見栄っ張りの櫂斗
江戸の町は夏の湿気に包まれ、石畳に貼りつくような熱気が漂っていた。
鉄斎は、いつもの酒屋の主人から耳にした名前を反芻していた――櫂斗。二十五歳、背が高く、鼻の頭に小さな傷。軽口と笑顔で場を回すが、同時にどうにも鼻につく見栄っ張りだと評判だった。
「女にも男にも奢って、身を削って働く……そのくせ払わねぇとなると逃げ回る。おかしな奴だ」
鉄斎は煙草を吹かしながら呟いた。
櫂斗の噂は以前から耳にしていた。昼間は蕎麦屋で出前、夜は酒屋で配達。町の誰もが「あいつは働き者だ」と口にする一方で、裏では「無理してまで見栄を張る馬鹿」と笑っていた。
事件は、その蕎麦屋の出前の最中に起きた。
昼下がり、櫂斗は盆を抱えて急ぎ足で通りを渡ろうとしたところ、荷を背負った老人とぶつかり、老人を石畳に倒れさせた。腰を打ち、腕の骨まで折れる大怪我だったという。
本来ならその場で詫び、治療費を払えば済んだ話だ。しかし櫂斗は顔を引きつらせ、「急ぎの配達なんで」と言い残し、老人を置いて走り去った。
当て逃げ――その場に居合わせた町人が岡っ引きに通報し、櫂斗は捕まった。だが、そこからが悪かった。釈放後も治療費を払わず、老人の家族が何度催促しても、「今、手元が厳しいんだ」と言い訳ばかり。半年が過ぎ、奉行所はついに手配書を回した。
鉄斎は櫂斗の行き先を探り、まずは蕎麦屋に向かった。
「櫂斗ならとっくにクビですよ。あの野郎、借金踏み倒して夜も来やしねぇ」
店主は吐き捨てるように言った。代わりに耳に入ったのは、裏の賭場で働いているという噂だった。
賭場は表向きは米問屋の倉庫。夜になると戸板が外され、灯籠の明かりが漏れる。
鉄斎は足音を殺し、中の様子を覗いた。四角い卓を囲み、札や賽が飛び交う。掛け声と罵声、笑い声に混じって、酒と汗の匂いがむっと鼻を突く。
奥の隅、金を数えていた男――鼻の頭の小さな傷、間違いなく櫂斗だった。
「櫂斗」
低く声を掛けた瞬間、櫂斗は振り向き、目を見開いた。次の刹那、賽を放り出して走り出す。
「待て!」
鉄斎は追う。賭場の客たちが道を塞ぐが、肩で押しのけて進む。
櫂斗は表口ではなく裏口へ。だがそこは行き止まりだった。
縄が唸りを上げて飛ぶ。
櫂斗の首に掛かり、鉄斎がぐっと引き寄せる。櫂斗は喉を押さえて咳き込み、観念したように膝をついた。
「鉄斎さん、誤解だ、これは……」
「誤解かどうかは奉行所が決める」
短くそう告げ、縄を固く結んだ。
奉行所に引き渡された櫂斗は、最後まで「俺は悪くない」と言い張った。老人の治療費についても、「そもそもあっちがよろけてぶつかってきたんだ」と責任を他に押しつける始末。
しかし証言も証拠も揃っていた。奉行は冷ややかな目で櫂斗を見下ろし、「一年、牢に入って己を省みよ」と言い渡した。
牢の中へ連れて行かれる櫂斗の背を見送りながら、鉄斎は小さく鼻を鳴らした。
働き者であることは事実だ。だが、その働きも結局は自分を飾るためのもの。見栄のために稼ぎ、見栄のために散財し、最後には信用をなくす――そんな男の末路だった。
夜風が吹く。
鉄斎は奉行所を出て、いつもの酒屋へ足を向けた。盃を口に運びながら、あの縄の感触と櫂斗の息遣いが、妙に耳に残っていた。




