三河からの使者
その日、冬の陽は薄雲に覆われ、江戸の町は昼なお冷え込んでいた。
鉄斎は奉行所での用を終え、表門を出たところで、不意に名を呼ばれた。
「……鉄斎殿!」
声の方を振り向くと、裃を着た男が駆け寄ってくる。
面差しに覚えがあった。
「おお、これは……片桐か」
片桐新左衛門――三河の郷里で、幾度か剣を交えたことのある同輩だ。かつては共に城下で稽古に励んだ仲である。
新左衛門は、息を整える間もなく口を開いた。
「お会いできて良かった……実は、三河からの使いで参ったのです」
その声音には、任務だけではない、どこか個人的な焦りが滲んでいた。
鉄斎は黙って続きを促す。
「ご両親が……特に、お父上がご病で伏せっておられる。近頃は床から起き上がることもままならぬと」
言葉を選びながらも、新左衛門は真剣な眼差しを向けてきた。
「お母上も心配しておられます。せめて一目、顔を見せて差し上げては――」
鉄斎の胸に、重く冷たい何かが沈んだ。
父の厳格な声、母の柔らかな笑顔――遠い日々の景色が、不意に蘇る。
しかし、その情景はすぐに、あの日の決裂の記憶と共にかき消された。
「……帰るわけにはいかん」
鉄斎は静かに答えた。
新左衛門は目を見開く。
「なぜです? 親子の仲に、あれほどの隔たりがあるとは思えぬが」
鉄斎はしばらく口をつぐみ、やがて低く言った。
「俺は、この江戸で果たすべきことがある。まだ途中だ。……それに、帰ればまた、家の方針に縛られる」
郷里を出た理由――武家として定められた道を歩むことを拒み、己の意思で剣を振るうため、家を背にした。
あの家に戻れば、再び同じ枠に押し込まれることは、目に見えている。
新左衛門はなお食い下がる。
「しかし、お父上は……」
「分かっている」
鉄斎はその言葉を遮った。
「だが、俺は今さら、あの家の倅に戻るつもりはない。三河の鉄斎ではなく、江戸の鉄斎として生きている」
沈黙が二人を包んだ。
通りを行き交う町人たちの笑い声が、やけに遠くに感じられる。
新左衛門はやがて、深く息をつき、視線を逸らした。
「……承知しました。お伝えすることは、致しました」
鉄斎はその横顔に、わずかな痛みを覚えた。
友は、きっと自分を責めるつもりはない。それでも、遠い故郷の風が、二人の間に冷たく吹き込むようだった。
「新左衛門」
鉄斎は小さく呼びかけた。
「親には……すまぬと、そう伝えてくれ」
それ以上、言葉は続かなかった。
新左衛門は頷き、踵を返す。その背中が人波に消えていくまで、鉄斎は立ち尽くしていた。
胸の奥には、言いようのない空虚さが広がっていたが、それでも――彼は振り返らなかった。




