鉄斎の決心
夜の江戸は静まり返っていた。
鉄斎の長屋には、わずかな灯りが揺れている。
卓の上には徳利が三本、半ば転がるように置かれ、空の盃が乱雑に散らばっていた。
鉄斎は膝を崩し、壁にもたれかかっていた。頬は紅く、目は据わっている。
「……帰れだと?」
誰にともなく呟き、笑った。だが、その笑いはすぐに苦味を帯びた。
父――あの男の顔が浮かぶ。
どれほど稽古に励もうと、どれほど剣の腕を上げようと、ただ一言の褒め言葉もなかった。
「所詮、お前は出来損ないよ」
幼き日の耳に焼き付いたその言葉は、いまだに心の奥底を抉る。
家の方針も嫌いだった。血筋に従い、役目を継ぎ、決められた枠に収まる――それが武家の正道だと言われても、鉄斎には鎖にしか感じられなかった。
もし三河に戻れば、父の代わりに役職を継ぐことは目に見えている。
「それが嫌で出てきたんじゃねえか……」
しかし、酔いの中にも、わずかな迷いが頭をもたげる。
死に目に会えぬまま父が逝く――その時、自分は何を思うのか。
憎しみだけで片が付くのか、それとも取り返しのつかぬ後悔が残るのか。
盃をあおり、舌打ちをした。
「クソ……どうでもいい……」
徳利を掴み、最後の一滴まで飲み干す。
視界が滲み、頭が揺れ、やがて鉄斎は卓に突っ伏したまま、深い眠りへと落ちた。
――翌朝。
戸口を叩く音で、鉄斎は目を覚ました。
頭は重く、口の中は鉄のような味がする。ふらつきながら戸を開けると、そこに新左衛門が立っていた。
「……朝っぱらから何の用だ」
声は掠れ、顔には昨夜の酒が残っている。
新左衛門は眉を寄せたが、静かに言った。
「もう一度だけ、話を聞いてほしい」
長屋の中に招き入れると、新左衛門は座敷に腰を下ろし、真正面から鉄斎を見据えた。
「鉄斎殿……あのままでは、きっと後悔します」
「……何を後悔するってんだ」
「親子というのは、そういうものです。嫌いであっても、憎んでいても、死んでしまえば二度と会えない」
鉄斎は視線を逸らした。昨夜の思いが再び頭をよぎる。
新左衛門は続ける。
「一度だけでいい。ほんの短い滞在でも構わない。顔を見せるだけでも、お父上は……いや、お母上は必ず喜びます」
その言葉に、鉄斎の胸の奥で何かが揺れた。
昨夜は酒で押し潰そうとした感情が、じわりと浮かび上がってくる。
「……一度だけだぞ」
鉄斎は低く言った。
「戻ったら、すぐ江戸に帰る。それでいいか」
新左衛門の表情が緩んだ。
「ええ、それで構いません」
鉄斎は深くため息をつき、盃の代わりに冷水を口に含んだ。
胸の中にはまだ迷いが残っていたが、それでも――三河へ向かう決意だけは、固まっていた。




