面から受け、夜は宿場で粗末な膳を囲んだ。
新左衛門は寡黙で、鉄斎もほとんど口を開かない。馬の蹄音と川のせせらぎ、遠くで吠える野犬の声だけが、道中の音となった。
十日目を過ぎるころ、街道の景色は次第に馴染み深いものへと変わっていった。
遠くに見える三河の山並み、田畑を区切る低い石垣、そして湿った土の匂い。
鉄斎は無意識に手綱を強く握った。懐かしさというより、胸の奥に燻る何かが疼く。
屋敷に着いたのは曇天の夕刻だった。
門前には古くから仕える下男が立ち、驚きと喜びが入り混じった顔で出迎えた。
「鉄斎様……お帰りなさいませ」
その声に、鉄斎は軽く頷くだけだった。
父は寝所にいた。障子を開けると、かつて威風堂々としていた男の姿はそこになかった。
白髪が増え、頬は削げ、体は布団に沈み込むように横たわっている。
鉄斎の顔を見るなり、父の目が潤んだ。
「……鉄斎か」
その声はかすれ、弱々しかった。
父は震える手を伸ばし、鉄斎の手を握った。
「すまなかった……」
唐突な謝罪に、鉄斎は言葉を失った。
父は続けた。
「お前には……過度な期待をかけた。跡取りとして立派に育てるため……わざと厳しくした。だが、それがどれほどお前を傷つけたか……今なら分かる」
涙が一筋、枯れかけた頬を伝う。
「儂は……父として間違っていた」
鉄斎はしばらく沈黙した。
幼き日から浴びせられた叱責、認められぬ悔しさ、押し潰されそうな重圧――それらが胸の中を渦巻く。
だが、目の前の父は、もはや権威の象徴ではなく、一人の老いた男だった。
鉄斎は深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「……もういい。俺は恨んでなどいない」
父の目が見開かれる。
「だが、役職は継がん。俺は江戸で生きる」
そう言い切った声には、迷いはなかった。
「だから……まずは病を治せ。元気になれ。それが、俺にできる唯一の願いだ」
父は嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。
鉄斎はその手を強く握り返した。
滞在三日目の午後、鉄斎の帰郷の噂が領内に広がった。
その夜、藩主からの使者が屋敷を訪れる。
「藩主様がお呼びです。明朝、城にお越しくだされ」
使者は深々と頭を下げた。
鉄斎は静かに頷いた。
城に呼ばれる意味は分からない――だが、避けることはできない。
その夜、鉄斎は寝所で長い時間、天井を見つめていた。




