或る痴話
「私四十には死にたいわ」
寝台に腰掛けた女が、白い腕や首の肉感を部屋の薄闇に融け込ませて、そう呟く。円らな目元に収まった黒い瞳は、茫として古風な洋灯を見ている。隣に座る男が、女の横顔を眺めて、黙っている。そして女の濡羽色の長髪が、自分の腰の辺りまで垂れているのに気がついて、触れるかわからぬくらいに手をそっと添えてから、なんでだいと問う。
「だって私の曽祖母さんは、ずっと長く生きたけれど、チューブを胃に繋がれて、目を瞑って、ただじーっとしてたの。朝も昼も夜も、ずっと、それだけ。私、こう言っては何だけれど、怖かった。私は、大丈夫なうちに逝きたい」
男は手を後ろについて身を凭せながら、確かにそれは嫌だと思った。そしてふと女の目を見ると、悄然としているのに、顔の輪郭はむしろ凛としているから、もしかするとこの人は、この不均衡のせいで、四十と言わずもっと近いうちに、すんと死んでしまうのではないかと、心細くなった。そこで男が、そうすると僕が寂しいじゃないか、と言うと、女は微笑んで、ごめんなさいね、と言う。男は又、しかし怖くないのか、と聞いてみた。女は無邪気に、怖くないわ、私が私じゃなくなる方が怖いものと言う。男が、やっぱり僕より早く死ぬのかいと聞くと、女は静かに、そうね、と言う。
部屋の中には、ただ洋灯の仄かな灯りが生温く生きていた。その灯りは僅かな範囲にのみ及んで、灯りの届かぬ部屋の殆どの闇は、却って一層濃く見えた。敷布と女の髪が擦れる音が聞こえた。しかしそれは男の吐息の音かもしれなかった。
すると、女の瞳に映る洋灯が、すっと立体感を帯びてきた。それから瞳の中で輝きを増していき、不安定に揺らめいた刹那、女はつと振り返ってこう言った。
「いやよ、私、いや。元気なまま、死にたい。今が一番、良いの。お世話は要らない。お医者も、要らない。技術も、若さも、全部止まってしまえばいいわ」
男は笑って、肯いた。女を、慕わしく思った。それから丁寧に、女の髪をさらりと掬って、目を閉じて接吻した。女はそれを見て、きゅっと噤んでいた口元を緩ませて、安堵したように笑った。細くなった目から、涙が顎まで下りていた。男はそれを人差し指で拭ってから、女のいじらしい笑顔を見詰めて、この人より長く生きよう、と思った。