喧嘩最強の秀次
秀次――名を聞けば、江戸の町では笑い話になる。自称「喧嘩最強」、だがその実力は女子供や老人から金を巻き上げる程度のチンピラ。鉄斎も何度か目撃していた。
ある日、町角の小さな広場で秀次が騒いでいた。幕下の相撲取りが通りかかると、秀次は「俺が最強だ!」と胸を張った。
しかし結果は酷いものだった。相撲取りの一撃で地面に叩きつけられ、泣きながら許しを請う。鉄斎は遠くからその情けない姿を見て、つい苦笑したものだ。
だが、秀次の本性はもっと危険だった。
ある夜、彼は老人から金を巻き上げようと近づいた。
だが老人は思いの外しぶとく反撃し、秀次は激昂。怒りに任せて老人を痛めつけた。その結果、老人は意識を取り戻さなくなった。
奉行所には手配書が出され、しかも老人の親族からは捕まえた者に報奨金が出るとの話。
鉄斎は頷いた。
――こんな上手い話は滅多にない。動くなら今だ。
鉄斎は静かに足を運ぶ。秀次を捕まえるための縄を握り、胸の奥で冷たく計算した。
「お前の喧嘩最強は、俺が見せてやる――本物の強さってやつをな」
月明かりの下、鉄斎の影が路地に伸びる。
秀次の逃走は、今夜で終わることになる――そんな予感だけが、冷たい夜風に揺れていた。
夜の江戸は静まり返っていた。街灯のない路地に漂う湿った風は、商人の寝息や、遠くの川のせせらぎにかき消されるほどだった。鉄斎は、歩を進めるたびに石畳を踏みしめ、耳を澄ませていた。すると、突然、どこからか怒声が響いた。
「てめぇ、金をよこせ! 文句あんのか、老いぼれが!」
声の方向へ足を向けると、灯火の揺れる裏路地で、秀次が老人を取り囲んで脅していた。手配書にも名前の載る男が、再び同じ悪事を繰り返している。
鉄斎は深く息を吐き、声をかける。
「秀次。ここで何をしている」
秀次は振り向き、眉を吊り上げた。子分二人を従え、口元に笑みを浮かべている。
「鉄斎か。面白い、喧嘩で俺に勝てたら奉行所にでも連れていけ」
口だけは達者だ。鉄斎は短く鼻を鳴らし、覚悟を決めた。
「ならば勝負だ。手加減はせぬ」
路地の空気が張り詰める。鉄斎は拳を握りしめ、秀次に近づいた。
最初の一撃。鉄斎の左腕が秀次の腹を打つ。息を詰めて倒れる秀次。子分はすぐに駆け寄るが、鉄斎の拳は止まらない。
秀次は子分を使って反撃してきた。だが、三人がかりになっても所詮は口先だけ、実戦経験のない輩だった。鉄斎の体術と組技に、彼らは翻弄される。組めば宙を舞い、殴れば一撃で倒れる。まるで藁人形を相手にしているようだった。
「お前ら……弱すぎる」
鉄斎の低い声が路地に響く。
やがて、怒声と惨叫を聞きつけた近隣の住人も集まり、騒ぎは大きくなる。秀次の顔には焦りの色が浮かび、子分たちは怯えてうろたえた。だが逃げ場はない。鉄斎の影が三人を包み込み、ついに三人は地面に膝をつかされる。
鉄斎は縄を取り出し、三人を縛り上げる。秀次は悔しそうに歯を食いしばるが、抗う力は残っていない。路地の月明かりが、三人の倒れた影を長く伸ばした。
翌朝、三人は奉行所に引き渡された。手配書と町人たちの証言、そして昨夜の騒動の目撃談が揃っており、奉行所は余罪を精査する。秀次と子分たちは、これまでに女子供や老人から巻き上げた金品も計上され、想像以上に罪が重いことが判明した。
「島流しに処す」
奉行の判決は、簡潔かつ冷酷だった。三人は互いに顔を見合わせ、声もなく俯く。江戸を離れ、遠く離れた流刑地へ送られることが決まったのだ。
鉄斎はその場に立ち、目を細めた。
――手を出すなら手ごたえがある者とだけ決めていたが、奴らのような口先だけの輩も、やはり放置はできぬ。
勝手に人を痛めつけ、町に不安を撒き散らす者には、相応の報いを受けさせる。それが俺の道だ。
外へ出ると、朝日が淡く江戸の屋根を照らしていた。路地の石畳には、昨夜の騒ぎの跡が微かに残る。鉄斎はゆっくりと足を進め、また別の夜回りを心に決めた。




