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狂路=松野恭次郎

港の朝は、潮の匂いと船大工の槌音に満ちていた。

 鉄斎は奉行所への用事の帰り、何とはなしに港を歩いていた。

 その時だった。桟橋の先で、軽やかな笑い声が耳に届く。


 視線を向ければ、黒羽織を纏った男が数名の供を従え、悠然と船を待っている。その顔を見た瞬間、鉄斎は足を止めた。――狂路。

 つい数日前まで、奉行所の牢に入っていたはずの男だ。だが今、彼の手足には縄ひとつ掛かっていない。むしろ、身なりは捕物前よりも整い、供の者と談笑している有様だった。


 鉄斎は歩み寄り、声を掛けた。

 「随分と、のびのびしているじゃないか」

 狂路は振り返り、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を歪めて笑った。

 「おやおや……これは鉄斎殿。見送りに来てくれたのか?」

 「見送りのつもりはない。だが、これが島流しの身か?」

 皮肉を込めた鉄斎の言葉に、狂路は肩をすくめる。


 「島流しは島流しだ。ただ……少し事情が違う」

 その声音には、隠しきれぬ自嘲が混じっていた。鉄斎は目を細める。

 「事情?」

 狂路はしばし視線を海へと向け、波間を行く船を眺めてから、静かに口を開いた。

 「俺は……松野恭次郎という。下総松野家の三男だ」

 鉄斎は眉をひそめた。松野家――十万石を領する大名家。その名は、江戸に生きる者なら誰もが知っている。


 「……大名の子、だと?」

 「そうだ。もっとも、俺は跡目にも家中の役目にも興味がなかった。剣や政務よりも、世の裏を渡り歩く方が性に合っていた。それで家を飛び出し、江戸で好き勝手にやってきたわけだ」

 狂路は、潮風を受けながら笑った。その笑みには、誇りとも諦めともつかぬ色があった。


 鉄斎は口を閉ざしたまま、彼を見据えた。

 同じ武家の出――だが、鉄斎の生家は中老職を務めるとはいえ、所詮は譜代家臣の一角。家の意向に逆らえば、勘当か浪人の道しかない。

 対して狂路は大名家の血筋。罪を犯しても、島流しは形ばかりのもので、こうして供を伴い、礼装で船出できる。


 「身分というのは、こうも違うものか……」

 鉄斎は心中で呟いた。思えば、自分も家の方針に背いて江戸へ出た身だ。だがその先にあったのは、裏稼業と死闘の日々。狂路のように、余裕ある逃避行など許されなかった。


 狂路が不意に問いかけた。

 「鉄斎殿……あんたも、家を飛び出した口だろう?」

 「……そうだ」

 「なら分かるはずだ。刀を帯び、礼儀作法に縛られ、息をするように虚飾をまとい……そんな暮らし、耐えられるものか」

 鉄斎は答えなかった。ただ、潮風が二人の間を通り過ぎた。


 やがて港の鐘が鳴り、船頭の声が響く。

 「出港だ!」

 狂路は供を伴い、桟橋を進む。去り際、振り返りもせずに言った。

 「この世は、力だけじゃ渡れぬ。だが、身分だけでも渡れぬ。俺たちは……どちらも中途半端だったのかもしれんな」


 鉄斎は、その背を黙って見送った。

 大名の子としての誇りと、江戸の闇を泳いだ男の生き様が、狂路の姿に重なって見えた。そして同時に、自分の境遇と重なる影もあった。

 船が岸を離れ、やがて沖へと溶けていく。


 鉄斎は、潮の香りを深く吸い込んだ。

 「……俺は俺の道を行く」

 呟きは波音にかき消され、港には再び日常の喧騒が戻っていった。


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