鉄斎の苦悩 遥か彼方の三河を想う
夜はすでに深く、路地の石畳には月光が滲み、酒場の暖簾から漏れる灯が黄色く揺れていた。
鉄斎は、盃を持つ手を何度も口に運んでは、味のない吐息を漏らしていた。今日の酒は妙に回る。いや、酒が強いのではない、己の心が脆くなっているのだ。
三河。
その地名がふと脳裏に浮かぶと、胸の奥がじりじりと焼けた。
――なぜ両親は、あれほど俺に厳しかったのか。
父は中老。藩の中枢に仕える役職。町人も下級武士も、一目置く立場だ。だが家に戻ればただの父であるはずなのに、その顔には常に職務の威厳が貼りついていた。
礼儀、作法、規律。
その全てを盾にして、俺の心を押さえつけた。
妹たちへの態度はどうだ。
まるで別人のように優しく、笑いかけ、時に小遣いまで与えていた。俺には一度たりとも見せぬ笑顔だ。
母も同じだった。
剣術や体術で師範代に勝ったときも、ただ眉をひそめ、「野蛮なことはやめなさい」と言った。
俺の才を誇るどころか、まるで恥のように扱った。
――一体、どこで間違えたのか。
生まれた家か。
それとも、この泰平の世に生まれたことそのものが間違いだったのか。
盃の底が空になるたびに、心の底から黒い水が溢れ出す。負の感情が頭の隅々まで満ち、視界の端が狭まっていくようだった。
ここに居続ければ潰れてしまう。鉄斎はふらつく足を引きずり、別の店へ暖簾をくぐった。
そこは煙と笑い声が渦巻く小さな酒場だった。だが、腰を落ち着ける間もなく、粗野な声が飛んできた。
「おい、そこの大男。さっきから何だ、その面。人の顔を睨んでやがるのか?」
酒の匂いと一緒に、絡む輩の吐息が鼻先にかかった。
普段なら、軽くあしらって終わらせる。だが今夜の鉄斎は違った。
心の中に溜め込んできた怒りと、理不尽への怨嗟が、すべてこの瞬間に噴き出した。
手にしていた酒瓶を振りかぶり、そのまま相手の頭頂部に叩きつけた。
鈍い音。瓶は割れ、酒と血が床に飛び散る。
倒れ込んだ男の顔に拳を落とす。何度も、何度も。拳の皮が裂け、骨に衝撃が響く感覚が快感にも似ていた。
周囲のざわめきも耳に入らない。ただ殴ることだけに意識が集中していた。
腰の刀に手をかけた瞬間、背後から腕をがっしりと掴まれた。
「鉄斎さん、やめろ! ここで斬ったらお前も終いだ!」
顔を上げると、そこには馴染みの店主の真剣な目があった。その瞳に射抜かれ、鉄斎はようやく我に返った。
荒い息を吐きながら、手を離す。周囲の客たちの顔が一斉に引き攣っているのが見えた。
――危なかった。あのままなら、本当に牢に入っていた。
翌日。
鉄斎は手拭いに包んだ小判を一枚、昨夜の店に置いていった。
店主は何も言わず、ただ受け取って頷いた。
夕暮れ、鉄斎は一人で川辺に立ち、夕日に染まる水面を見つめた。
昨日の怒りも、今日の後悔も、すべて水の流れに溶けて消えればいい――そう願いながら、黙って煙草に火をつけた。




