敏也という骸骨
港に冷たい風が吹いていた。
冬の海は鉛色に沈み、寄せては返す波の音が、何処か人の嘆きに似ていた。
鉄斎は、その日も奉行所の用で港を訪れていたが、桟橋の片隅で一際貧しげな一団が集められているのを見つけた。
そこには、粗末な縄で縛られた数名の罪人が、護送役人の監視の下、黙々と船を待っていた。
その中の一人を見て、鉄斎は思わず足を止めた。
骸骨のように痩せた男――敏也だった。狂路が仕切っていた盗品市で顔を見たことのある、あの若者だ。
彼の身なりは、哀れというほかなかった。着ているものは、継ぎ接ぎだらけの薄い布。防寒どころか、寒風を素通しにしている。足元は草鞋さえ片方が欠け、裸足の指が凍えて赤黒くなっていた。
傍らの役人が名簿を読み上げる声に、敏也が小さく返事をする。その声はかすれていて、もはや海の音に消え入りそうだった。
鉄斎は思わず歩み寄り、役人に声を掛けた。
「この男、島流しか?」
「そうだ。狂路と同じくな」
役人は吐き捨てるように言った。
鉄斎は眉を寄せる。狂路――本名、松野恭次郎。あの大名家の三男は、つい先日、この同じ港から島流しにされた。だが、その時の姿はどうだ。上等な羽織を纏い、供を連れ、荷物も山と積まれていた。
それに比べ、この敏也の姿は――。
鉄斎の視線を察したのか、役人が薄く笑った。
「身分が違えば扱いも違うさ。こいつは孤っ子上がりの盗人。お供なんぞつける義理もねえ」
敏也は鉄斎に気づき、ゆっくりと顔を上げた。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、その瞳の奥には生気の欠片もない。
「……鉄斎さん、ですか」
「そうだ。お前も島へ行くのか」
敏也は小さく頷いた。
「仕方、なかったんです。……あの盗品市で、働かされて……」
声は震えていたが、言い訳をする響きはなかった。ただ、冷え切った冬の空気が二人の間を通り過ぎた。
やがて船が到着し、役人が縄を引く。敏也はふらつきながらも歩を進めた。
鉄斎はその背を見送りながら、ふと胸の奥に重い塊を覚えた。
同じ罪――同じ刑罰――しかし、出立の姿はこれほどまでに違う。
松野恭次郎は笑みさえ浮かべて船に乗り、敏也は風に削られながら、今にも倒れそうな足取りで板橋を渡っていく。
***
港の出来事から一月ほど経った頃、鉄斎は奉行所の廊下で噂を耳にした。
「この前、島流しの護送中に死んだ奴がいてな……」
「ほう、病か?」
「いや、餓えだとよ。飯は与えられてたらしいが、元々骨と皮だけだったそうでな。寒さと疲れで持たなかったんだ」
鉄斎の胸がざわついた。名を確かめると、それは――敏也だった。
鉄斎は言葉を失った。
あの日の港で見た背中、枯れ枝のような腕、凍えた指先。それらが脳裏に蘇る。
生まれも家柄もない男の末路が、こうしてあまりにもあっけなく訪れたのだ。
鉄斎はしばし、廊下の窓から冬空を見上げた。
同じ船に乗るはずだった狂路は、きっと今も供と共に、それなりの暮らしをしているのだろう。
敏也は、ただ一人、冷たい海風と粗末な飯に晒され、最後は護送船の上で息を引き取った――その差を思うと、胸の奥に鈍い怒りが灯った。
しかし鉄斎は、その怒りを吐き出すことはなかった。
彼は知っていた。この江戸の世では、身分が人の生死をも左右することを。
そして、それに抗う術はほとんどないということも。
潮の匂いが、遠くから微かに漂ってきた。
鉄斎は、あの日の港の景色を思い出しながら、静かに目を閉じた。




