光次という盗人
江戸の空は、梅雨明けの陽に白く霞んでいた。
鉄斎は浅草寺裏の茶屋で湯呑を置き、無言で立ち上がる。袴の紐には、手入れの行き届いた脇差一本。背には竹籠。中には縄、猿轡、そして数枚の証文。
——馬泥棒の光次。
昨夜、吉原近くで酔い潰れた浪人から馬を奪い、北町奉行所の目を逃れ、まだ市中に潜んでいる。
鉄斎にとっては顔馴染みの悪党だ。盗みと暴れで三度も牢に入ったが、まだ首を刎ねられていない。運がいいのか、牢屋の中でも賄賂を撒ける程度には稼ぎがあるらしい。
「今日で運も尽きるぞ、光次」
心の中で呟き、鉄斎は茶代を置かずに歩き出した。茶屋の娘が眉をしかめるが、気づきもしない。
昼下がり、浅草の材木町。河岸で荷揚げする人足に混じって、茶褐色の小柄な男が馬を引いていた。
汗に濡れた襦袢の裾から、白い足袋が覗く。その足袋には、江戸市中ではまず見ない野良道の泥。
鉄斎は路地の影からゆっくり近づいた。
「おい、光次」
振り向いた瞬間、男の目が魚のように泳ぐ。次の瞬間には馬の尻を叩いて逃げようとした。
しかし、鉄斎の右手は既に柄を握っていた。刀を抜かず、鞘で顎を打ち、光次の体勢を崩す。
地面に転がったところへ、竹籠から縄を取り出すと、ためらいなく両腕を縛った。
「町方に引き渡す。お前の顔も、もう飽きた」
光次は呻くだけで、もがこうともしなかった。
鉄斎は縄の端を掴み、馬と男を同時に引き連れて、材木町を後にした。足音は乾いた土を踏みしめ、夏の蝉声に溶けていった。
北町奉行所の白壁が見えるころには、陽は頭上に差しかかっていた。
門の前にいた同心が、鉄斎と縛られた光次を見るなり、呆れたように鼻を鳴らす。
「またお前か、鉄斎。……で、そいつもまた光次だな」
「他に似た顔はおらんだろ」
鉄斎は短く答え、縄の端を同心に渡した。光次は唇を噛み、何も言わない。
奉行所の奥、詰所に通されると、帳場にいた与力が面倒くさそうに記録を書き始めた。
「馬泥棒、三度目か。……牢から出て一月と経たぬうちに、またか」
鉄斎は黙って懐から布包みを出し、畳の上に置く。
布の中には馬具、革の手綱、そして油にまみれた小さなソロバン。
「こいつの余罪だ。昨日、神田の商人が盗まれたと言っていた。証文もある」
与力は眉を上げたが、すぐに口を歪める。
「なるほどな……これで情状酌量も効かん。奉行様も匙を投げるだろう」
形式的な証言と引き渡しの手続きが済むと、奥から小判が十枚入った小袋が差し出された。
「馬一頭分と余罪の分、合わせてこれだ。……江戸じゃ悪くない額だろ」
小判十枚──米なら三人家族が一年暮らせるほど。鉄斎は袋の重みを掌で確かめ、軽く会釈するだけで腰に提げた。
その日の夕刻、町の片隅で、光次は木戸をくぐり刑場へと引き立てられた。
罪状は「馬泥棒並びに窃盗多数」。
見物人のざわめきの中、光次は青白い顔で空を仰ぎ、何か呟こうとしたが、槍衆が首を押さえた。
刃が振り下ろされると、夏の蝉声が一瞬だけ途切れた。
奉行所の帳場では、与力が無造作に処刑記録を書き付ける。
「……鉄斎の持ち込みも、これで四度目か。次は誰になるやら」
その頃、鉄斎は路地裏の酒肆で冷や酒を傾けていた。
賞金袋はまだ腰にある。
「日銭、日銭……」
小さく呟き、盃を置くと、もう次の獲物の顔を思い浮かべていた。